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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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ツァラトストラはかく語りき

 哲夫が現場に着いたとき、すでに救急車が到着していた。

 ああ、……やってくれた。呼んじまったか。

 それが白い車を見たときの彼の本音だった。


 SYOUから電話があったのは朝の六時半だった。

 どうしよう、……気がついたら彼女が倒れていて意識がない。

 彼女って、詩織さんか? お前、なにをやった? 

 ……わからない、蓋が、蓋が取れたから。

 おい、蓋ってなんだ。大丈夫か。聞いてるか、SYOU?


 薬でもやっているのかと疑いながら、とにかく自分が行くまで応急処置をしていろ、とりあえず自分の車で病院まで送る、とだけ言って車に飛び乗った。外にばれるような騒ぎにする前に何とか抑える、それが優先順位の一番だったのだ。


 室内には倒れた鉢植え、割れた花瓶やシェードランプが散乱しており、ベッドの上には蒼白な顔のSYOUと、その膝に抱かれてぐったりしている伊藤詩織の姿があった。顔面は血まみれで、小さな呻き声を上げながら右手をふらふらと動かしている。SYOUはまだ混乱しているようで救急隊員の質問にもうまく答えられず、ただ助けてください、を繰り返していた。

 とにもかくにも、生きている。それを確認して、哲夫はひとまず安堵した。

 マンションの部屋は芸名で借りてはいなかったので、SYOUの住まいと知る住人はあまりおらず、それほど野次馬も集まらないうちに、彼女は病院に運ばれた。社長の指示でSYOU自身は救急車には乗せず、哲夫が同行した。

 打撲傷、頬の軽微骨折、脳震盪に鼻血、一時的な貧血。診断の結果は、見かけの深刻さに比べればましなほうだった。 倒れたとき頭を強打したようなので、念のためCTスキャンをとることになった。

 警察は来なかった、マスコミに情報も洩れなかった。というより、被害者の父親である権田組組長が止めたのだ。

 その日中に父親の代理人から連絡があった。

 被害届は出さない。不肖の娘がアイドルに血道をあげて、痴話喧嘩のあげくに殴打されて入院したなどと、世間に知られれば恥をかくのはこちらだ。彼女の仕事にも支障が出る。見舞いにも謝罪にも来るな。

 そちらにはそれなりのペナルティは負ってもらう。ライブ活動は今回で打ち止め。だがこの事件を隠してきちんと最後までやること。娘と縁を切り、入院費、治療費、仕事のキャンセル分、慰謝料は払ってもらう。そして、あとの話は別の場所で……

 マンションと病院と事務所を飛び回っているうちに、哲夫の一日は暮れた。


「いつかこういう時が来ると思ってはいたが、……」

 ため息交じりにそういうと、関岡社長は黙り込んだ。

 深夜の事務所の応接ソファで哲夫と並んで、SYOUはただ俯いていた。ぼさぼさの茶髪にトムフォードの薄いブラウンのサングラスをかけた、「やつれ派手」とSYOUが呼ぶ社長の容貌は、いつも若く見える彼にしては五十代という年齢相応に見えた。

「ピアスとやらが、そんなに大事だったのか。伊藤詩織がだれなのか分かった上でのこの所業か。おまえ、事務所ごと潰す気か」

「すみません」

 全く無表情な声でSYOUは言った。長い沈黙がそれに続いた。

 窓の外は風俗店のネオンと駐車場の灯り以外は消えて、夜の街のにぎわいも静まっている。

「……今は特に、暴力団とどんな形にしろかかわったことが表に出るとまずい。あちらがことを荒立てるのを避けたがっているのは不幸中の幸いだ。非は一方的にお前にあるし、お前の過去がらみであちらが強気に出てくるのは間違いない。まあ起きたことは仕方ない、目の前にはとりあえず最後のライブという仕事がある、それを大事にしろ。……気分を落とすな。できればだが……」

 いったん言葉を切ると、社長は声を落としてつづけた。

「お前にこういう傾向があるというのは、知らなかったわけじゃない。そこを抑えられていたから、ここまで来れた。正直、今回は失望した。この先もこの世界で生きるなら、その性分を何とかしろ。ことが表沙汰になって一番傷つくのは、お前を信じてついてきたファンだ。わかるか?」

「……本当に、申し訳ありませんでした……」

 ゆっくりと、膝につくかと思うぐらい深く、SYOUは頭を下げた。


 二人で応接室を出ると、SYOUは老人のようにゆらりゆらりと不安定に歩き、廊下の突き当りまで行って立ち止まった。 そしてそのまま壁に体をもたせかけるようにした。

「おい、大丈夫か」

 思わず肩に手をかける。返事はなかった。エレベーター前の空間で、SYOUは小窓の向こうの光の少ない夜景を見ていた。横に並んで外に視線を投げながら、哲夫は静かに語りかけた。

「お前さ、昔から結構アナーキーだったよな」

「………」

「ライブ会場でノリに任せて服脱ぎ始めて全裸に近いとこまでいったり、生放送で歌詞改造してとんでもない単語連発したり。お前の手をつかんで袖口まで引きずったのもマイク止めたのもみんな俺だ。街中で酔っ払いに、連れてた女の子ごとからかわれていきなり殴り倒したのもあったな」

 背後から、SYOUが眺めているガラス窓に手をつく。

「それからあれだ、お前の叔母さんとかいうのが楽屋口に来てファンと小競り合いになって、どきなよおばんとか怒鳴られてた時、お前出てきてファンの……」

「もういいよ」SYOUは小さな声でその先を押しとどめた。

「お前をここまで飼いならすのはなかなか大変だったんだぞ。社長の落胆は仕方ない。だが今回は俺はお前に頭が上がらない気分だ。お前、自分の判断で救急車呼んだんだよな」

「………」

「俺はあのとき、あきらかに詩織さんの状態よりお前のこれからを優先してた。だから救急車を呼べと言えなかった。

 彼女が気絶しているだけなら、部屋に駆け付けて金を渡して示談にして、とかそんな都合のいい可能性に賭けたんだ。 

 ……こういう仕事してると、こんな人でなしな判断しかできなくなるんだな」

「俺じゃなくて、ツァラトストラが呼んだんだ」

「なんだって?」

 窓のほうを見たまま、SYOUは歌うように言った。

「“おお、わたしの兄弟たちよ。あなたがたは豪胆であるか?目撃者のあるところの勇気ではなく、もはや見ている神もない孤高の勇気、鷲の勇気をもっているか?

 冷たい心、驢馬、盲者、酔いどれを、わたしは豪胆と呼ぶことはできぬ。豪胆なのは、恐怖を知りながら、恐怖を圧服する者だ”」

 哲夫は呆れたような顔をして聞いていたが、やがて口を開いた。

「……なるほど、俺より前にそいつに電話してたのか」

「そうだよ」

「なかなかいいことを言うやつだな。あとでツァラトストラにお礼しとこう」

 SYOUは哲夫に、少しほどけた表情を向けた。

「……ときどきさ。自分が、狸御殿に住んでるような気分になるんだ」

「狸御殿?」

「花束を手にしたと思ったら、翌日には塵屑になってる。ああ化かされたな、と思う。美女だと思っても、みんな狸。そんな気分」

 哲夫は思わず苦笑した。

「で、どんな花だったんだ、今回は」

「手にしたというか、最後に渡したつもりだった。

 ……もういいや。身の程知らずなのはこっちだったんだ」

 薄暗い廊下の灯りの下の、鋭角的な横顔を見ながら、哲夫はその背をぽんと叩いた。

「それでも、たまには狸じゃない女もいるだろう。見つけ出せよ、ニーチェの鷲の勇気について話し合える相手とかさ」

 コーヒーでも買って来るよ、と背を向けた哲夫を眺めながら、SYOUの頭の中には、以前、その言葉を書き送ってくれた女性が付け加えた手紙の一節が踊っていた。


 何かあったら、思い出して。 

 何があっても、逃げないで。

 いちど逃げたものからは、一生逃げ続けなければならないのが人生よ。

 晶太、離れても、わたしはここにいる。いつでも、あなたを見ているわ……



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