その涙を許さない
「その傷はどうしたんだ」
ハンドルを握るヤオの頬のひっかき傷を見ながらSYOUは尋ねた。
「あのかた……リン様を怒らせました」ヤオは素直に答えた。
「なるほど、手強い面もあるんだな」SYOUは軽い驚きとともに、澪子の意味深な物言いを思い起こしていた。正直、自分は彼女を手強いとか扱いにくいと感じたことはなかったのだ。その傷跡に見る激昂は、自分には想像し難い姿だった。
「何をやってそこまで怒らせたんだ」
「あなたが死んでいるならその事実を歓迎する、と言ったからです。怒るのは当然でしょう」
「……手で打たれた?」
「薔薇です」
それきりヤオは無表情の向こうで沈黙した。SYOUの脳裏に、無抵抗のヤオの顔に薔薇の花束を打ち下ろすリンの姿が絵のように浮かび上がった。
……死んでいるなら、その事実を歓迎する。
激昂するリン。
一連の流れは自分の中でごく自然につながった。
「……本当に、ぼくが悪い。きみに死を望まれても当然だ。あの探偵を雇い、彼女の手紙も願いも無視して、勝手に後を追ったぼくが悪い。そうだ、ぼくから始まった、……なにもかも」
楠という一般人の命を奪った自分の罪、一番重いその記憶がずんと鈍い痛みを伴ってSYOUの胸に蘇る。生涯自分は逃れられないのだ、この罪から。いや、逃れるな。そう、改めて自分に楔を打つ。それでも、何度時を戻しても、自分があれきり彼女を忘れられたとは到底思えないのだった。
「今彼女はどうしてる」
「今夜はお客が来る予定です。外食産業社長の」
客、という言葉に反射するようにずきんと胸の奥が痛む。その痛みには、彼女自身が感じているであろう痛みとその宿命に対する痛みと、おそらく、なんの益になる動きもできない自分に対する苛立ちがまじっていた。
「ではあそこの空間に今いるのは」
「接待兼警護のイーリンと、リンと、宝琴の三人です」
「パオチン……」
「まだ十三になったばかりです。ほかのガーデンから引き取りました。あのかたの従妹に当たります」
あのときリンが抱きしめていた少女。無事に一緒にいるのか。ほっとすると同時に、SYOUの胸に不安が湧き上がった。
「なんというか、手薄じゃないのか」
「そうです、今日は急にお嬢様に言われたもので出てきましたが、本当は離れたくなかった」
短いやりとりの後すぐに沈黙が訪れる。SYOUは思い切って核心に触れてみた。
「きみは澪子という女をどう思う。きみに影が薄いと言い、唐突にぼくにガーデンの機密を渡す。きみは納得しているのか。ぼくより少しは素顔に近い部分を知っていて、だから従っているのか」
まっすぐ前を見ながら、アクセルを踏み込み、ヤオはぽつりと言った。
「あなたよりはと申し上げておきます。まだ語れないことがいくつかあります。その先に踏み込むのはまた折を見て、にしておきましょう」そしてぐいと顎を上げると、声色を変えて言った。
「あのかた、……リン様とのことをお話しすると言いましたね。一方的な話になりますが聞いてください。
わたしは福建省北部の貧しい茶農家の三男坊として生まれました。一人っ子政策下のあの国においては、農村部の二人目以降は黒孩子と言われ、戸籍も与えられず学問も満足に受けられません。わたしは働き手として生まれたのに、借り集めた本を読むことばかりに気が向いて、畑の仕事はからきし苦手だった。全く役に立たないので、手を焼いた両親に富裕層に売り飛ばされるところでした。独学ですが気功の才があったので、買い手はあったのです。そのとき、気功の大家で、政府のお偉方にも重用されていた黄大千大師が地方巡りをしていると聞き、わたしは施術会に潜り込みました。そして弟子にしてほしいと自ら売り込んだのです。まだ十二のときでした。大師はわたしに興味をもたれ、医学の知識も豊富だということで、そのままお金を払って両親からわたしを引き取りました。そして、湖北省の香渓のほとりの家でともに暮らすことになったのです。
学ぶことは何より楽しかった。大師の尽力によりわたしは学校にも通い、成績ではだれにも負けたことがありませんでした。無愛想なので友人はできませんでしたが。いずれ立派な学者かお医者になって、恩人である大師に孝行を尽くすのが唯一の望みでした。
十七になったある日、大師は川辺で拾ったといって小さな少女を抱いて帰りました。年齢はわかりませんが、歳を尋ねると右手に一本指を足して答えました。六歳。ご本人は覚えていないと言いますが。
彼女は幼いのに輝くばかりに美しく、大師は川で真珠を拾ったと言ってたいそう喜んでおられました。何か静謐な、そしてしんと美しいものを持った少女に、わたしは何か畏敬の念のようなものを抱いたほどです。月鈴という美しい名前を、大師はつけられました。そしていきなりおっしゃいました。この子は聖なる子だ、いずれわたしのすべてを継がせる。お前はこの子に仕えこの子を守る盾になれと」
ヤオの記憶を絵に代えて、SYOUは自分の脳裏に自分だけの物語を展開させていた。細い腕を大師の首に回す少女、目を細める白髪交じりの温厚な顔。少し離れて立つヤオは、無表情の内に揺れる心を隠して、眩しそうに彼女を見ていたことだろう。それにしても、手にした途端に後継者に指名していたとは。
「けれど年若い奥様は彼女を歓迎していませんでした。その半年前に女のお子様をわずか一歳でご病気でなくされたばかりだったのです。実の子を救えないあなたの気功はインチキだとなじり続けていらっしゃいました。お二人の間が冷え切っていたところに月鈴様、そして後継者指名です。
悲しみの方向を振りむかず、拾い子に夢中になる大師に苛立って、あのかたが来て半年もたたずに、奥様は家を出てしまわれました。
最初は妈妈と呼んで甘えていたリン様は、ひどく傷ついていらっしゃいました。大師も同様です。奥様への愛情がないわけではなかったのです、ただ過去を振り返らない潔さが溝を作ったと言えるでしょう。
おひとりになられた大師はさらにあのかたを一層可愛がられ、繰り返し言っておられました。お前は美しい水、陽の光だ。誰にも平等に降り注ぎ、誰の喉も平等に潤し、誰をも同等に幸せにし、見返りも求めず人を生かす。常にそのようであれと。
咬傷という名は月鈴様がつけたあだ名です。わたしの生まれつきの頬の傷をなぜか気に入られ、この名をつけられたのです。噛み傷のついた黒猫みたいで素敵、と。何度も傷跡を撫でられ、その名で呼ばれているうち、わたしはその名も嫌いだった傷跡も好きになりました。
大師は村の集会や祭り、気功術の講習、いろんな場所に自慢の娘を着飾らせて連れて行かれました。 その姿はいつも花のように美しく、常に賞賛の的でした。あのかたはいつも優しいお父様に甘え、膝の上で本を読んでもらい、漢詩をいくつも諳んじて、眠るときは背中を撫でてもらっていました。あのかたが十を迎えるころには、大師は気功師というより、陽善行の教祖としての名声のほうが大きくなっていました。確かに、あのかたを拾われてから、一気に宗教の知名度と信者数が上がったのです。あのかた自身、誰も彼もではなく、近しくて好意を持っている相手の傷をたちまちにして癒す能力やある種の透視能力をおもちでした。大師はまだ外に出せるまでになっていないと、それをひけらかすことをお止めになっていましたが。
中学に上がるころ、あのかたはひとりの日本人に心を奪われました」
「日本人?」
「あなたです」
光を消した黒曜石のようなひとみが、刻印でも押すようにSYOUを捉えていた。SYOUはその目を見返した。言葉は出なかった。
「テレビで日本人歌手としてあなたの映像を見たときからいきなり夢中になり、ネットでドラマを追い、集められる画像を片っ端から集めていました。どこがいいかと大師が聞いても、わたしが尋ねても、黙っててと乱暴に切り返すほどです。大師は苦笑しておられましたが、その少女らしい自然な姿は、わたしにはほほえましく思われました。仲のいい従妹の宝琴にだけは、どこがいいのかを微に入り細に渡って語り聞かせていたようですが。
そしてあのかたが十四になったとき、事件は起きました」
「事件?」
「村はずれの頭の遅れた大男に辱められたのです」
無造作に言い放つヤオの顔を、SYOUは息をのんで凝視した。その表情は平らかで、なんの揺れも見えなかった。
「その日、わたしは大学から休暇で家に帰っていて、久しぶりであのかたとふたりで薬草採りに夏の山に出かけていました。あのかたは知識よりも香りで薬草を嗅ぎ当てる能力があり、いい草がある場所へどんどんと分け入ってしまうので、追いかけるのが大変でした。
帰るまでにどちらがたくさん草を集めて大師に褒められるか競争だと言って、わたしたちは二手に分かれました。目の前の薬草にわたしが夢中になっていたころ、あのかた……リン様は、突然現れた大男に殴られ、動けなくなったところを乱暴されていたのです」
「……」
「間抜けにもわたしは籠をいっぱいにするまでそれに気づきませんでした。あの男の立ち上がる姿を遠くに見て駆け寄ったわたしが見た光景は、口にすることができません。彼女は目を開けてわたしを見ていました。声も出せない状態でした。男はわけのわからないことを言いながらわたしを見て笑い、だらしなく下着をずり上げました。次の瞬間、わたしは籠を取落とし、草刈り用の鎌を振り上げていました。たとえでなく、本当にそれからの記憶が飛んでいるのです。
気が付いたとき、足元には血まみれの男と、顔を覆ってうずくまるリン様がいました。わたしもまた血まみれでした。リン様は顔を上げるとわたしを見ました。
長いこと見つめ合ったあと、あのかたは突然麓の川の方向に走り出しました。もちろん、慌てて後を追いました。
そうして、あのかたがなにもかも脱ぎ捨てて流れで体を洗うのを、わたしは茫然と眺めていました。
あのかたは言いました。なにもなかったのよ、なにもなかったの。ヤオは誰も殺していない、わたしにも何も起きなかった。そうよね。時を戻して、ヤオ。
わたしはびしょ濡れのあのかたを抱きしめ、服を洗って生乾きのままリン様に着せて家に戻りました。驚く大師に、熊に追われて川に落ちたの、ヤオが守ってくれたのよと、あのかたは言いました。そして三日三晩の高熱にうなされました。
目覚めたとき、山の中での出来事はきれいさっぱり記憶から消えたようで、薬草採りの事実そのものがあのかたの頭から消去されていました。わたしはむしろほっとしました。そしてあの男の身体は、なんと本当に熊に食い散らされて無残な姿で発見されたのです。
彼の死を悲しむ者はいませんでした」
相槌も打たずただ聞き入るSYOUの横で、ヤオは正面を見ながらよどみなく語った。
「けれど熱が完全に下がったころ、あのかたは変わってしまっていました」
「どういう風に?」
「それまで振り向きもしなかった男たちと、まるで大人の女性のように接するようになったのです」
「大人の……」
「意味はお察しください。わたしには信じられませんでした。腫れ物に触るようにしていたわたしには目もくれず、とにかく言い寄る男、訪ねてくる男に明るく挨拶し、微笑みかけ、必要以上に人懐こくなってしまったのです。誰もが自分こそは特別と舞い上がりました。
村では大師の養女は怪かしだとか魔がついたとか、さまざまに言われはじめました。男たちは彼女に夢中になり、そしてリン様は誰も拒絶しなかった。それこそ、太陽のように平等に。
わたしには耐えられませんでした。そして全く理解できなかった。大師の苦悩も見ていて痛々しかった。
ある日、リン様が男と一緒に物置小屋から出てくるのを見て、わたしは突然の激昂にかられました。気が付けば獣のように男を殴り飛ばし、蹴り倒していました。気功術から派生した武術も同時に大千師に習っていたので、そのころわたしの身体はひとつの武器でした。男は血まみれで転がるように逃げてゆきました。
リン様はわたしを責めもせず、ただ、そこにいないもののように無視しました。
わたしはその足元に膝をついて、泣きました。泣いて頼みました。
どうかもうやめてくださいと。これ以上は耐えられませんと。
どうしてこんなに身を粗末にするのですかと。
あのかたがわたしを見下ろす視線が、何か温かい光のように感じられました。どうしてわたしにそれを頼むの、あのかたは頭の上から静かな声で言いました。
わたしは言葉を選べなかった。混乱していました。大師にお仕えする身で言えることは限られていたのです。わたしはこう答えました。
あなたのお父上である大千大師のお苦しみをわかってあげてください。どれだけあなたのことで悩まれているか、あのかたの立場とご自分に対する大師の期待を思い、そのうえでどうかご自分を大切にしていただきたいのです。あなたの偉大なお父上のために。あなたは陽善功の希望の光なのですから。
嘘はなかった。でも、一番大事なことを言わなかった。そういう意味では大嘘でした。
顔を上げたとき、陽光のように柔らかだったまなざしが、月も星もない夜のように冷え切っている、そんな風に思われました。
あのかたは言いました。
ヤオ、ではわたしは本当のことを言うわ。
わたしは動物のように生きたいの。猫のように盛り、理由もなく恋をし、森の中で誰かの子どもを産みたいの。自由に、平等に。それが双方にとって肉と本能の喜びを齎すなら、どこに不都合があるの?
それからもうひとつ。もう二度とわたしの前で泣かないで。
わたしは自分の失態を知りました。それがもう二度と取り戻せないことも。
それ以来、わたしは約束を守り、あのかたの前では一度も泣いていません」
聞き終えたとき、静かな確信がSYOUの胸に落ちていた。
……彼の物言いと涙を許さなかったのは、おそらくリンもまた心の奥で、密かにヤオに思いを寄せていたからだろう。
彼女は潜在意識の中で、ヤオに見られた自分の姿を恥じ、そして自分の悲劇をだれもかれもに対する愛に無理やり代え、それを快楽だと自分に刷り込んだのだ。
……敬愛する父親の教えを守り、さらに誰をも恨まないために。
マンションが近づいていた。ヤオは減速し、ゆっくりハンドルを切ると言った。
「あなたになぜリン様が瞬時に恋をしたのか、わたしには計り知れません。
それでもとにかく、あなたはリン様にとって誰よりも特別な存在なのです。
どうか御身を大切にして、あのかたのそばにいてあげてください。あなたの姿を見ればきっと、魂が砕けるほどお喜びになることでしょう」
車を降りる前、ヤオの目元に薄く涙が光っていたように思われたけれど、見てはいけない気がしてSYOUはあえて視線を向けなかった。
思えば、滔滔とよどみなく語り続けたあの日のヤオは、まるで長い蝋燭が最後に上げる焔のゆらめきのようだったと思う。そう、最後まで彼はリンへの思いを赤々と燃やし続けたのだ。
後で語ると言ったさまざまな情報を抱えたまま、あの爆音の中に散り果てるまで……
追想から覚めて、ふと傍らを見ると、宝琴はリンのソファベッドにもぐり込んで眠っていた。
二つの美しい顔が、おでこを突き合わせて、目を閉じている。
SYOUは思わずゆるい笑みを漏らし、彼女たちの肩口まで毛布を引き上げた。
そして改めて思った。
何とか口の堅い医者を見つけなければ。
……なんとしても彼女、黄月鈴を生かさなければ。