訪問者
静かなブレーキ音に外を覗くと、庭の垣根越しに門前に止まる車のライトが見えた。奈津子はテレビを消して立ち上がった。
引き戸を開けて外に出る。庭の飛び石を渡った向こう、屋根つきの格子戸の外に、人影が三つ、見えた。
……人数が増えた、そう簡単に携帯で知らされたけれど、それがあの二人?
夕闇の中、近づく奈津子を見て軽く微笑んでいるのは、帽子をかぶった中年男性だ。その隣で表情を硬くしている若い男性が多分北原哲夫だと、奈津子は勘で判断した。その背後に控えている丸顔の男性は、薄闇に沈んで容貌がよくわからない。
「北原さん?」声をかけながらからりと門を開ける。隣の犬がわんわんと大声で吠えた。呼びかけられた男は少し頭を下げて固い声で言った。
「どうも、北原です。遅れた上に予定が少し変わりまして」
「その点についてはこちらがお詫びしなくちゃならない」帽子の男性は鷹揚に言うと、北原より多少丁寧に頭を下げた。
「突然の訪問で済みません、櫻田と申します。ご主人の正臣氏には昔からお世話になっております。S署にいたころは迷惑をかけっぱなしでした」
奈津子は不思議そうに視線を泳がせたのち、思わず声を上げた。
「……櫻田さん? あの、警視庁の、たしか今捜査一課……」
名を呼ばれた男はさっと制するように掌をこちらに向け、小声で言った。
「細かい自己紹介はあとでいいでしょうか。後ろは同僚です。不躾な訪問でまことにすみません。いろいろ、どうしてもお話ししたいことがあって、こんな形での訪問になりました。お怒りでなければ通していただけますか」
奈津子は哲夫の戸惑ったような顔にちらりと視線を移し、そして慎重に言った。
「個人的にはもちろん歓迎です。でも、当初の予定は違っていました。わたしがお招きした最初のお客、北原さんは納得なさっているのかしら?」
奈津子に視線を向けられて、哲夫はまだ何か得心の行かない様子で言った。
「じゃあ本当に、ほんとにお二人は警察の……」
北原を挿んで、二人が掌でその発言を抑えるようなそぶりを見せた。奈津子は黙って頷いた。哲夫はふうっと薄くため息をつくと、言った。
「……とにかく、命拾いした気分です」
男二人は、哲夫の頭越しに苦笑しあった。菊池です、と言って丸顔の男は奈津子に手を差しだした。
庭に面した広い和室で、大きな樫のテーブルを前に座り、北原哲夫は落ち着きなくあたりを見廻していた。漆喰の白壁、黒い柱。縁側には早くも南部鉄器の風鈴が下がり、涼しげな音を立てている。どこか墨の香りのする、どっしりとした日本家屋だった。SYOUがここで人生の転機となる十四のひと夏を過ごしたことは、社長からも本人からも聞いている。だが今、そういう話をする雰囲気でないのは確かだった。
「いいお宅ですね、空気の自然な流れがあって」隣で、熱い茶をすすりながら櫻田が言った。短く刈りそろえた髪に、細い目。あばた交じりの肌にはいくつかの傷。一見油断のならない容貌だが、差し出された羊羹に、夜の梅ですね、大好物です。と目を細めると、隣りの親父のような人の好さがにじみ出た。
奈津子は哲夫の湯呑に熱い茶を注ぎながら言った。
「アメリカに渡るのを機にひとに貸したんですが、契約更新をせずに店子が出てから中を見たら、乱暴な住みように胸が痛んで。やはりたまに帰国したときの拠点にしたいと、それからはひとに貸していないんです。日本に長期滞在するときはここに泊まって、お掃除したりお庭の手入れをしたり、……いろいろと気晴らしにもなりますし」
「ぼくはマンション住まいなもので、風鈴も隣近所からの苦情の対象なんですよ。かみさんがトラブルを嫌がって音のするモノは下げさせてくれないんです。こんな風流な音色が楽しめる環境は羨ましい」 櫻田は肉厚の顔に無骨な微笑みを浮かべながら言った。
「南部鉄器の風鈴なんです。高校の修学旅行先で、SYOUが買ってきてくれました」
北原は思わず顔を上げて、硝子戸の向こうの暗い縁側に目を凝らした。
「本来のお客の北原さんにはすまないことでした。大事なお話がおありになったのでしょう」菊池が、こちらに声をかけてきた。穏やかな表情の中にに本音を包み隠している感じで、棘はないが正体もつかめない。哲夫はひと口すすった湯呑をテーブルに置いて答えた。
「正直、奈津子さんとお話ししたかったのは確かです。お互い、SYOUを巡っておなじ心労を重ねている最中でしたのでね。ご連絡を受けて、ぜひお会いしたいとお返事したら、事務所でお話しするよりはとこちらにご招待を受けたんですが」
「返す返すも、申し訳ない。こちらにも、余裕というものがなかったのです」櫻田が改めて深く頭を下げた。菊池が隣で淡々と付け加えた。
「ここだけの話ですが私は特別な部署に属しています。アジア方面の諜報関係が担当で、しかも上からの指令なしに動いています。大変デリケートな訪問であることはご理解いただきたい」
櫻田は、驚き顔の奈津子のほうに顔を向けた。
「ご主人とは電話やメールで、海を越えていろいろと相談に乗ってもらっていたんですよ、そして今日あなたと北原氏が合う予定だということも、ご主人からうかがっていました」
「それでしたら、北原さんを介さなくてもわたしに直接連絡していただければ」
「御主人は心配なさっていたんです。ことSYOU君のことになると、あなたはすぐ我が身を省みなくなってしまうと。日本に行くのを止めるわけにはいかないが、余計な情報を持ち込んで心配させてくれるなと釘を刺されていました。というわけであなたのお電話番号もご実家の住所も教えてはもらえなかったのです。しかしぼくにはぜひお会いしてお聞きしたいことがあった。そこで、申し訳ないが動向の捕えやすいマネージャーの北原哲夫氏のほうから押さえた、ということです」
「押さえ方が、まるでサスペンスドラマのようでね。どこの国に拉致されるのかと思いましたよ」哲夫は皮肉交じりに言った。
「その点は重ねて謝罪申し上げます、仕事がらつい威嚇的な態度を取りがちでして」櫻田は苦笑したのち真顔になると、奈津子に向けて改めて語りかけた。
「今回のことは、あくまで私的な訪問ということにしていただけますか。つまり、プライベートタイムに元同僚の奥方の元へ向かうご友人をたまたま見かけ、便乗してお邪魔した、というかたちです」
「つまり、お仕事として認められていない範疇のことをわたしにお聞きになりたい?」
「鋭いですな」菊池が感心したように言葉を挿んだ。
「端的にお聞きしますが、晶太のことですか?」
奈津子が唐突に本名を口にしたことに、哲夫は軽い驚きを覚えていた。
「それだけではないが、それも大いに絡んできます」
奈津子は櫻田の返答を聞くと、背筋を伸ばし、両手をテーブルの上で組んだ。
「櫻田さん。わたしたち夫婦は、今時非現実ですが、隠し事はしない主義なんです。晶太のことは知りたいですけど、身勝手なわたしの身を案じてくれている主人に、わたしも秘密を作りたくありません。ここだけの話、をされてしまうと正直精神的に負担になります。これからわたしが耳にする話は、そのまま主人に行くと思ってください。それでいいですか」
櫻田は奈津子の切り返しに絶句した。いっぽう哲夫は内心快哉を叫んだ。
この身勝手で乱暴な男どもは、自分らの都合だけで一般女性に秘密交じりの情報を手渡し、その見返りに彼女から生の情報を引き出したがっている。自分を車にひきこんだ時の態度から見ればその一方的な姿勢はわかろうというものだ。どこでどう止めようかと思案していた彼の前で、奈津子は自らそこを遮断したのだった。
「なるほど、ごもっともです。あなたは聡明な方だ」
櫻田は体を傾けて、座布団の上で座りなおした。
「いいでしょう、こちらからもご主人に伝わっても差し支えないことだけ申し上げます。大げさになりますが、この国の将来を憂えてのやむにやまれぬ訪問だと、そこはお分かりいただきたい」
「ぼくが同席していてもいい話題ですかね」北原は横から口を挿んだ。櫻田はこちらに細い視線を向けた。
「もちろんです、あなたもマネージャーさんとして彼の安否には心を痛められているでしょう。お互い協力しあいましょう」
軒先で風が鳴り、風鈴がりんりんと澄んだ音を響かせた。十秒ほどの無言の時間を経て、ゆっくりと櫻田は口を開いた。
「……では、多分ご主人がご存知の事柄からです。何でも話し合う仲とおっしゃいましたね」
「ええ」
「では、行方不明の旅行者の話は」
「知っています」
「彼らがかかわっていた宗教名も」
「知っています」
哲夫は話が読めないまま二人の顔を交互に見た。
「ではそこからです。ぼくが疑問に思い、こだわっていた件で、最初から結んでみましょう。
今年の春、来日したままホテルに荷物を置いて行方不明になった二人の中国人旅行客がいる。ご存じのとおりです。彼らに共通していたのは、中国最大のカルト教団の弾圧に加わっていたということです。
いっぽう晶太君はある女性に関する情報を私立探偵に頼んで集めていた。それを受けて探偵はあのマンションを張っていた。そののち探偵はビルから転落死を遂げた、これは自殺とされています。その彼がかつて調査のため張り込んでいたマンションで六日前爆発事故があり、三つの身元不明の遺体が出た。これは新聞でも報道されました。部屋の持ち主は高齢で、人に部屋を貸すと言って田舎に引っ込んだというが、いまのところ行方がしれません。
探偵が彼に渡すはずだった報告書を後で助手が署に届けた、これも内部で握りつぶされましたが見るものは見ています。そのカルト教団の教祖一家と、娘に関するデータでした」
櫻田の隣で、サングラスの男が俯き加減でメモ帳をとんとんとペンで軽くたたいている。哲夫は男たちと並んで奈津子の向かいに座りながら、初めて聞くSYOUの話に身動きも取れないでいた。
教祖の、……娘?
「問題はここからです。ガス漏れ事故とされ、さっさと解体が進められた部屋には広い屋上庭園がついていた。解体に先立って、一応庭園も調査されたんです。結果、そこの土壌から細かく寸断された人骨が出た。そして、大型のガーデンシュレッダーからも、人体を構成する成分、が検出されました。」
「……報道では聞きませんでしたが」戦慄を覚えながら、哲夫は口を挿んだ。
「むろん外に出してはならない事項だからです。そのデータは管轄の署内で抹消されました。だが知ったものの記憶を消し去ることはできない、そこは将来の約束と、金で動かすことになります。だがその手が効かない手合いもいる」
「つまり、その遺体……粉砕された人骨……と、行方不明の二人が結び付くと?」
「あくまで勘ですがね。説明は後にしましょう。そして次の遺体の話です。実は昨日、富士の樹海の中の細道に乗り捨てられた車のその先から、二人の男性の遺体が発見されました。小さな記事なのでほとんど注目はされませんでしたが」
「樹海ですか?」奈津子は不思議そうに聞き返した。
「樹海の遺体とマンションの事件とどう関係があるんでしょうか」
「彼らは小物や携帯も含めて、身元を表すようなものを何も身に着けていなかった。まるで誰かに持ち去られたように。だが車の床から、唯一中国語のメモが見つかりました。とある建物の地図、住所、そして名称のみ。
もうおわかりでしょう。あのマンションです」
「……」
櫻田は、黙り込んだ奈津子の前にぐいと体を乗り出すようにした。
「どう思われますか。何故その一か所に中国人が集まり、晶太くんはそこの出入りを張るように頼んでいたんでしょう。
彼は探偵落下事件後姿を消し、海中の車から遺留品が発見された。それを確認なさったのはあなた、北原哲夫さんですよね」
「……そうです」
「彼のものに間違いはなかったんですね」
「間違いありません。携帯までありましたから」
「当局はあの場所、……爆発が起きたマンションが絡む事件になると、ことごとく強引に捜査を打ち切ってきます。外国人が自ら姿を消しただけだ、自殺だ、ガス事故だ、外人ヤクザの内輪もめだ、云々。だが、そこにどんなつながりがあるか、晶太さんはご存じだとぼくは思う。生きておられれば」
そこでいったん言葉を切ると、櫻田は冷めかけた茶をひと口すすった。縁側でまた風鈴がちりんと鳴った。
「あの場所の用途に関しては、黒いうわさがいくつかあります。だがここでそのことについて口にするのはやめましょう。とにかく、上からの圧力は半端ではない。だが、警察も一枚岩ではありません。不満や疑問を感じるものは出てきています。あそこに絡む事件はあまりに多すぎる、そしてそれは結局のところ、例の宗教につながってゆく。あそこで何が起きていたのか、なぜ人死にがこれほど出るのか、会えるものならぜひ晶太さんに会ってお聞きしたいのです」
「……わたしも知りたいです。生きているのかどうか、そこだけでも。いえ、知りたいのはそこだけです」奈津子は語調を強めた。
事件の全貌を知るために晶太の居場所を知りたい、という男の意思との落差がその声色に乗っているのを、哲夫は肌で感じ取っていた。
「心中お察しします。ぼくたちも、生きていると信じたい。どうでしょう、北原さん。あなたの芸能事務所に、彼の居場所に関するコアな情報が熱心なファンから入ってきてはいませんか」
こちらに視線を向けた櫻田は、まるで最初から狙いすましていたかのような口調で言った。なるほど、この情報が引き出せるから俺を狙ったということもあるのだな。北原は黙って傍らの鞄を開けると、スケジュール帳を取り出した。
「ファンクラブ会員がメールしてくる情報はこの通り雑多で、全国あちこちから寄せられています。裏の取りようがないのできりがない。ツイッターも入れると膨大な量になります」殴り書きのメモを広げて二人に見せる。ざっと見てスイスだバリだという走り書きに櫻田は苦笑いし、署に寄せられているのと同じような感じですね、といった。
「できるだけ最近のもので、目撃情報が具体的で少しでも信憑性のありそうなものはありませんか。服装等がかいてあって、内容を奈津子さんに確認していただけそうな」
「具体的、ですか。昨夜のものがありますが、顔すら見えていない情報なので一番信憑性に欠けるかな」
「顔が見えていない?」
「フルフェイスのヘルメットをかぶった男です。バイクに乗っているところを見たと。夜十時、都内の国道の交差点での目撃。背格好が似ている、雰囲気がそっくりだ。デビュー当時からの熱心なファンからのものですがこれだけでは」メモを見ながら哲夫は言った。
「特徴はかいてありますか」
「ヘルメットがマットブラック、側頭部分にハチドリをかたどった模様あり……」
「ご存じないですか」
「ぼくは見たことがありませんね。バイクの情報も黒、彼がいつも使っているのとは違う」
「知っています」
奈津子が緊張した声で割って入った。
「あの子がデビューアルバムを出した時、わたしがプレゼントしたものと同じです。サイズが合わないと言って、いつか頭が小っちゃくなったら被るとしまいこみました。レアなもので今は廃盤になっているはずです」
「ふむ」
櫻田は腕組みをすると興味深そうに言った。
「結構貴重な目撃証言かもしれませんね。アシがつくからと、普段使わないものを持ち出した可能性はある」
「どこからどうやって持ち出すんです。顔を晒してマンションに帰ったと?」哲夫はたたみかけた。
「誰か協力者がいれば、あるいは」
「この状況でマンションに寄るほどの協力者ですか」
男たちの会話を聞きながら部屋の隅に視線を投げ、奈津子はSYOUからの一年前の手紙を思い出していた。
せっかくもらったヘルメット、あのままじゃもったいないから彼女に使ってもらっています。
二輪の免許を取ったから、フルフェイスのメットがほしいといってきたんです。彼女には少し大きめだけど、おしゃれなデザインで女性にも似合うし。いつか仕事に忙殺されて頭が縮んだら僕も被ってみるかも……
……詩織さん。
奈津子は胸の中で、強く切ない視線の娘の面影に向かい、呆然と呼びかけた。