きれいになりたい
浴槽にはもう湯が半分以上溜っていた。
何度も手を入れては温度を確かめ、ラベンダーの入浴剤を振り込む。青紫の渦が煙のように湧き上がり、清冽な香りが湯の面から立ち上がる。浴槽の壁にかかっている固めの海綿を、やわらかなスポンジに代える。
「服は自分で脱げる?」
背中越しに尋ねながら、あれほど、焦がれるように待ったこの時を、自分はなんと静かに迎えているのだろうと思う。
振り向くと、白いナイトドレスの前をはだけたままのリンが、洗面所のスツールに座ったまま、少し上気した顔でこちらをじっと見ていた。
長い黒髪を胸の前に垂らしているので、その豊かな乳房は隠れたままだ。
「……ぼくが脱がさなきゃだめかな」
SYOUはまだ薬の影響が抜けない体をゆらりと起こすと、リンの前に立った。
リンは顎を上げて静かな目でこちらを見あげた。
以前彼女にあったのは四月、あの白い部屋で。花器にこぼれていたリンの活けた花々、桜と旭葉蘭と水仙。屋上庭園のビオトープと、咲き乱れていた赤い薔薇が今も記憶のなかで鮮やかだ。そしていまはここ、ラベンダーの青紫の香りと湯の落ちる音に閉じ込められた、ふたりだけの静かな空間があった。
色も形もない深い深い眠りの中に最初に入り込んできたのは、木のうろに詰め込まれたたくさんの南国の果物たちの幻影だった。
猿が猿酒を作ろうとしたのか、それとも妖精のデザートか。暗い穴の中で形もなく崩れてゆく発酵した果実たちの泡立つような香りと色。頭上で小鳥が鳴きかわし、小さな花房をはらはらと顔に落としてくる。
やがて花房は吐息を伴って顔の左右へ揺れ、はっと瞼を開けると、目の前に白い頬と薔薇色の唇があった。
白い顔はふっとSYOUから離れると、その煌く双眸をSYOUの顔の上に留めて、陽光を浴びたつぼみのようにほろりふわりとほころんだ。
ああ、なんて柔らかな笑顔だろう。
……またぼくはこんな都合のいい夢の中にいる。
つられて微笑みながら、SYOUは眼前のうつくしい顔に手を伸ばした。
「ショウ」
幻影はあかい唇を開くと、SYOUの手の上に自分の細い手を重ねて、鈴のような声でうっとりと言った。
「ニイシ―ウォダシンガンロウアー」
「なに?」
「……あなたはわたしの愛しい人」
SYOUは微笑んで言った。
「もう一度言って。覚えるから」
「わたし、きれいになりたい」
「きみは誰よりもきれいだよ、リン」
「きれいになりたい、いま」
突然背後でばたんと音がした。リンが音のほうを振り向く。ベッドの上で首を巡らせてSYOUが目を向けたその先に、少年のようななりをした宝琴がドアに手をかけて呆然と突っ立っていた。
「パオチン!」
リンはちいさく叫ぶと、ベッドから降りようとして体のバランスを崩し、よろけてどんと床に手をついた。宝琴は駆け寄って助け起こすと、SYOUの目を見て叫んだ。
「SYOU。リン、起きた。起きた、起きたのね!」
リンの細い手が宝琴の巻き毛に埋められ、二人は絡みつくように抱き合った。
「リン、わたし怖かった。怖かった、こわかったの」
SYOUは茫然と眼前の少女たちを見ながら、リンが長い長い夢をかいくぐって今そこにいることを理解した。その途端サイダーの泡のように、驚きと喜びと衝撃が、全身の皮膚を震わせてありとあらゆるところから立ちのぼり、ゆっくりと全身に広がっていった。
ベッドではだけていたその胸のまま、リンは自分の服に手をかけようとしない。
「どうしよう、宝琴に頼む?」SYOUはリンの顔を覗き込んだ。
きれいになりたいと繰り返すリンの身体は、一週間点滴だけで過ごしたためにひどく弱っていた。入浴を介助してやってくれと頼むSYOUに宝琴は、首を振って言い放った。
「わたしたち、わたしもリンもSYOUも、明日がくるかどうかもわからないのよ。なにきれいごと言ってるの。それはいま、SYOUの役目。わたしのすることじゃない」
目覚めてから、リンはまともに口を利かず、ただ夢見るような瞳でSYOUを見るばかりだった。ニイシ―ウォダシンガンロウアー。きれいになりたい。口にしたのはそれだけだ。
SYOUはリンのオフホワイトのナイトドレスの前ボタンを、黙って外し始めた。俯くSYOUの額に、リンの額がこつんと当たった。おでこを合わせると、リンは瞼を閉じていやいやするように首をゆっくり左右に振る。そして顔を心持ち上げると、SYOUの鼻の頭にキスをした。SYOUも顔を上げて、リンの唇に唇を軽くつける。蝶のあいさつのように戯れると、二つの唇はすっと離れた。リンの体も心も、住人以外触れてはいけない異国の秘宝のようにSYOUには思われた。
すべて脱ぎ捨てたリンは、いつか見たときよりも一回り細くなっているようだった。それでも、海から上がった人魚のようななめらかな美しさはそのままだ。SYOUは上半身だけ衣服を脱ぎ、リンの手を取ってバスルームの小さな椅子に座らせようとしたが、よりかかって来るばかりで座ろうとしない。背中に回してくる腕の、自分で引き抜いた点滴の針のあとから薄く血がにじんでいた。
「リン。……どうしたんだ」
背後に回した手にシャワーヘッドを握り、ぬるい湯で背中を流しながら、SYOUは聞いた。
「どうしてしゃべらないの。あんなになにもかも投げ飛ばして、部屋の中で一体何があったのか、話してくれない?」
湯気を上げながら水流がリンの身体を流れ落ちる。SYOUは左手のスポンジにボディシャンプーを出すと、押しながら泡立てて、そっとリンの肩に当てた。押し付けると、白い泡が一筋、肩から胸を伝って滑り落ちてゆく。浮き出た鎖骨に沿って首回りをなでると、花が咲いたような顔がうっすら笑顔を含んでこちらを見た。
「リン。……きみに、会いたかった」
少女の長い睫毛が、ゆっくり瞬いた。
「ずっと、あいたかった。思うだけで鳥肌が立つほど、会いたかった。魂のすべてで、会いたかった。
それがぼくの背負う、すべての罪だ」
涙が目の縁に膨らんで、SYOUの頬を滑り落ちた。
白い泡が、スポンジの動きに沿って、少女の肌を優しく覆ってゆく。リンは囁くように言った。
「……わたし、きれいになりたい」
「いまきれいにしているところだよ」涙を拭きながら、SYOUは言う。
「きれいになりたい」
「……」
やっと迷宮から出てきた彼女は、背負いきれない感情をどこかに置いて、心の奥で繰り返していた歌だけを抱えて戻ってきた異国の歌姫のようだった。今まで使っていた言葉が、彼女の前では、無力だ。
「きれいになりたいの。きれいになりたい」
「リン、もういい、……もうわかったから」
リンは片手でスポンジを払いのけた。音も立てずにスポンジは床に落ちた。彼女が何を言っているのかは推察できた。でも、どうすることもできない。
SYOUはそのまま泡だらけの素手でリンの身体をゆっくりと撫でた。掌が、やさしい乳房の突端やなだらかな肉の傾斜、脇の窪みや平原のような腹、そして背中を辿り、彼女という存在を閉じ込める皮膚の表面で迷子になった。リンの頬に紅が差し、唇が熱を帯びて吐息とともに幽かに開かれた。
「……わたしはどこにいるの」
「ぼくの目の前だよ」
「わたし、きれいになりたい」
「リン、何度繰り返せばいい?」
「わたしきれいになりたい」
「きれいだよ。きみはすごくきれいだ」
「ニイシ―ウォダシンガンロウアー」
SYOUはいきなりシャワーヘッドを浴槽に放り込み、切ない言葉の乱打を止めるかのようにリンを抱きしめた。
「リン、もういい、もういい。なにも言わなくていいから」
ああ。
きみのたったひとつの望みさえかなえてやれない。
どうすれば、それは可能なんだ。
リンは細い手でSYOUの背中を叩くようにすると、囁いた。
「……こっちへきちゃだめよ」
「なに?」
「こっちへきちゃだめ。あなたは、きれいなんだから」
いまさら何を言うんだ。SYOUは思わず笑い出しそうになった。
「どっちへいけっていうんだ。ぼくにはもうきみのところ以外、いくところがないのに」
「……あなたは、わたしの愛しい人」
「締め出さないでくれ。もう行くところがない」
この真っ暗な世界の、どこにも。
「ショウ」
「ぼくはここにいるよ」
声を出さずに、唇のかたちだけで、リンはもう一度その名を呼んだ。
細くなった頬を、真珠のように透明な涙が転がり落ちていった。
その軌跡に、SYOUは唇で触れた。
それから。
リンの手によってSYOUの身体に残っていた衣服は落とされ、二人は寄り添うようにひとつの浴槽に入り、ひとつの香りに包まれたのだった。
リンの身体を消耗させないようにと40度ぎりぎりに設定された湯はまるで青紫の羊水のようで、広い浴槽は白磁の子宮のようだった。
ふたつの身体は折り重なり、SYOUの唇が重ねられると、リンの唇は何かの王国の入り口のように厳かに開かれて、優しい舌の感触とともにその来訪を迎えた。洗い髪の迷宮の女王に挨拶して、自分はここにいていいですかと尋ねる。彼女の中のドアがひとつひとつ開かれて、こちらへ、こちらへと声なき声でSYOUの手をいざなう。
意識というフィルター、肌という膜、その外壁を飛び越えて、相手の元へ、ほんとうの元へたどり着きたい。かつて体験したことのない、欲情とも発情とも違う切ない熱がそこにはあった。生き物のように相手のいのちを探り合うふたつの舌が、ふたつのからだが、ここ、今ここに存在する相手のすべてを溶かそうとぶつかりあう。ああ、ああという、もうどちらともわからない子どものような叫びとともに、
青紫の羊水の中でふたりの意識は溶け、やがてひとつになった。