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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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バラの氷

 まるで落ち行く先を知らない滝のようだと、SYOUは思った。

 自分と、自分が繋がる心と肉の流れる先。

 それが上か、下かすらわからない。

 禁を破った、と自覚したのは実際に破ってからひと晩経ってからで、

 そこに至るまでは、ただむき出しになった、原始のような歓びだけがあった。

 歓び。悦び。

 喜悦。

 RAPTURE。奔流、激情、そして……


 もう終わりだ、ここが頂上だ、何もかもなくなっていい、という絶望的な至福と、

 自分の下で髪を振り乱している少女の息の根がこれで止まる。という妄想に、もうやめろ、という叫びと、そうなればいい、という狂気が重なった。

 きれいになりたい。きれいになりたい……

 エンドレスで続くかに思われた少女の嘆きはいつか消え、涙とともにSYOUの内に沈んでいった。そして青紫色の残響だけが残った。


 あいしてる。

 なにもかも食べつくして。

 何もなくなるまで愛して。

 わたしがあなたになるまで……


 バスルームからベッドに移って、長い長いキスを交わしたのち、ふたりは気絶するように眠りに落ちた。オルゴールで奏でる子守唄の音色がささやき声のように流れ込んできて、ふわふわした全身を血流のように二、三周巡ると、とぎれとぎれの意識を深い水底に引き込んだ。

 その瞬間、このまま永遠に目覚めが来なくてもいい、と思ったのが自分なのかリンなのか、もはや区別もつかなかった。




 きみがしんだら

 かき氷のように 透明なきみを削って

 しゃりしゃりと削って

 羽根のように軽く何枚も、なんまいも折り重ねて

 あまいあおいシロップをかけて

 とけてしまう前にぼくのものにしよう

 誰かに聞かれても、きみなんていなかったのだと

 何もなくなったガラスの皿を前に平然と言おう

 ガラスの皿にはバラの花が掘ってあって

 ぼくはそのバラのことしか知らないという

 ずっとこのバラしかみていなかったのだと

 だれにもわからない、きみがぼくのものになったなんて

 きみのことを忘れないなら、ぼくもいつかバラになれる

 ガラスの器にうがたれたバラのかたちの空洞になる

 ぼくらはもうどこにもいない

 どこにもいない

 いつまでも バラの氷の中に棲んでいる



挿絵(By みてみん)




再び目覚めたときは薄青い夕暮れの中で、部屋ごと海の底に沈んだようだった。

 ふと顔を上げて隣を見る。

 リンの姿はなく、冷たい生成りの皺の海だけがあった。

 SYOUは手元のガウンを羽織ると飛び起きてスリッパをはこうとし、シーツに足をとられてもつれ、そのまま床に倒れ込んで派手な音を立てた。

 上体を起こして体をぶつけるようにドアを開け、広いリビングダイニングに顔を出す。

 部屋の中には自分の歌が静かに流れていて、間接照明のぼんやりした灯りの中、絨毯の床に座ったリンが膝を抱えてじっとオーディオを見上げていた。

 長い髪を揺らしてこちらを見ると、にっこりと笑ってスピーカーを指差す。

 そのとき、リビングに続くキッチンから宝琴が顔を出した。

「あ、SYOU起きた。

 ラジオでね、いまこの歌が偶然流れてきて、そしたらリンがお部屋から出てきたの」

SYOUは二人の顔を見ると、ほうっと長いため息をついた。吐息とともに、体中の緊張が解けだしてゆき、足元から力が抜けた。


 そして三人で、食事の支度を始めた。

 リンはダイニングの椅子に座り、洗ったアボカドを剥きはじめた。

 長い白い指で、きいろい実を器用に皮から外し、小さな木のまな板の上で薄切りにして、絞ったレモンを振る。

 宝琴は鳥のむね肉に塩と酒を振り、しょうがの塊とねぎを添えて茹ではじめた。

 SYOUはフォークに刺したトマトを熱湯に入れた。ちぢんだ皮の端を掴んでつるりと湯剥きする。氷水に放すと、トマトの紅が一層鮮やかになる。

 馥郁(ふくいく)とした香りが室内に漂い、夕食の支度の平和な風景が、まるで何かの奇跡のように目の前に展開していた。

 それから静かに夕餉の膳を囲んだ。

 卵とトマトとグリーンピースのスープ、豆腐と干しエビとアボカドのサラダに蒸し鶏。リンのための五目粥には、細かく裂いた蒸し鶏とピータンと、みじん切りの搾菜が散らしてあった。

「……すごい。きれい」リンがつぶやくと

「うん、きれいだよね。ここにきてから、一番豪華。SYOU、すごい」宝琴が答える。

「ぼくが? みんなでつくったからだよ」SYOUは言ったが、自分でも三人で用意した目の前の料理のゆたかな色合いにうたれ、ああきれいだ、という感想しか浮かんでこなかった。

 世界中のどこにでもある風景なんだ、と自分の中で繰り返しながら、まるで宝石のように降りてきたこのいとしい夕餉のひと時が、どうか消えずに一分一秒でも長く続くようにと、SYOUはただ無言で祈り、そして食べた。

 思い起こしてみれば、この部屋に来てから、食べ物の味をまともに味わったことがない。もともと料理は嫌いではなかったが、手の込んだものを作れる環境でもなく、インスタントか缶詰かレトルトの食糧をただ加熱してはふたを開けて口に放り込んでいた。

 いま、ひとつひとつのいのちが、素材が、味が、滋味を伴って舌を潤し、喉を通って体に沁みこんでゆく。静かな幸福感の中で、SYOUは思った。味わうとは、こういうことだったのだ。

 と同時に、悲惨な光景の中で自分の前から失われた命の幻影が開いては閉じるのを、SYOUは感じていた。  

 リンは隣で噛みしめるようにゆっくりと粥を口に運んでいた。おいしい?とSYOUが尋ねると、こっくり頷いて微笑み、SYOUの頬にキスをして、向かいの宝琴の頭を撫でた。


 目の前の皿が空になったころ、リンがぽつりとつぶやいた。

「……ヤオは?」

 瞬間、SYOUの背骨を氷のような衝撃が駆け抜けた。

 宝琴の硬直した視線を受け止めると、SYOUはぽつりと言った。

「……行方が分からない」

 あの部屋で目覚めてからずっと、半分夢の中に棲んでいるかのようなリンが、いつ現実の世界に顔を出すのかと恐れていたそのときが、ついに来たのだとSYOUは自分に言い聞かせた。

 仕方ない。現実は現実と受け止めて、それでぼくらは先に進むしかない。どうかきみも乗り越えてくれ。

 リンは俯いて皿を見ていたが、スプーンを皿に置いて、言った。

「そう」

 そしてゆっくりとした口調で付け加えた。

「いなくなったの」

「うん。いなくなった」

 宝琴は心配そうにリンを見た。

 リンはゆっくりと手を上げると、落ち着かない様子で髪をかきあげ、前髪をばさりとおろし、そしてのどのあたりに手をやり、潤んだ目で宙を見上げて目を泳がせた。

 SYOUは膝の上の握り拳を、爪が掌に食い込むほど固く握りなおした。

 ……思い出さないでくれ。

 思い出して、きみに泣かれても、かける言葉がない。

 どんなにあがいても、ぼくは彼には勝てない。

 何ひとつ見返りを求めずに逝った男に。


 ……死ぬまで、男としてきみに触れなかった彼に。


 SYOUは手を伸ばして、リンの頭を掻き寄せた。

「……ぼくがいるよ」

 リンは二度三度、頷いた。宝琴は顔を寄せると、テーブルの上のリンの手を握った。

「リンは幸せ。わたし、うらやましい。わたしには、誰もいない」

 リンは紅潮した顔を上げて宝琴を見た。

「こんな素敵な人がそばにいて、こんなにやさしくしてくれて、それでまだ寂しがったりしたら、リン、罰が当たる。いらないなら、わたしにちょうだい」

 宝琴はSYOUの右手を両手でつかんでみせた。リンは突然真顔になって、その手を払いのけた。

 そして左手で宝琴の手を、右手でSYOUの手を掴むと、ゆっくり引き寄せて自分の両頬に当て、長い睫を伏せて、水晶のような涙をひとつ白い頬に転がした。




「一応これ、住所氏名電話番号付きなんだけどなあ」

 データ係の事務所スタッフがパソコンの画面を睨みながらつぶやいた。

「具体的なメール?」手元の書類をまとめながら岸谷が答える。

「まあ、具体的っていえばそうだけど、本人特定のネタが声だけだし、これも確認とるんですかね。きりがないと思うんだけど」

「声?」

 書類をめくる手を止め、背後から岸谷は画面を覗き込んだ。


 ……昨日の夜、樹海で肝試しでもするかと彼に誘われて、勢いで車で朝霧高原へ向かいました。

 道の駅に車を止めると、急に霧が濃くなって、あたりは真っ白になりました。それで、野っぱらでかくれんぼでもしようと二人でビール片手にうろうろしてたんです。

 もやもやした真っ白で真っ暗な真夜中の草原は、なんか壮絶でこの世のものとも思えませんでした。

 そしたら、霧の向こうからかすかに歌声が聞こえてきました。

 夜中の二時の朝霧高原で、人影もなくて、しかも女性のかすかな声です。二人ともフリーズしちゃって、草原に座り込んで思わず身を寄せ合ってました。

 でもそれ、よくきくと、SYOUの歌なんです。

 わたしが一番好きなバラード、バラの氷。

 草を踏み分ける足音が遠くでしたから、足はあるんだと思いました。で、霧の晴れ間からぼんやり月明かりがさして、かすかに人影が見えました。

 二十メートルぐらい先だからシルエットだけです。一人じゃなくて二人なんだとわかりました。

 背の高い、おそらくは男性と、小柄で髪の長い女性。

 女性のほうは歌いながらしゃがんで草を摘んだり、走り出しては止まったり、男のひとに抱きつくようにしたり、踊るようなしぐさをしたり、不思議な感じでした。酔っ払いみたいな?

 そのとき、男性の声がかさなったんです。歌はデュエットになりました。


 SYOUの声でした。


 わたしファンだからわかるんです。聞き違いなんかじゃなく、SYOUの声でした。わたしがそっと彼に、この声、……ていったら、ああ、似てるねって。

 ファンじゃなくてもわかるぐらいです。

 その後また霧が濃くなって、月も隠れて姿を見失いましたけど、遠くから声が聞こえてました。

 それもいつか聞こえなくなりました。……


「メルヘン風味だな」岸谷は半分笑いながら言うと、左手のコーヒーをすすった。

「まあ一応、マニュアル通りにしよう。プリントアウトしてUSBメモリに入れて、連絡先が記してあり具体的なものは情報提供者に確認。それから警察の、ええと、午前中連絡があったのは菊池という人だっけ。ここにまとめて報告する。哲夫さんは書道家のセンセイの家から帰って一層ぴりぴりしてるし何しろ忙しいから、こっちで処理しなきゃな」

「確認……。今すぐですか」

「ああ、どうせならぼくがかけるよ」

 岸谷は画面を見るとさっと受話器を取り、無造作に番号を押した。

 数回呼び出し音が鳴って、若い女性が出た。

「はい、××です」

「どうもね、メールありがとう。関岡プロの、あの、SYOUの事務所のものだけど、いまいいかな。あなたが出してくれたんですよね? 目撃情報」

「え、事務所……え、ああ、はい。えと、うわ、びっくりした」突然のことに面食らっているのが伝わってくる。岸谷は続けた。

「せっかく寄せてくれた情報だから少し続きが聞きたくて。あなたは歌以外に声を聞いたかな? その、男性のほうの」

「男性……。SYOUの、ですか」

「そう確信してるんだ?」

「声がそうでしたから、間違いありません。わたしもうすごくうれしくて。絶対彼、生きてます。生きてるんですよ!」

「うん、あなたがそう思っても、こっちは声、わかんないでしょ。だからほかに何を言ってたかそれが聞きたいんですよ。何か歌以外にしゃべってなかった?」

「……ああ、えーと」少し考えて、女性は言った。

「会話が聞こえるほど近くはなかったんですけど、女の人のこと呼んでました。すぐどっかに走ってっちゃうんで、ええと、リン、リン、って。

 そのひとの名前かな? ほかにペットでもいるのかな? って思ったんですけど」

「……ペット、ね」

 岸谷は指の先でくるくる回していたボールペンで、プリントアウトしたメールの文章の下に乱暴な筆致で、

 名前、リン。連れの女性? 犬、猫? と書き添えると、名前の部分をぐるりと丸で囲んだ。


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