眠ってもいいですか
櫻田と菊池は、夜の十一時ごろ揃って奈津子の家を出た。
見送りは結構ですという言葉に、哲夫と奈津子は樫のテーブルのある和室から庭越しに車のテールランプが移動してゆくのを見送り、視界から灯りが消えると二人同時にかすかなため息を漏らした。
「大変な、……時間でしたね」哲夫がぼそりと呟く。
「ええ、本当に」
それきり冷えた湯呑を掌に納め、二人はしばらく黙ったままだった。
表情も口調も穏やかながら、会話の端々に見えない刃物の切っ先をひらめかせるような二人の男の隙のなさに、奈津子も哲夫も知らず知らずのうちに疲弊しきっていた。
櫻田は繰り返し、SYOUのヘルメットを自宅から持ち出した協力者に心当たりはと尋ねてきたが、何か口にしてはいけない気がして、奈津子は詩織の名前を伏せたまま、さあわかりませんと口を濁した。そこへ菊池が水のように滑らかな口調で言葉を挟んできた。
「奈津子さん、なんでも一番最近の晶太君との電話で、なくしたアクセサリーがどうとか、彼女がしつこいとか、そういう会話をされたそうですね」
奈津子は胸が内側から弾けるような衝撃を覚えた。確かにアメリカにいたとき、警察からの電話にそういう風に答えた記憶はある。だが、所属も正体も明らかでないこの男が、そんな些細で個人的な会話まで飲みこんでここにいるとは。
「ええ、そういう話をしたような気はします」努めて平静を装って答える。
「その彼女とは、噂に上っているあの女優さんですか? ピアスを巡って暴力事件があったとかいう……」
「申し訳ありませんが、それは彼のプライベートになりますので」
「ごもっともです」
これではほとんど肯定だと、目の前の男のゆったりとした笑みを見ながら奈津子は焦った。いっぽう、櫻田は哲夫のほうを向くと言った。
「爆発のあったマンションを、晶太……SYOU君が仕事がらみで訪問した可能性はありますか」
「いや。事務所とは何の関係もない場所です」哲夫は即答した。
「では、彼が依頼した探偵の調書にあった中国のカルト教の教祖の娘のこともご存じない?」
「そもそもそれが誰のことかさっぱりわかりませんので」
櫻田は俯くとゆっくりとした動作で鞄を引き寄せ、書類ファイルを取り出すとA4サイズの紙を二枚、机の上に置いた。
モノクロで描かれた少女の絵。おそらくは、墨絵をプリントアウトしたもの。
目を向けたその瞬間から、哲夫の背を衝撃が走り抜けた。
……ピンクのシャンパン嬢。
社長が口にした呼称が直接胸に落ちてきた。
あの日の、牡丹の髪飾りをつけた、細身の美少女。カチカチと鳴っていたフルートグラス。
……この子は日本人じゃない。台湾出身だ。日本語がうまいだろう。ある男に会いたくて、それだけのために勉強して、そして親も何もかも捨てて日本へ来た。けなげな子だ。
権田組長の言葉と、SYOUの言葉の切れ切れな記憶。
彼女は死ぬ気でいる。……そんな気がする
なんでだ?
もう来ないでと、会わないと一方的に言ってきた。おふくろが昔バカ男と心中するつもりで俺に電話をくれたとき、感じた空気と同じだ。……
絵を見ながら視線を泳がせる哲夫に、櫻田が横から問いかける。
「この顔に見覚えは?」
「……」
哲夫は紙を手に取る自分お指の震えを抑えながら、言った。
「これが、教祖の、……娘…… の肖像画、ですか?」
「よく似ているとだけ申し上げておきましょう。これはSYOU君が調査を依頼した少女の絵です。素人離れした出来ですが、多分彼が描いたものと思われます。ここまで克明に描けるほど、何度も会っていたということでしょうね。角度を変えたバージョンに、全身もあります。見事なものだ」
「その、教祖の娘……とやらの名前は」
「ファン・ユェリン。お聞きになったことは」
「……ないですね」
「宗教名と教団に関することはここでは口にしないでおきましょう。奈津子さんの為に。この顔に見覚えはおありかどうか、それだけお尋ねしたいんです」
奈津子が横から興味深そうにのぞき込んでいる。その表情から、彼女は多分この少女のことは知らないと哲夫にも推測できた。リン、という発音の一致に震える心を見透かされないように、紙を揃えると奈津子に渡し、目線を櫻田に戻して哲夫は答えた。
「彼の書の腕は知っていましたが、ここまで凄い絵が描けるとは知りませんでした。ですが、この子についてはどうも見当がつきません」
「……そうですか」
納得しているのかしていないのか、櫻田と菊池は哲夫と奈津子の顔を交互に見やっている。答えよりも表情を読んでいるのは明らかだった。奈津子は何か胸を打たれた様子で、ただ一枚一枚に見入っていた。
家を出るとき、靴を履き終わった櫻田は菊池と並ぶと、帽子を手にして言った。
「突然の不躾な訪問で、北原さんにも奈津子さんにもご迷惑をかけました。いろいろと立ち入ったことをお聞きして申し訳なく思います。だが、こちらとしては、上のほうが抑えにかかっているその向こうの真実を知りたい一心で動いていると、つまり良心に従ってのことだと信じていただきたい。そして重ねて申し上げますが、今日のご訪問は私的なものだということにしておいてください。尋問のようになってしまった部分は、お詫び申し上げます」
「ああ、すみません。ひとつ忘れていました」突然菊池が割って入った。
一枚の写真を胸ポケットから取り出し、二人の前に差し出して見せる。
「これを見ていただくのを忘れていた。どうです、見覚えはありますか」
写真館でとられたような古びた写真で、青白磁の大きな壺に手を添えて、黒いチャイナドレスの女性が微笑んでいる。年のころは二十代半ばか、大仰なシャクヤクの髪飾りをつけて漆黒の髪を結い上げた、肉付きのいいコケティッシュで妖艶なタイプだ。北原の脳裏に、なぜかクラブ・ホーネットで出会った時の、権田の横にいた澪子のイメージが重なった。……同じタイプの女だ。いや、顔も似ているといえば似ている。
「よくいるタイプの女性ですね、水商売系に。特に見覚えはありません。この人も娘ですか」
「いえ、こちらは教祖の元妻です」
「妻?」
「十一年前に離婚しましたがね」
「……」
北原はまじまじと写真を見た。その目の前から、菊池はすいと写真を取り上げた。櫻田が再び口を開いた。
「これ以上の一方的なご訪問は控えることにしますが、何か思い出したことがおありなら、ぜひご連絡ください。SYOU君のためにもです。正直ぼくとしては、おそらく彼は墨絵の少女と一緒にどこかに潜伏していると推測しています」
そういって、メールアドレスと電話番号を書いたメモを二人に寄越すと、櫻田はすっと帽子をかぶった。薄暗い玄関の灯りの下で、帽子の縁がぐるりと顔の周りに暗い影を描いて表情を閉じ込めた。
縁側で風鈴がりんりんと鳴った。
「お茶、入れ替えますね」腰を上げる奈津子を、北原哲夫は手で制した。
「お疲れでしょう、ぼくはいいですから」
そして頭を整理しながら、ふたりきりになったこのとき、最初に口に出す言葉を探る。慎重に、慎重に。
「今日のこと、御主人にはどうします。……やはり話されますか」
小野沢正臣。元警視庁捜査一課の刑事で、現在アメリカに拠点を置く子どものためのNPOエンジェルフィールドのリーダー。言葉にして思いこさねば実感が伴わないほど、奈津子の夫はいろんな意味で微妙なポストにいた。
「話しません」
「……どうしてですか」
「今日のことを話せば、旧知の櫻田さんと主人との間にひびが入るでしょう。主人の望まないことでわたしとコンタクトを取ったと。
せっかくご自分の立場を危うくしてでも真実を追いたいという気概のある方なのに、わたしを挿んでいさかいが起こるのは不本意ですし、自分で危険と感じたならば、わたしがこれ以上の連絡に応じなければいいだけですから」
「……なるほど」
「でも、変な訪問だったわ」
「え?」
「晶太はともかく、教祖の元妻とかいう人の写真は、この場では必要ないでしょう。何を知りたかったのかしら」
「……」
奈津子の疑問はもっともだった。こちら側に立つようなことを言いながら、あちらのしていることはゆさぶりをかけてこっちの反応をみるような、言葉にして聞いていない部分を覗き見るような、そんな暗い気配があった。そのいっぽう、あの場所が違法な接待に使われているという類の探りも、宗教名も出してこない。その話が出たら正直自分の身も危うい。そう感じて背中に冷や汗をかきながら、グレーゾーンに位置する自分の立場と後ろ暗さに、哲夫は暗澹とした気分になってもいたのだ。翻弄されている。そんな悔しさが終始身体を支配していた。だがその彼にとって、爆撃のような言葉を奈津子はいきなり口に出した。
「北原さん。ストレートにお聞きします。多くの中国人が死に、あるいは行方不明になっているというあのマンションは、どういう場所なんでしょう。もしかしたらあなたはご存じなのではないですか、そことあの子とどういうかかわりがあるのかについてです。あの子が追っているのは、そのカルト教団…… 陽善功の教祖の娘さんなんですか? あの絵の少女を、本当にご存じないんですか」
正面からまっすぐ自分の顔を見て、奈津子はそう言った。
陽善功。いきなり彼女の口から出た宗教名に、哲夫はがっと体温が上がってゆくのを感じていた。
沈黙の時間が過剰になれば、知っていることのサインになる。だが言えることは何もない。哲夫は奈津子のまっすぐな瞳を見返しながら、彼らの退出後、自分たちがこのように疑心暗鬼になりながら双方の情報に探りを入れるのも、あらかじめ計算された成り行きなのではと思った。とどのつまり、正義の男たちであるはずのあの二人を、自分もいまいち信用しきれないのだ。
「……立場上、語れずとも知っていることも多いのは事実です。ですが、あなたにかかわってほしくはない。これはぼくの意志というより、SYOUの意志です。お分かりいただけると思いますが」絞り出すような声で、哲夫は言った。
二人の間に、短い沈黙の時が流れた。哲夫の胸の中で、心臓がどんどんと前へ前へ走り出していた。 ここで会話を止めてくれ。哲夫は祈るような思いで両手を握りしめた。奈津子は哲夫の揺れる瞳を静かに、追うように見つめた後、ゆっくりと口を開いた。
「他人の都合によって一方的に情報を聞かされるのはわたしも御免です。ですが、これはわたしの意志なんです。聞きたい、知りたいというのが危険を伴う行為だとしても、わたし自身の意志で、今そのことを知っておきたいんです。主人との間に秘密は作らない主義と言いましたが、いざとなれば秘密も飲みこむ覚悟です」
秘密を飲みこむ。その言葉に込められた覚悟に、哲夫はただ驚きと恐れだけを抱いた。
「……奈津子さん、あなたがどんなにSYOUにとって大事なひとか、ぼくは知っている。いろんな意味で特別なひとなのです。あなたはSYOUの望まないエリアに踏み込んではいけないんです」
視線を落とした哲夫の顔をじっと見つめ、微かに微笑むと、奈津子は言った。
「哲夫さん。彼にとってわたしが特別だというなら、わたしにとってもそうなんです。あの夏、十四の彼に対してわたしが抱いた感情は、わたしの一生の秘密のはずでした」
哲夫は無言で顔を上げた。
すでに笑顔は消え、ただ真摯な、追い詰められたような細い光が彼女の瞳の奥に宿っていた。
「わたしのほうはわたしのほうで、多少知りすぎてるんです。そのマンション関連で亡くなり、あるいは行方知れずになった方々の人数を数えてみました。行方不明の旅行者二人。マンションで三人。樹海で二人。関係者として探偵さん一人。そして、あの子が愛したかもしれない娘さんひとり。
それだけの人の生死にあの子がかかわっているのなら、わたしはひと時もここに坐してはいられません。ちゃんと仕事して人を愛して、まっすぐに生きたい、まっとうに生きて見せる、それがあの子と口癖だったんです。そしてわたしは一生をかけてそれを見守るつもりでした」
室内の空気はまるでしんとして、なにも出て行かずまた入らず、このままここにいれば不都合も不幸もこの世に存在しないようにSYOUには思われた。
静かに響くオルゴールの音、繰り返されるメロディ。広い居間の中央に置かれたゆったりとしたソファベッドは、まるで天からも地からも切り離された三つの若い体を乗せたやわらかな箱舟のようだった。
SYOUと宝琴は、眠り続けるリンを挟んで両側に横たわり、それぞれ、順番にリンに話しかけた。今は宝琴が眠っているから、SYOUの番だ。
宝琴が幼さの残る声色で語り続ける中国語の響きを聞くのは、SYOUには愉しかった。音楽のように柔らかな発音、小刻みに高低を反復する抑揚。リンはきっと気持ちよく聞いていることだろう。うとうとしながらもSYOUの意識は決して消え入ることはなく、ふと体が傾く拍子に、リンの呼吸が止まってしまわないかとあわてて顔を覗き込むのだった。
「……どこまで話したっけ」
枕元に肘をつき、陰影の深い顔を覗きながら、夢見るような口調でSYOUは言った。正直、今日が何日で何曜日なのか、自分でももう定かではない。何日自分が寝ていないかも。指先でリンの前髪をかき分け、額をそっと撫でてみる。
ひんやりした肌が、寂しく指に触れる。
「何度も話したよね。島で見た蝶々の降る森、昼時の遠浅の海の色。
寂しいとか悔しいとか切ないとか知る前に、風景が先にぼくの頭になだれ込んで、気持ちは後からついてきた。
感情が生まれる前に記憶に下書きされたのが、森で、海で、花で、そしていろんな鳥の声と、光と影の記憶なんだ。これはすごく幸せなことだと思う。
あのころは気持ちがただ幸せの中にいた。きみにもそういう時はあったかな。それとも、誰でも、子どものときはそうかな。きみの最初の記憶はどんな風景なのかな」
何の過酷な過去もない、宿命もない、ただの二人として会えたなら、きっと自分が子供のころ見た風景の中に、その時のような気持ちのままで、行くこともできるのかもしれない。ごく普通のカップルとして、手に手を取って。
「リン。聞こえてるかな。
……ぼくは誰と戦えばいいのか、言ってくれ。きみの望みを。聞いてから決める。言ってくれなければ、先へ進めない」
だって。
この空間にいて、誰をも傷つけず、平和に三人で寝起きすることのどこに罪があるのか、だんだんわからなくなってくるのだ。これは退行なのか? 敗北なのか? 何に対する?
自分が本能を弾けさせて、まわりの人間を傷つけていたとき、負けはしなくても得るものは何もなかった。病的な種火は消えたわけではなく、自分の中に変わらずくすぶっている。何かあれば容易に火はつくだろう。だがそれは病の火だ。リンが今夢の中で幸せで、自分も満ち足りているなら、このまま、自分は眠ることができずに息絶えて、リンは目覚めることができずに息絶えて、それでどこが悪いというのだろう。リンを生かす。リンが生きて、そこに自分の姿がなくて、むき出しの残酷な現実だけがあって、あの日マンションのドアから押し出され突き飛ばされたときのように、行くところがないと彼女が泣き叫んだなら、それは果たしてあるべき生といえるのか……
「SYOU」
眠っていると思った宝琴が背後から声をかけてきた。
「何をしてるの? どうしたの?」
「……どうしたって?」
気が付くと、部屋の入り口付近の鏡の前に立って、ごつごつと額をぶつけていた。声をかけられるまで、確かにリンのそばにいた気がしていたのに。
「あれ。……どうしたんだろう」
SYOUはふらつく足でベッドに戻った。宝琴は泣きそうな顔をしてついてきていた。
「SYOU、ちゃんと眠って。それ以上起きていたらヘンになる」
「眠りたいんだけど、眠るのが怖くて……」
「わたしがいる、ちゃんとリンを見てる」
「そう思うんだけど」
それきり言葉が出て来ない。頭にも視界にも靄がかかり、すべてのものから現実感が消え失せて、ただ体だけが異次元を浮遊しているようだ。
宝琴は目に涙をためて、SYOUの前に立った。詩織がまとめて送ってくれたうちの一枚、鮮やかなエメラルドグリーンのワンピースを着て、セミロングのくせ毛は背中にふわふわと垂らしたままだ。細いその姿は、海から出てきた絵本の妖精のようだった。
「SYOU。わたし、怖い。リンが眠ったままで、SYOUが倒れちゃったら、わたしどうしたらいいの。行くところがないのに、ほかに誰もいないのに。お願い、変にならないで。SYOU、お願い。わたしを一人にしないで」
ベッドに座るSYOUの腕をつかみ、宝琴は涙をぽろぽろと零した。
SYOUはただぼんやりと宝琴の涙にぬれた頬を見た。少女はSYOUを揺さぶり、胸に抱きつくと、やがて声を上げて泣きだした。怖い、怖い。リン、SYOU、誰か。ジンザイウォディパンビェンヨウ。(誰か傍にいて)マーマ、マーマ!
SYOUはゆっくりと両手を上げ、宝琴の震える背に回した。
泣かせてはいけない。もう泣かせては。この子はもうずっと、涙の中を生きてきたのだ。泣かせてはいけない。
「ちょっと、眠っても、いいかな」
波打つ背中を撫でながら、呂律の回らない口調で、そっと聞いてみる。
「うん。……うん。眠って、SYOU」しゃくりあげながら、宝琴は答えた。
「誰が来ても、開けちゃだめだよ」
「大丈夫、開けない」
「ほんとうは、誰かに来てもらった方が……ぼくの知り合いの、親切な男の人がいるんだけど……」
「男の人はいや。誰もここに入れないで、お願い。SYOUだけでいい、ひとりで大丈夫だから」
「……わかった。眠っても、すぐ、戻って来るから」
「わたしも、ずっとそばにいる」
「それで、ぼくより先に彼女が目覚めたら」
「うん」
「愛してるって、大好きだって、伝えくれる? すぐ、起きるって」
「うん、うん、わかった」
宝琴は一層力を込めて、SYOUに抱きついた。
SYOUは微笑んで宝琴の額にキスをすると、サイドボードに手を伸ばし、震える指でピルケースを取り出した。