愛すること
ぶつ切れの睡眠から覚めるたびに、SYOUは身を起こし、傍らのリンの呼吸を確かめた。
リンは目覚めない。あの日からずっと、ただ静かに息をしている。眠りよりはるかに遠くの次元にリンの意識が落ち込んでいるように、SYOUには思われた。
ぼくはここにいるよ、戻っておいで。
手を握り、頬を寄せて何度そう呼びかけても、リンはびくともしない。動かないからだの隣で目覚めるたびに、自分のからだの傷も火傷も目に見えて回復していく。そのあからさまな変化が、なおさら悲しかった。
ぼくはもういいから、その意志だけ持って、目を開けてくれ。あの爆発現場で遭遇するその寸前まで、きみは何を見、何を考えていたのか。一緒に分け合いたい重荷も、目を覚ましてくれなくてはどうしようもない。やっとこうして会えたのに……
「ずっとこのままなら、どうなるの」
宝琴が、リンの身体を拭きながら言った。
「食べ物はともかく、水分を摂らないまま五日以上経ったら正直危ない」
「明日で四日目よね」
口移しで水を少しずつ含ませると、飲みこむこともあった。だが下手をして誤嚥すれば誤嚥性肺炎も引き起こしかねない。スポーツドリンクやお茶、多少なりとも養分を含むものを少しずつ流し込んではみるものの、口を潤す程度の水分では汗になって終わりだった。このままでは命が持たないのは目に見えている。
弱い呼吸を繰り返すほかは、見たところまるで内臓の働きも止まっているようだ。このままいつ静かに呼吸が止まってもおかしくない。その恐怖に、SYOUはまともに眠ることもできなくなっていた。
「お医者に診せたほうがいいよね」声を潜めて、宝琴が言う。
「……そうだね」
蝋人形のような顔色のまま瞼を閉じるリンの、つくりもののような顔を見ながらSYOUは続けた。
「何とか呼ぶよ、ここに」
「呼んでいいの?」
「リンの命が最優先だからね」
「うん。でも、……」
宝琴の心配はよくわかった。この場が人目に触れてSYOUごとリンの存在が外に漏れたら、その波紋の先にあるのは何か。マンション爆破にかかわったものは、遺体の正体とリンの居所をなによりも知りたがっているはずだ。またハニー・ガーデンにつながる権力者たちも、あそこの爆発事件と同時に自分たちの秘密が外に漏れるのを極度に警戒しているだろう。
あの場の生き証人であるリンが無事ですまされるとは到底思えない。行く先が病院であっても、たとえ警察であってもだ。マンションで発見された遺体についても続報は一切ない。まるで何事でもなかったかのような報道管制が、その闇の深さを語っていた。
黙り込んだ宝琴の背に手を当てて、SYOUは言った。
「大丈夫、そんなに心配しないで。力になってくれる人がいるんだ。きっと口の堅い医者を見つけてくれるよ」
そして、出口を見つけなければ。いつまでもここに隠れ過ごしているわけにもいかない、詩織にも負担になる。何とか展開を考えなくては。
奈津子が自分を探しに日本に来ていることは監督から聞いていた。自分と会った翌日、事務所前で偶然出会い、あの埠頭にともに行ったという。その胸中を思うと、今の状況をどうにかしなければという思いで胸が焦げるようだった。ファンを含め、社長、哲っちゃん、詩織、みんな今、どんな思いでいることか。だが動けない。自分の身はそのままリンのいのちとつながっているのだ。
……わたしの兄弟たちよ、あなたがたは豪胆であるか?
目撃者のあるところの勇気ではなく、もはや見ている神もない孤高の勇気、鷲の勇気をもっているか?
奈津子の教えてくれたニーチェの言葉の、勇気、鷲、豪胆という単語にすがり、SYOUは自分を見下ろした。
鷲とまでは行かなくとも、自分は昇れるだろうか。たとえば、ヤオ―― あの男の最後の高みほどには。
形のある骨も残さずに散ったヤオ。見事な最期だ。あの男が自分に託した思いを、あの日、澪子の家で、自分は確かに受け取ったはずだった。
あの日、使用されていないレクリエーションルームになっていた地下室のドアが不意に開いて、驚き顔のヤオがそこに現れたとき、一瞬、SYOUはリンが死んだのではないかと思った。どうしてかと言われれば、それはたぶん、自分がその時一番恐れていたことだったからだ。
「どう?」
ヤオの痩躯の後ろで澪子がヤオに語りかける声が聞こえた。ヤオはいつも張りつめている眉を緩めて、一瞬泣くのではないかというような顔をした。頬に、鋭い針で引っかかれたような薄い傷がいくつも見える。SYOUは思わず立ち上がった。
「リンは」
「お元気です」
ヤオはつかつかと歩み寄ると、SYOUの手を取った。そして、目の縁を赤くして唇を震わせた。
「よく。……よくぞ、生きていてくれました。よく……」
それきり、SYOUの手の甲に頭を垂れて、ひとしずく、涙をそこに落とした。その温度が無言で語っていた。この男は、リンのために泣いている。リンをまっすぐに愛している。うすうす感じていた予感が、その瞬間背筋で弾けるように確信に変わった。
澪子は、お気に入りのロゼのワインをテーブルに置くと、ワイングラスを三つ出してそれぞれに注ぎ、「再会に」と短く言って持ち上げ、唇をつけた。言葉を出さぬまま、SYOUとヤオもそれに従った。
ひと口飲むと、澪子は低い声で言った。
「ヤオ。あなたの持っているすべてをこの男に託しなさい」
「なぜですか」
「あなたはもう影が薄いわ」
ワインを置くと、澪子は細い煙草に火をつけた。
あの時の車の中と同じ、蝶のパッケージのメンソールの煙草の香りが室内に広がった。ヤオは一瞬目を見開いたのち、唇を噛んで下を向いた。
そのまま地下室のビリヤード台の脇の応接セットで、ヤオとSYOUは澪子に向かい合うように座った。
影が薄い、の意味をそれ以上問わぬまま、ヤオはSYOUの隣で、持ってきた小形のアタッシュケースを開いた。
「ミオコに電話した時、持ってこいと言われたものです。まずこちらがピルケース。いよいよという時に使う毒薬です。十分以内に死に至ります。これが解毒剤、そして強力な睡眠剤。あとこちらの書類は顧客の個人データ。そしてこのシガーケースのようなものの中は、検体です」
「……検体?」
「爪と髪です。人数分の。わかりますね」
「……」
彼が今自分に託そうとしているものの重みに、SYOUは絶句した。これはあのガーデンの機密そのものではないか。なんだって今、自分に。
「USBメモリはないの」
「それは彼女自身が持つべきです」
「それはそうね」
澪子とヤオの間で交わされる会話には現実味がなく、まるで今月の収支を報告する部下と上司のようだった。SYOUはただ黙って、ヤオが自分に鍵を手渡し、アタッシュケースを閉じるのを見ていた。
「ヤオはもう十分働いたわ。これからはあなたがメインになって彼女を守るのよ」
「……どういうことなんだ、これは」
「あなたが生きて戻ったらそうしようと思ってた。今あなたがいるべき場所はひとつしかないわ」
だからといってヤオがリンから離れることを望むわけがない。彼女には何が見えているというのか。混乱したままのSYOUと沈黙しているヤオに向けて、澪子は語りだした。
「SYOUにはもう言ったわよね。張家輝、中国共産党の国務院国家安全部の幹部で、陽善行の処刑リストを作ったやつ。その裏で霊燦会と内通して、多額の報酬と引き換えに日本に美少女たちを輸出した男よ。
売り渡したはずのリンに溺れて、今や自分の身が危なくなってるわ。正直、要職を罷免されかかってるって話よ。ほかの客を寄せ付けるなとか自分専属にしろとか身請けするとかガーデンの存在を世間にばらすとか血迷ってるから、こちらもデータの存在をちらつかせて出入り禁止にしたの。あの男がこのままで済むわけがない。これからは危険度が増す一方よ、多分ね」
そして足を組み直すと、付け足した。
「あと、中国政府当局と、嫉妬深い張の妻。そのうちのどれがあそこを狙っても不思議はないわ。わたしからも手を回しておくけど、警護の人数を増やしたほうがいいわね」
「だったらなおさら、ぼくひとりでどうなる話でもない。ヤオがいてくれないと」
ヤオはSYOUの顔を見た。
「もちろん、わたしはあそこを離れる気はありません」
「それはそれでいいのよ。もちろん。でも」
澪子はSYOUに視線を向けた。
「……何なんだ」
「自分にできることはわかってる?」
「できること?」
SYOUは眉をひそめた。戦闘能力、軍師あるいは参謀としての能力、先を読む力、どれも心もとない。 なだれ込むように得た今のポジションで、できることしなければならないことはいまだ明確でなかった。……できること。
「はっきり言えるのは一つだけだ」
「言ってみて」
「リンを愛すること」
ヤオが細い目で空間を切るようにこちらを見た。澪子は煙草を卓上の灰皿で揉み消すと、両手を合わせて音を立てずに拍手するようにした。
「それでいいのよ」
SYOUはきっと澪子の顔を見返した。
「あんたに言われてすることじゃない」
「ああ、悪かったわね」
澪子は両掌を上げて苦笑した。
「それと、ヤオ」
SYOUはまっすぐにヤオを見つめて言った。
「きみの、リンへの気持ちを聞いておきたい。駄目かな」
「言う必要がありますか」
それはそうだった。今更言葉にする必要はない。だが、何かが迫っている今このとき、自分がはっきりと気持ちを口にした以上、ヤオという男の生の心に迫りたいという切羽詰まった衝動があった。ヤオはSYOUのひとみを静かに見つめると、小さくため息をつくようにして、言った。
「わたしの思いを語る前に、あのかたとの間にあったことをお話ししなければなりません。いずれ、あのかたをあなたに託すことになるのでしょうから、あえてお話ししましょう」
「それじゃまるで遺言みたいじゃないか」
「そのぐらいの気持ちで聞いていただいた方がいいのです」
ヤオは澪子を見ると、きっぱりと言った。
「時間が惜しい。一刻も早くあそこに戻りたいのです。SYOUを連れて行っていいですね」
「もちろんよ」
澪子は初めて見るような自然で穏やかな微笑みを口元に広げていた。
澪子もまた、ヤオの思いを十分に知っていたのだろう。そうSYOUは思った。
ヤオはSYOUに目で、アタッシュケースを持つように促した。SYOUは無言で銀色の箱の取っ手を持ち、立ち上がった。その重み以上に、ヤオに託された思いが重かった。ヤオはSYOUの顔を見ると淡々と言った。
「話は車内でしましょう」
「ああ」
階段を上がろうとして、SYOUは背後を振り向いた。澪子は片手にワイングラスを持ったまま、飾り鋲のついたアルダー材のドアに寄り掛かるようにしている。
「これで最後になるのかな」
「……そう願いたいけれど。わたしとあなたが会うと、ろくなことがないからね」
SYOUは澪子の、感情の読めない白い顔の上に視線を留めた。
「……どうにもあんたがわからない。あんたの立場としては、あのガーデンの機密は最重要事項じゃないのか。ある意味国を動かすことのできる最大の武器を俺に渡して、なにがしたいんだ」
「スペアはこっちにもあるから安心して。それに、あなたみたいな若造が機密事項とやらをどこに持ち出して騒ぎを起こそうとしたところで、上から命ごとねじ伏せられるのが落ちよ。うまく使うには相当の知恵と力が必要。そこをどう使って切り抜けるか、どう踊って見せてくれるか、しばらくはわたしのお楽しみは続くってわけ」
「……」呆れてひとこと言おうとしたSYOUにかぶせて、改めて澪子はその名を呼んだ。
「よく考えてね、何のために誰を敵にするか。誰を相手に戦い、何をゴールにするか。
リンは手強いわ。愛することは戦うことよ、相手のすべてと」
SYOUは幽かに眉根を寄せると、ゆっくりと口を開いた。
「あんたの愛するこの迷宮にからくりがあるのなら、いつか俺がそのしかけごとTNN火薬でも仕込んで吹っ飛ばせば仕組みが見えてくるのかな」
澪子はにっと笑うと、ワイングラスを目の前に翳して見せた。