いつか王子様が
目を開けると、白い天井に踊る波状の光のきらめきが見えた。
音もなく形を変えては、広がったり閉じたり、まるで催眠をかけようとするように同じ動きを繰り返している。
宝琴はしばらくその紋様を眺めたのち、ベッドから半身を起こしてあたりを伺った。そして、自分の傍らに茶色いウサギのぬいぐるみがあること、柔らかなクリーム色の花模様のある毛布がかけられていること、自分以外に部屋に誰もいないことを確認した。
あたりは静寂に包まれている。出窓には水盆が置かれ、プルメリアの花首が二つ三つ踊っている。ブラインドの隙間を通して陽が反射している。天井の紋様はこれか、と思う。
部屋の隅に小型テレビ、ライティングデスクにパソコン、作り付けの本棚にはいくつかの小説と画集。
今まで転々としてきたどことも違う、生活感のある部屋。昨日眠ったのは車の中だった、そしてここはどこだろう? いつの間に来たのだろう。まだ薬が抜けていないのか、記憶が所々曖昧だ。
背の高いサングラスの男に抱えられるようにしてマンションのエレベーターを降り、リンとともに車に押し込まれ、分厚い濃紺の毛布のようなものをかけられて、いいと言うまで出るな、と英語で言い含められたことしか覚えていない。身を固くしてモノになりきるのはなれたものだった。永遠と思えるほど長い時間、車は走り続け、途中で飲み物とパンが毛布の下に差し入れられた。リンは死んだように眠ったままだった。その胸にしがみついて、ただ祈り続けた。これが次の地獄への脱出……悪夢へのエクソダスではありませんように。その飲み物に何か混ぜてあったのか、この部屋に至るまでの記憶が途切れている。
ぬいぐるみを抱え、足音を忍ばせて、そっとドアを開ける。
目の前には奥行きのある明るいLDKが広がっている。
どうやらここはマンションの一室らしい。左手は一面ガラス張りになっていて、部屋全体がふんわりと茜色の陽光に包まれている。どうやら夕刻に近いようだ。そして自分の正面、森を描いたタペストリーの下に大きなソファベッドがあり、誰かが眠っているのが見える。
その脇の床に膝をつくようにして、若い男性がじっとその顔を見ている。室内には、何かオルゴールで奏でるクラシックのような音楽が静かに流れている。
いつか王子様が。曲のタイトルが唐突に頭に浮かんだ。
宝琴は足音を忍ばせるようにして、そっと近づいて行った。
青年は顔を上げない。乱れた前髪で顔を覆うようにしたまま、じっと、ただじっと眠る人を見ている。両手で、その細い左手を握ったまま。
まるで生きた人の気配もなく硬く目を閉じるその人形のような顔に、一瞬宝琴は凍りついた。血の気のない顔に、思わず大きな声で呼びかけていた。
「リン!」
「大丈夫、眠ってるんだよ」
青年は初めてこちらを見た。そして、優しげな笑顔を浮かべた。
「目が覚めたんだね。気分はどう?」
……そして独り言のように付け加えた。
「……っていっても、わかんないか」
「わかる」
青年は驚いたような表情を浮かべた。
「日本語わかるの?」
「リンが教えてくれてたから。ずっとまえから」
……わたし、この人見たことがある。宝琴は思った。
故郷にいたとき、リンがしきりにテレビで見ていた。いつか、この人に会いたいのと、そればかり言っていた。あの人だ。あのときの、サングラスの人は、この人だったんだ。
……テレビの人が、どうしていま、リンのとなりにいるのだろう?
「……まだ、寝てるの?」
「眠ったままなんだ。もう丸一日になる」青年は言って、小さくため息をついた。
「もしかしたら、起きたくないのかもしれないね」
ぽつりと言うとゆっくりと身を起こした。
白いシャツの背中をすかして、薄く血がにじんでいる。開いた胸の内側に、包帯が巻いてあるのがわかる。
「何か食べようか。長いこと眠っていたから、お腹すいただろう」
「それ、……」部屋を出た直後のすさまじい爆発音を思い出して、宝琴は身震いした。
「わたしたちに覆い被さった、あのときの?」
青年は怯えたような少女の顔を振り向いた。
「これでも、だいぶよくなったんだ。隣で添い寝している間、なんだか半分以下に傷が減っていった気がする。熱が出てたんだけど、それも下がってるし」
「そうなの、リンはね、好きな人の傷を消すことができるのよ、誰にでもじゃないの」
宝琴は半ば誇らしそうに笑って言った。青年もかすかに笑って、言った。
「本当なら嬉しいな」
宝琴はまじまじとその端正な顔立ちを見た。そして、言った。
「わたし、あなたを知ってる。あなた、SYOUでしょ?」
「うん。でも、その名前は言わないほうがいい」
あっさり認めると、ミネラルウォーターのボトルを取って卓上のポットを満たし、スイッチを入れた。
「リンとセックスした?」唐突に宝琴は聞いた。
SYOUは虚を突かれたような顔をした。そして、静かに答えた。
「ぼくらはそういう間じゃない」
「リンと一緒に寝た男の人は、みんなリンに夢中になる。何もしないなんて人はいない」
SYOUはまだ幼い少女の顔をじっと見やり、その固い視線に答えるように、静かな声で言った。
「ただ、一人で目覚めたら寂しいだろうと思って一緒に寝てたんだ。彼女はぼくの心臓の音を聞くのが好きだった、だから聞かせれば安心するんじゃないかと思って」
「……あなたは、リンのお客だったの?」
SYOUは一瞬沈黙した。
「呼ばれて行ったことはある。でも、なにもしてない。きみには信じられないだろうけど」
「どうしてなにもしなかったの」
「できるわけがない。あそこで行われているのは、ただの暴力と、性の切り売りだ。それに、行きたくて行ったわけじゃない。詳しくは説明できないけど」
「……」
「今思っていることはただ、リンに平和に目覚めてほしいってことだけだ。目を開けたとき、静かで幸せな気持ちでいさせてあげたい。きみだってそうだろう」
宝琴はじっとSYOUの静かな横顔を見た。乱れた前髪の下の切れ長の目は、美しい刀のように曇りがなかった。
「わたし、男の人はみんな嫌い。みんな怖い。でもあなたは、怖くない」
SYOUはにっこりと笑って手を差し伸べた。
「こっちへおいで」
宝琴はほんの数秒戸惑ったあと、ぬいぐるみを床に置いて、SYOUの傍らに座り込んだ。大きな温かい手が冷えた背中に回され、両腕がしっかりと細い体を抱きしめた。
「怖かっただろう。ほんとに長いこと、怖かっただろう。よく頑張ったね」
体の奥から響いてくるような、低い優しい声だった。
ああ、……助かったんだ。
その時初めて、宝琴の両目から涙が溢れた。
刻んだいちじくのヨーグルトがけ、目玉焼きにシリアルを食べ終えると、宝琴はキッチンの流しで皿を洗った。隣でミルクティーを淹れるSYOUに、そっと聞いてみた。
「ヤオはどうしたの」
「死んだよ」
「……そう」
大して情があった相手ではないが、それでもあの湖北の故郷からずっと知っていた顔ではあった。影のように寄り添い、リンにひたむきに仕えていた姿を思い出し、宝琴は言葉を失った。
ダイニングテーブルに、SYOUは無造作に事件翌日の、つまり昨日の新聞を広げた。ガス爆発、三人死亡か、という大見出しのうち、わかる漢字を拾って宝琴は言った。
「この三人のうちのひとりが、ヤオ?」
「多分そうだろう。爆発のあと火災が起きて、三人とも身元の分かる状態ではなくなったらしい。彼の身体も木端微塵だ」淡々とSYOUは言った。
「これ、ガ、ス、って書いてあるよね。ガス爆発、って」
「そう」
「でも、あれは爆弾だった。そうヤオが叫んでた。ここは爆発するって」
SYOUは唇に近づけたカップを一瞬止めた。
「……事故だということにしといたほうが都合がいい連中が描いたシナリオだろう」
SYOUは卓上のタッパーの蓋を取り、バナナチップスを皿にあけ、二、三枚とってがりがりと齧った。 掌に載せて差し出すと、宝琴も一枚取って黙って齧った。
あそこの中で何があったかについて、今はこの少女しか語るものがいない。
SYOUは注意深く尋ねた。
「宝琴、嫌でなければ答えてくれるかな。きみはその爆弾を見た? それはどこにあって、ヤオはどう処理しようとしてた?」
宝琴は斜め下を見て少しの間考えた。
「爆弾は見てないけど、わたしたちを部屋から出すとき、ヤオは庭園の端まで爆弾を持っていくって言ってた。下のひとたちが巻き添えになるからって」
「それを持ち込んだ奴の顔は見た?」
「……寝室に、誰かが血だらけでいたのを見た気がする。ヤオに抱えられてたからはっきりしない。あと、もう一人女の人が倒れてた。そっちはたぶん、いろいろわたしたちの世話をしてくれたイーリンという人」
「その二人は誰にやられたのかな」
「わからない」
「そうか」SYOUは宝琴の頭を撫でると、片手で口を押えて考え込んだ。
……リンを拉致するために差し向けられた連中が爆弾まで持ち込んだというのは、よほどあの場に恨みを持っている奴に雇われたということだろう。あるいはリンが戻れる場所を消して、リンを幽閉していた連中に一泡吹かせたかったのか……。
マンションの部屋は爆発した後燃えたという。身元が確認できないほどの状態になっているなら、女性とみられる遺体はリンのものと思われてもおかしくない。これで、裏を知る者たちにとって、リンは死んだことになるだろうか?
「SYOUはいつ、あの階まで来てたの?」宝琴はSYOUの顔を見上げてたずねた。
「ぼくはあの日ヤオといっしょにマンションに着いて、地下駐車場で潜伏していた二人の男と鉢合わせたんだ。ヤオと違って銃も扱えないので大した働きはできなかったけど、たまたま持っていた唐辛子スプレーは役には立った、一応彼らの視力は奪えたからね。いきなりのことで武器も取り出せないのに、ヤオは二人相手によく戦った。それでも刃物と銃で深手を負ってしまった」
「その人たちは誰?」
「二人とも中国語をしゃべってた。ヤオは中国当局の差し向けた連中か、リンに固執している客のひとりかもしれないといってたな。で、二人を倒した後、上が心配だからすぐ行く、とりあえずひと目のつかないところに隠してくれとぼくに頼んだんだ。あのとき、ヤオがきみたちを廊下に突き飛ばしてものの15秒でドアごと吹き飛んだ。ほんとに間一髪だった」
宝琴は黙って、温かいミルクティーをひと口飲んだ。その耳に、リンの最後の言葉が響いた。
……ヤオ、一人にしないで。わたしには行くところがない。ここ以外、もうどこにも行く場所はないのよ。
あの悲鳴のような声。涙の混じった叫び声。めざめたらリンは知るんだ、そのヤオももうこの世にいないということを。どれだけ嘆き、どれだけ悲しむことだろう。それを思うと、胸の奥に石が詰まったような心地がして、甘い紅茶がうまく喉を通らなかった。
「宝琴、いきなりいろいろ聞かれて負担なら無視していい。きみがいた場所と、そこにいた人間について尋ねたいんだけど、いいかな」
SYOUの言葉に、宝琴は体をびくりと震わせた。
「日本に来てからきみが閉じ込められていたのも、リンがいたのと同じような感じの場所だった? ほかに誰か、その、女の子とか、おとなはいた?」
宝琴はしばらく黙って下を向いていた。SYOUはしまったという風に顔を曇らせ、ああ、いやならと声を出しかけた。
「……わたしのほかに最初三人いた。大人はいつも見張りみたいな男の人が入れ代わって二人。たまにヤオも来た。寝室のほかに小部屋があって、いつもはみんなそっちにいた。リンのところより狭いけど似たような感じ。
ひとりの子は泣いてばかりで食事をしなくなって、弱っていっていつの間にかいなくなった。あとひとり来て、先に来ていた子が病気になって、いなくなって、また新しい子が来て、後はもうよく思い出せない」
「わかった、もういい、ごめん」
SYOUは両手を伸ばして少女の手を握った。記憶を刺激された宝琴の指先は、しばらく小刻みに震えていた。
しばらくすると、宝琴はSYOUを見上げて言った。
「わたしも聞きたいことがある。質問すると、迷惑?」
「きみは何でも聞いていい。それだけの目にあってきたんだから」
「じゃあ、ひとつ教えて。……その、あそこから運んだ人……たちを、そのあと、どうしたの」
SYOUは言葉に詰まった。そして、申しわけなさそうに言った。
「そうだな、きみにはなるべく隠し事はしたくないけど、言えないこともあるんだよ。ごめん」
たぶん、あのあと長い長いこと車に揺られていたあの間に、遺体をどこかへ運び、どこかへ遺棄したのだろう。そう考えると、中国にいたころはただの日本のアイドルと思っていたこの人の今の状況に、宝琴はなにか非現実的なものを覚えた。もう、犯罪者の範疇に入ってしまったのだろうか。……リンのために。
宝琴は、改めて周囲を見回した。
「ここ、あなたのおうち?」
「ぼくのうちじゃない。まあ、知り合いの知り合いの家、ってとこかな。
いろんな人が助けてくれて、そのおかげでぼくらはここにいられるんだ。窮屈かもしれないけど、しばらくここでおとなしくしててくれ。できるよね?」
「少しも窮屈じゃない。リンもいるし、SYOUもいるし、広いし」宝琴は答えた。そして首を巡らせると、窓を指さした。
「あれは、東京タワー?」
ブラインドを透かして、夕暮れの彼方に赤い塔が見えた。そうだよ、とSYOUが答えたとたん、ぱっとタワーに明かりがともった。ランドマークライトの柔らかなオレンジが、夕空をバックにきらきらと輝く。 しばらくの間、二人はミルクティーを手に、ライトアップされた東京タワーをただ見つめていた。
「ヤオと、どこで会ったの。お話ししたの?」
「話はしたよ。どこで、とかは言えない。きみのことも聞いた。まだ十三になったばかりだってね」
「二週間前がお誕生日だったの」宝琴は少しさびしそうに言った。
「……そうか」
「従姉のリンと黄大千先生と、周りの人たちがいなくなり始めてから、わたしたち、……わたしとお母さんとお父さん、湖北の故郷を離れて地方の、親切な人の家に隠れ住んでたの。お母さんは陽善功の迫害についてブログであれこれ書いてて、わたしもお父さんも止めたんだけどやめてくれなかった。
雪の朝いきなり警官が来て、調べがあると言って強引にお母さんを連れ出したの。お父さんは一所懸命、お母さんは妊娠中だからやめてくれっていったんだけど殴られて一緒に連れて行かれた」
「……それきり会ってない?」
「うん。
……五歳の弟と近所の人に世話になってたんだけど、日本に行けばいとこのリンに会えるって聞いたときは、嬉しかったの。リンも死んだと思ってたから」
「誰に言われたの」
「急に迎えに来た、知らないおじさん。陽善功の、みなしごになった子供たちを助ける活動をしているって言ってた。それで、弟と離されて、飛行機に乗せられて……」
それきり宝琴は黙り込み、唇を震わせた。
SYOUの胸に、ねっとりとした溶岩のように言葉にできない感情が這い上がっていた。
たった十二やそこらの少女が見た底知れない地獄。あの夜の公園で、泣くようにして宝琴を抱きしめて名前を呼んでいたリン。聞き取れなかった言葉が今でははっきり蘇る。
パオチン、パオチン、ウォーアイニー。(愛してる)
こんな子がほかに何人いることだろう。リンが助けられたのは彼女一人、だが彼女が懸命に、できる限り多くの少女を助けようと手をさし述べていたのは確かだ。
SYOUは後ろのソファベッドを振り向いた。寝息も立てずに、リンは深く眠り込んでいる。どんな薬を使ったにしろ、一昼夜以上眠り続けるというのは普通ではない。自分自身の意志で、もう彼女が現世に戻らないようにしていると思えてならなかった。
「もし……」
いったん言葉を切ると、またSYOUは続けた。
「もしリンが今起きていたら、ここにいっしょに座っていたら、ぼくに何を望むと思う」
「あなたに?」
「そう」
宝琴はしばらく振り向いてリンを見ていたが、意味ありげに唇の端を上げると、言った。
「SYOUに、愛されること」
SYOUは笑った。
「それなら十分に愛してるよ」
「ほんとうに?」
「本当だ」
「いつの間に愛したの」
いつだろうと真剣に思いかえしながら、SYOUは真面目に答えた。
「たぶん、初めて会った時から」
「きれいだったから?」
「それはもちろんだけど、それだけじゃない」
「じゃあ、どうして? なにがきっかけなの?」
きっかけ……
そう言われてすぐに思い浮かんだのは、ただ、リンの白い背中だった。体温のある大理石のような、あのすべらかな手ざわり。肩の上に顎を乗せるようにしてささやいた、あの小さな声。
……あのね、ひとつだけ、おねがいがあるの。
背中を撫でてください。それが、たったひとつの夢でした……
なんというささやかな願いだろう。それのどこが、どれだけ、罪だと言うのだろう。
その言葉を聞いたとき、自分でも覗き見たことのない何かが胸の奥でゆらめいて、まるで幼い迷子が夕焼けに見とれるように、その声の方向に落ちていった。……
どうして、ささやかに彼女は生きられないのだろう。陽善行の後継者として彼女を追い続ける中国も、そして彼女を餌食にした権力者たちが横一列に結託する日本も、彼女が陽光の下で生きることを許してはくれない。あそこを出て生きることを、誰も彼女に許してはくれないのだ。
目覚めても、この世のどこにも帰る場所がないことを知って、だからリンは目覚めないのだろうか。だとしたら、自分はどこにどうやって、それを用意してあげられるのだろう。
「SYOU」
俯いた顔の下から、宝琴の小さな声がした。
「大丈夫?」
「大丈夫だよ」
歯を食いしばってSYOUは答えた。ここで悔しさに屈することはできない。リンが眠りの中から自分の傷をいやしてくれたように、自分にもできることはあるはずだった。
SYOUは顔を上げると、言った。
「宝琴、ぼくには中国語は話せない。きみは語りかけてあげてくれ。きっと耳は聞こえている、そして、きっと君の声を聞くのを喜ぶだろう。その続きが聞きたいと思ったら、きっと彼女は目を覚ますだろう。そんな楽しい優しい話をしてあげてくれ」
「うん。でも、SYOUも同じぐらい話しかけてあげてね」
「もちろんだよ。ふたりでたくさん、リンにお話ししてあげよう」
宝琴は頬を染めて、初めて見る明るい笑顔を浮かべた。