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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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Xday

 挿絵(By みてみん)


 ポーチの中の携帯のかすかな震動が、薄い布越しに膝を震わせた。

「ちょっとごめん」背後のヘアメイク嬢に短く声をかけると、詩織は鏡から視線を膝に落とし、ポーチを開けた。

 銀色の携帯を開けて画面を見ると、意外な送信者の名が飛び込んできた。

 柚木奈津子。

 瞬時に携帯を閉じ、高鳴る胸を抑える。

「どうぞ、気にしないでください。わたし見ませんから」背後から柔らかな声がかかる。長年の馴染みのヘアメイク嬢は、最近の詩織の身辺のいざこざをよく飲みこんでおり、声をかけるタイミングも手慣れたものだった。

「勘ぐらないでね、相手は妙齢の女性よ」おどけた風に答えると、詩織はそっと携帯を覗き見た。



 ……お久しぶりです。いま日本に来ています。もしよろしければお会いしてお話しがしたいんだけど、ご都合はどうでしょうか。お忙しいのは承知していますが、お時間があるようならご連絡いただけると嬉しいです。駄目なら無視してください。こちらからはもうご連絡はしません。


 自分の中の彼女の印象とは少し距離のある、何か突き放したような、あるいは緊張を含んでいるようなメールだった。詩織は再び携帯を閉じると、考え込んだ。

 SYOUから刺された釘のうち一番太いもの。

 ……この人と会わないこと。


 ……なぜあの人と会った。この件に関しては、絶対叔母にかかわってほしくない。一切引き入れたくないんだ。今だって、もう十分にあの人を困らせてる。俺が一番したくなかったことだ。人生の節目節目で、どれだけ世話になってきたかわからない人なんだ。

今回の件がどれだけきな臭い話か、きみだって少しはわかってるだろう。もう二度と会わないでくれ。


 あの日車の中で、身を絞るような切実さで彼は言った。どうして裏切れるだろう。奈津子に対して、何の用事か尋ねることさえ許されない身なのだ。このまま黙殺する以外自分に道はなかった。

 結い上げた髪を止めていた白い花飾りが、ヘアメイク嬢の手で一つまた一つと丁寧に外されてゆく。薔薇やシャクヤクやラナンキュラスの造花がテーブルにこぼれるのを見ているうち、会いたい、寂しい、という焦燥のような思いが胸を焦がし始め、思わず歪みそうになる唇をぎゅっと詩織は噛みしめた。

「ごくろうさん」

 控室のドアを開けてマネージャーの裕二が入ってきた。詩織の前に、頼まれていたオレンジティーのペットボトルを置くと、隣の椅子に腰かけて携帯を開く。

「このグラビア撮影で本日の仕事は終わり。で、来週だけど、珍しい相手から会食のお申し出が入ってる。デレク・チョウ。わかるよね?」

「ああ、……デレクスタイルの社長さん」気の抜けた声で詩織は答えた。

「そう、パーティで話したろ。次回は兄弟も同席の上で会いたいそうだ」

「兄弟?」

「きみはよく知らないだろうがあそこはつながりを持っておいて損のないファミリーだぞ。もともと張家は中国でも有名な香港の財閥で、中国に進出しようとする欧米の企業を誘致するための受け皿になった、国益と一体化した財閥なんだ。デレク氏のお兄さんは、国務院の幹部から実業家に転向を図ってるらしいし。弟はマレーシアで貿易商をしてるという話だ」

「どうしてわたしなんかに……」

「きみはどちらかというとモデルとして中国では人気なんだよ、むしろ日本でより有名なぐらいだ。あちらからドラマのオファーが入ったこともあるしね」

「それは聞いたけど、あまり実感がないのよね」

「まあ、つながりを持っといて損のない相手だ。じゃ予定入れとくね」

「正直、気分が乗らないわ。差別するつもりはないけど、今、中国の人はちょっと」

 裕二は複雑な表情を作って詩織を見た。

「……そうか、ご実家の関係で、もめてるんだよな今」

 詩織はふっと息をつくようにして顔を上げた。

「いえ、いいわ。お仕事だものね。行きます」

 裕二はほっとしたように顔をほころばせた。

「よし、返事しておこう。来週の水曜、時間と場所はまた話し合いの上で」

 詩織は寄るところがあると告げ、スタジオ前で裕二と別れてタクシーを拾った。


 いつ見ても化粧を整えて正装したような、夜の都会の豪奢な表情を見ながら、詩織は茫然と窓に寄り掛かった。

 SYOUが消えても、自分の周りでは前と同じように時間が流れてゆく。

 正直言えば、誰かに相談したい。本当のことをすべて打ち明けたい。正体不明の誰か、……世間では中国マフィアと言われているけど……に脅迫されて、実家は今厳重な警戒下にある。父親からは家に近づくなと言われ、SYOUとは間接的な連絡だけで会うことはできず、澪子には一人で行くと宣言した。誰に会うのが正解で誰と会ってはいけないのか、自分が拠り所にしたらいいのは誰なのか、覚悟したつもりなのに心もとない。求められるままに食料を、服を、ヘルメットをSYOUに送り、手紙を添え、相手からの返信がなかろうと自分は役に立っている、と自分に言い聞かせて耐えているけれど、時々子どものように聞き分けのない、幼い自分が反乱を起こすのだった。

 SYOUはいま誰といるの。

 リンという人は生きているの。彼は何のために、何と戦っているの。どうしてわたしが、あの空間に入ってはいけないの。いつまでこれを続けるの。いえ、それはいい。でも、顔を見たい、せめてひと目顔を見たい……

「そこを曲がってください。そして、住宅地に入ったら徐行して」

 実家の近くまで来ると、詩織は声を潜めて運転手に言った。一軒一軒の敷地が広い高級住宅街に入ると、通行人の姿もまばらだ。だが家が近づくと、辻辻に警備の姿が目立ち始めた。

 防弾チョッキをつけ、長い警棒を持った警備陣の姿は、どう見ても組側の人間ではない、薬のルート争いで対立グループに脅迫されているという噂だが、どうしてまるで自衛隊のような警護がついているのだろう?

「ここら辺は物騒ですよ、そこがそら、例の暴力団組長の家ですからね。妙にここらでスピード落とすと職質の対象になりますし」運転手が困惑した声で言う。

「……いいわ、ごめんなさい。表通りへ出て」

 サングラスの上の帽子を深くかぶりなおすと、詩織は横目で要塞のような我が家を見送った。

 若宮監督。生身のSYOUのそばにいる、唯一の人。

 ……あのひとと、ちゃんと話ができれば。

 少し前なら、なんでもSYOUに相談したのに。彼はもうわたしのものではない。

 怖いのではない、一人で立てないのではない。ただ椅子の上に椅子を重ねる芸当のように、不安の上にまた不安が重なってゆくと、どんどん足元がおぼつかなくなってくるのだ。

 誰かと、秘密を共有したい。その思いは粘着性を持って詩織の内に住み着き、少しは強いと思っていた自分を内部からじわじわと浸食していた。

 ……どちらへ行けばいいのか、誰か教えて……



 白く光るパソコンの画面をただ睨み、睨み続けてもう二時間が経った。

 若宮宗司はがりがりと頭を掻きながら、SYOUから聞いた一部始終の、三十五回目の脳内逆再生を終え、そして、最後の彼の言葉を思い返した。

 アドバイスとまではいかなくとも、何か思うところがあったら伝えてほしい。思うところでいいんだ。俺は今自分が詩みたいな、あるいは結晶の中心みたいな位置にいると感じている。だから具体的に動き出せない。


 この状況のさなかにあって、詩、……か。金平糖の核にでもなったつもりか。素っ頓狂な奴だと思ってはいたが。

 若宮は吸い殻の山の上に新たな吸い殻を押し付けると、両手で顔を覆い、ふーっと長いため息をついた。

 オーケー、SYOU、そこから行こうじゃないか。俺達は多くのものを抱え過ぎている。現実的な問題はひとまず置いておこう。入り口は優しく、出口は厳しくだ。世界はたいていそんなもんだからな。

 お前にとってのXdayは、とりあえず彼女の目覚めだ。世界はまたそこから始まるのだろう。謎のような眠りと覚醒で、お前たちの物語は紡がれている。そこに至るまでの時間、ゆっくりと独り言でも言いあおうじゃないか。一見問題から遠く見えるこのアプローチが、結構本質を突くことになるかもしれないぞ。

 若宮は両手をキーの上に置くと、まず軽く打ち込んだ。


 SYOUへ。

 きみの大事な眠り姫が、猫の生まれ変わりではという発想について。

 これが一番面白かった。だから最初は、この件に関しての俺の見解を述べさせてもらう。タイトルはこうだ、猫と神に関する考察。…… 


 そこまで打って、自分はこの事態のさなかに何をしているんだという自嘲めいた笑いに誘われ、また真顔に戻って、若宮は白く光る画面を見つめた。 



 



 ……おそらくこの屋敷を取り巻く緑の向こうは砂漠に違いない。

 それほどに外の日差しは容赦なく、でも日が陰ると闇は濃いのだ。


 床も壁も大理石の廊下には名も知らぬ当主たちの肖像がかかり、誰もかれもががらんどうの目で中空を見つめていた。

 壁から突き出す燭台には長い長い蝋燭がきちんと揃っていて、陽が陰ると勝手に灯る。怖くはない。天井の高い美しい、古びた屋敷は、でも中国のものではなく、西洋の見知らぬ様式の城のようだった。

 白い長いスカートを引きずって、窓まどを見て歩く。自分の影を追うように、白い蝶々が何十羽もはたはたと窓から窓へ移ってゆく。

 何の音もない。自分はいつからここにいるのだろう。安全で広くて、美しくてさびしい場所。窓はたくさんあるのに、どれも開かない。出口も入口もない。 

 時々廊下のあちこちを猫が横切る。走り寄ってみても、後姿さえない。

 とんとん、とんとんと、風が窓を叩く音がする。


 少女は窓に背を向けて、自分を抱きしめた。

 自分と、自分が纏う、白い冷たいドレスと、レースのショールを抱きしめた。

 とんとん、とんとん。

 呼ばないで。わたしはもう、どこにもいかないから。

 すると窓の外から、囁き声が聞こえてきた。


 今日は木曜日だよ、リン。おはよう、外はいい天気だよ。

 聞こえているかな。パオチンも、ここにいるよ……


 はっと顔を上げ、振り向いて窓にしがみつく。また、あの声だ。眩しくて、外が見えない。

 声だと思った囁きは、じきに何十羽というサンショウクイやタヒバリのさえずりに変わってしまう。 いつもそうだ。黙って、黙って。声が聞こえない。

 やがて窓の外の日差しが静まって、窓にくっきりと男の背が写る。高い背、くしゃくしゃの髪、白いシャツ、俯き加減の横顔に、草食動物のような長い睫が煌く。

 ああ、あなた! わたしはここよ! わたしはここ! 

 愛しい人に胸の中で呼びかけながら懸命に内側から窓を叩くけれど、今度は彼がこちらを見ないのだ。青年は俯くと、呟きつづけた。

 ぼくの島をきみにも見せてあげたい。あのころは幸せだった。母の自転車の前かごに乗って、海の色の風を切って走るんだ。きみにも、そんな時代はあったかな。何も考える必要がなく、ただ幸せだった時期が。

 彼の声に小鳥のさえずりが混じる。リンの指を追って、白い蝶がぱたぱたと窓にぶつかる。

 ええ、あったわ。何の不安もなく愛する人に愛されていた時期が。でもはっきりしないの。最初にわたしの背中を撫でてくれていたのは誰なのか……

 ああ、しゃべって、もっとしゃべって。わたしはここにいる、聞いてるのよ。

 ……歌を歌ってあげようか。讃美歌だけれど、苦しくてまっしろで美しい歌だ。

 いいわ、歌って。わたしも歌う。


  おさなくて 罪を知らず 胸にまくらして

  むずかりては 手にゆられし むかし忘れしか

  春は軒の雨 秋は庭の露

  母は涙かわく間なく 祈ると知らずや


  汝が母の たのむ神の みもとにはこずや

  小鳥が巣に かえるごとく 心やすらかに

  春は軒の雨 秋は庭の露

  母は涙かわく間なく 祈ると知らずや……


 ぱたりと声はやみ、風ばかりが窓を揺らした。

 リンは半狂乱になって窓をたたいた。窓の外は霧に満たされたかのように、乳白色に閉じ込められている。愛しい人の姿はもう見えない。

 出口はどこ? どうやったら出られるの? この窓を開けて、誰か。

 室内を見回すと、部屋の奥の暗がりに、玉座のような豪壮な椅子がある。座面に房のついた重い椅子を抱えると、リンは腕を震わせながら懸命に持ち上げ、窓に向かって投げつけた。途端に椅子はバラバラに分解し、無数の白い蝶になって部屋の隅に飛び去った。

「そんなことをしても無駄よ」

 暗がりから声がする。声のほうを向くと、黒いレースを未亡人のように帽子の上から纏った、ふっくらした女性が、黒いドレスに身を包んで影から出てきた。

「マー……」

 言いかけたリンの目の前で自分の唇に指を当て、手を伸ばして両手で白い頬を包む。

「あなたのために世界を作ってあげたのに、どうして出たいの? どうして逃げるの? わたしのかわいい、砂漠のエレンディラ。あなたはわたしにいつ負債を返すの?」

「……」

「どうしてもゆくのなら、ドアはわたしの背後よ。わたしを退かしてごらんなさい」

 リンはじっと女を見た。

「……ごめんなさい」

 小声で呟くと、くるりと背を向けて、今度は獅子の飾りのある暖炉の上の白磁の花瓶をつかむ。

「リン、こっちを見て」

 声の方角を無視して、花瓶を振り上げる。窓に叩きつける。分解して蝶になる。

「そんなことをしても無駄よ」

 置時計を振り上げる。蝶になる。ガラス製のランプを、雪花(アラ)石膏(バスター)でできた天使像を、燭台を、ぼろぼろの聖書を振り上げ、叩きつける。叩きつける。部屋の中に蝶の群れが湧き上がる。 負けないわ、あとちょっと、あと少し。

 ふいに窓がもろもろと砕け散った。風が吹き込んでくる。

 外!

 SYOU!

 リンはがらんどうの窓枠に手を伸ばし、忌々しいカーテンを引きちぎり、外の空気の中に顔を出した。そして乳白色の空気の中に手を入れると、

 ……誰かがその指を握った。



「どこへ行くの?」



 かつて通いなれたマンションの、久しぶりに訪れたその廊下で、詩織はドアから出てきた、長い髪の少女の手を握っていた。


 SYOUには禁じられた訪問。そっと訪れて、ドアだけ見て、そして帰るつもりだった。

 エレベーターを降りたときからドアの内側で何かが激しくぶつかるような音がしており、思わず近づいて様子を伺ったところで、ドアが開いたのだ。

 まるで目の見えない人のように、両手を前に伸ばしてふらふらと出てきた、真っ白な顔の、凄絶に美しい顔立ちの少女。

 自分がSYOUに送った、乳白色のナイトドレスを纏っている。

 虚空に見開かれたかのようなその瞳は、狂おしく自分を見ながら、その視線は自分を突き通して背後に向けられているようだった。全身はがくがくと小刻みに震え、膝は今にも(くずお)れそうだ。


「あなた。……リン?」


 桜の散華の中に、黒衣の男と二人消えて行った、あの日の少女の姿が重なった。あの人だ、間違いない。

 詩織は少女の手を握り、もう片方の手を頬に伸ばした。

 石膏像のような冷たい頬だった。

 

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