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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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唇からあなたへ

 リンは詩織に掴まれた手を眺め、そして詩織の顔を眺めた。未知のものを見る子どものような心もとないまなざしが、揺れながら詩織のサングラスを覗き込んでいる。そのまま膝が砕けるようにゆっくり座りこもうとするリンの背中を支え、詩織は半開きのドアを片手で押した。

「なかに、入りましょう。いい?」

 ゆっくりと話しかけるが、通じているかどうかわからない。リンは玄関に押し込まれながら、自由なほうの手で詩織のサングラスを掴んだ。

「ちょっと」

 詩織が言葉を探しているうちに、サングラスはリンの手の中にあった。かちゃんという音を聞いたときにはもうサングラスは無造作に投げ捨てられ、雑多なものが散乱する玄関のどこかに消えていた。

 突然素顔を晒す事態になり、詩織は顔をそらして狼狽したが、リンのほうは詩織の顔を見ても特に反応もなく、ただ壁か空を見るように詩織を見ていた。


 ひとの気配はなく、室内にはただ静寂だけがあった。おそらく彼女が投げつけたと思われる本や服や時計や枕が、玄関ドアの内側から広いリビングダイニングに向けて転々と転がっている。倒れたスタンド、椅子、罅の入った姿見、棚から引き出されて散乱する本やCD。どういう暴れ方をすればこんな有様になるのか、詩織は背筋に寒気を覚えながら、リンを片手に支えて室内を見渡した。

「……こんばん、は」

一応自分の部屋として使っていた室内に、恐る恐る声をかける。

 時刻は夕刻七時を回っている。間接照明だけの薄暗い室内からは、何の返事もない。SYOUも不在ということなのか。こんな状態の彼女を放って、一体どこへと訝しむ一方で、もちろんいないほうが自分にとって都合がいいのも確かだった。

 詩織は片手で玄関ドアの鍵を閉めると、リンの汗ばんだ細い体を改めて両手で支え、そして異常に早い動悸で彼女の全身が波打っているのに気付いた。

「いったい、どうしたの。何があったの」

 子どもに聞くように尋ねてみるが、澄んだ小鹿のような視線を自分の顔の上に完全に固定したまま、少女は答えない。かつて、壁際に押しやっていたソファベッドがベッド仕様になったまま部屋の中央にあるのを認め、詩織はゆっくりと彼女をいざなってそこに座らせた。

「わたしのこと、わかる?」

 隣に座り、胸のわななきを抑えながら、詩織は静かに尋ねた。リンはやはり何も答えず、その目はただ、詩織の顔に据えられたままだ。

 詩織は頬に手を添えると、できるだけ優しい声で囁いた。

「あなたはひとり? 他に誰もいないの?」

 リンの瞳が揺れ、詩織の顔から視線を外して室内を見まわした。

「……SYOU」

 消え入りそうな声で少女は囁いた。

 ああ、その名前。

 電流が走るような衝撃に耐えながら、白くただ美しい顔に視線を留めると、詩織は言った。

「どうしてこんなに大暴れしたの。 SYOU……はどうしたの」

「窓の外……」

「外?」

 室内に、オルゴールの音色が響き始めた。どうやら、CDをエンドレスリピート設定にしてあるらしい。ディズニーの名曲シリーズだろうか、「いつか王子様が」が、静かな前奏に続いて流れ始めた。


  いつか王子様が訪れて

  わたしたちは再び出会う

  そして一緒にお城にいって

  永遠に幸せに暮らすのよ


  いつか春が訪れて

  わたしたちは愛に出逢う

  鳥は鳴き ウエディンベルは鳴り

  夢がかなう時がきっと来るわ


 詩織は茫然と呟いた。

「このままじゃ帰れないし、わたしはあなたの王子様に会うわけにもいかないし、困ったわ」

「ここはどこ?」

 リンは詩織の顔を見て、初めて自分から話しかけてきた。詩織は一瞬答えかねて、絶句した。

「どこって、……あなたのお部屋よ」

「わたしの?」

「あなたと、SYOUのね」

「……」

 リンはじっと詩織を見ながら言った。

「これは夢じゃないの?」

「わたしにとっては夢じゃないわ。あなたにとってどうかは知らないけど」

「SYOUはどこ?」

「知らないわ。出かけてるのかも」

「ヤオは?」

「誰?」

「パオチンは?」

「誰のことかわからないわ。わたしが誰か、わかる?」

「あなたは、……いい人」

 リンは薄明かりのような微笑みを浮かべながら歌うように言った。詩織の胸を、未知の小さな衝撃が駆け抜けた。

 本当に、自分を覚えていないのか。

 あの桜の下で出会った、圧倒的な存在感を持って自分を圧したあの彼女とこの少女は、本当に同一人物なのだろうか。

 今目の前にいるリンは、親とはぐれた小さな雛鳥のように心もとなくはかなげな少女だ。どうしてこんなことになっているのだろう。幼子のようになってしまった彼女を抱えて、SYOUはいったい何をどうするつもりなのか。世間から身を隠し、ただひと目の届かない場所でこの壊れた少女と暮らす、それだけが彼の望んでいることなのだろうか。

 詩織はリンの乱れた髪に手を伸ばした。そして、小さな子にするようにゆっくりと頭を撫でた。リンは細く目を閉じると、詩織の胸に頭を摺り寄せるようにした。唐突に詩織の中に生まれたのは、ただ小さく力ないものを守りたいという母性本能のようななにかだった。その何かをすり抜けて、リンは細い手を詩織の腰に回し、両手で自然に、ごく自然にするりと抱きついてきた。

 顔を上に向け、薔薇色の唇を半開きにすると、何か芳醇な酒のような吐息を漏らし、そのまま詩織の頬に唇で触れてきた。

 詩織は驚いて瞬間体を震わせ、リンの肩に手を置いて身を離そうとしたが、あまりに自然であまりに罪のない子どものような身の寄せ方に、そうすることが罪であるかのような錯覚を覚え、身動きできなかった。

 頬に触れるリンの唇は、小さな羽根枕のように柔らかく温かく、そして優しかった。二度、三度、ついては離れるその唇のかたるもの、その言葉なき言葉に耳を傾けようとしてみたが、知らない恍惚感に包まれて、詩織はただ陶然とした境地を幼子のようにさまよっていた。

 不意に背後でがたんと音がした。居間に続く寝室からだ。

 リンは振り向くとベッドから降り、よろよろした足取りで部屋に向かった。

 詩織は無意識で頬に触れながら、呆然とリンのあとに続いてドアの前に立った。

 リンが細くドアを開ける。卵色のライトに下からぼんやり照らされたベッドが見える。

 あれほどの騒ぎの中で起きて来ない人間がいると思わなかった詩織は、今自分が見ている人影が、ベッドに横たわる若い男性が、SYOUその人だとにわかには認識できなかった。

 ベッドから突き出たその手が倒した和紙のベッドサイドランプが、床に揺れながら天井を薄く照らし出していた。その光を跨ぐと、リンはゆっくりとベッドサイドに進み、眠るSYOUのそばに屈みこんだ。

 薄い(だいだい)の光の中、祈るような格好で膝をつくと、リンはため息のような小さな声を上げ、両手で愛しい男の頬を包みこんだ。

 なつかしいSYOUの端正な横顔と長い睫が、少女の背中越しに見える。近寄ることはできない。詩織は両手を握りしめたまま棒のように突っ立っていた。

 リンは長い黒髪を前に垂らして、小さな子供が愛猫にするようなキスを、小さなたくさんのたくさんのキスを、雨あられとSYOUの顔に降らせ始めた。

 ほほに、額に、髪に、唇に、瞼に、また頬に、際限なく、際限なく、何かの儀式のように、とめどなく。

 彼の頬に振るやわらかな感触が、自分の頬の上にも降るように再現され、詩織は立ち去ることもできずその反芻の中に立ち尽くした。やがてゆっくり、ゆっくり後ずさると、そのまま後ろ向きに部屋を出て、立ち止まらないの、立ち止まらないのと自分に声をかけながら、目の前で静かにドアを閉めた。

 詩織は無言で背の高い白いドアを見上げると、額をつけ、深いため息をつき、手でその表面をさすって、くるりとうしろを向いた。

 それから足元の様々なものを跨ぎ、あるいはつっかかりながら玄関に進む途中、鈴蘭の刺繍のクッションの上に自分のサングラスを認め、拾いあげた。

 玄関で靴をひっかけ、そっとドアを押して外に出る。

 と、驚き顔の少年といきなり目が合う。すんでのところでぶつかりそうになりながら、詩織は十二、三と見えるその可愛い少年に思わず頭を下げていた。よれよれのジーンズに大きなキャップをかぶった少年は、不信感をあらわにしながら高い声で言った。

「うちに、何の用?」

 少年と見えた子が少女だったことに驚きながら、詩織は口元に指を立てた。

「あのね、ここから女の人がよろよろ出てきたから、危ないと思って、お部屋に入れてあげたの」

「出てきた?」少女は甲高い声を出した。

「どんな? 髪の長い?」

「ええ、とてもきれいな人」

 少女は目をいっぱいに見開くと、ありがと、とひとこと叫ぶように言って、重そうなコンビニ袋をぶら下げたまま、詩織を押しのけるように慌てて部屋に入った。

 振り向くと、半分脱げたキャップからこぼれる長い巻き毛が目に入った。

 がちゃん、と音がして重いドアが閉まる。

 あたりに静寂と、夜の空気が満ちた。

 詩織は俯くと鞄から出した大きめのキャスケットをかぶり、足早にエレベーターに進んだ。

 もういい、ここから離れよう、早く、早く。

 エレベーターに乗り込んだ自分の足元が、がくがくと震えているのがわかる。

 SYOUが目覚めたら、あの美しい顔が目の前にあり、あの唇が顔中に触れ、あの細い体が彼の全身を温めるのだ。それがどんなものか知っている男は何人いることだろう。彼女は娼館で客としてSYOUを迎えた女性なのだ、そこまでは自分も知っている。だが、彼女が一人一人に与えた蜜と毒は、今や自分の内にも脈打ち、憎さと愛しさと切なさが奔流となって体中をざわつかせていた。


 ……あなたは、いい人。


 あの日感じた金臭い血の匂いの代わりに、生々しい肌の香りと、南国の花のような甘く気怠い香りが、詩織の鼻孔を満たしていた。






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