生きてこそ
「しおーりちゃん。撮影終わったら飲みに行かないか」
先に仕事が上がったモデルのRAINが、スタジオの控室を覗いて声をかけてきた。
「悪いけど、今日はおうちに一直線」
鏡を覗きながら、詩織は答えた。
「なんだよ、報道陣においかけ回されて気晴らしの一つもできないってぼやいてたから気を回してやったのに」
「ありがと。お陰様で基本的にクタクタなの。また誘って」
「また、ねえ。やっとチャンスが回ってきたと思ってたのに、またまたのまたですか」
やっと、の意味は容易に察せられた。不快感をあらわにした声で、詩織は答えた。
「夜の京浜運河にドライブに連れて行ってくれるならいいかも。東京電力の川崎火力発電所とか、ゼネラル石油の工場とか見ながら、あの落下事故の現場で一晩中思い出話に付き合ってくれる? 元カレのテクとかわたしの秘技とかいろいろ」
「あー、悪かったよ。時期尚早ってやつですね。じゃあまた」
ばさばさと金髪を掻きながら、RAINはドアを乱暴に閉めて出て行った。
鏡の中の強い目線に自分自身が弾き返されそうになりながら、詩織は胸の中で呼び続けていた。
電話をちょうだい。どうか若宮さん、わたしの携帯を鳴らして。お願い。
あの日澪子に見せられた手紙は、結局捨てず焼かずに自宅のアルバムの写真の裏に保管してあった。 何度も何度も読み返したので、今は見ずとも、その一言一句を諳んじられる。
心配かけてごめん ぼくは生きている
良ければ君の力が借りたい
しばらくこもる場所がほしい 東京タワーの見えるマンションの合鍵がもらえないだろうか
部屋の持ち主の帰国はいつだろうか 確認してもらえるとありがたい
あと、若宮監督のアドレスを書いておくね
確定はできないが 彼が連絡の仲介役となる予定
もしぼくの頼みを受けてくれるなら〝お仕事の件についてご連絡をお待ちしてます 伊東詩織″
こう監督に電話番号を添えてメールしてほしい
ぼくたちは会ってはならない ぼくはおそらく犯罪に手を染めるだろう
ぼくとのつながりがばれると君が危ない
勝手な言い分だけど許してくれ いつかきちんと会える日が来ることを願っている
きみの好意に甘えていいのか、それが人として妥当なことなのか今まだ自分には確信が持てない
言いたいことは山ほどあるけど どれも言葉にできない
くれぐれも無理はしないでくれ 義理ではなく心で決めてくれ
詩織 ぼくと出会ったことを最後まできみが後悔しないことを祈ってる
最後に 仕事がんばって
SYOU
懐かしい鉛筆の殴り書きを見たとき、胸に押し寄せた思いはただひとつ、
彼は生きている、彼は生きている、生きている。 ただそれだけだった。あとはただ、感謝しかなかった。
目の前の澪子を見て、目を伏せ、手紙に思わず唇をつけていた。
「居所は言えないけれど、これで納得してもらえた?」
頭の上から澪子の声を聞きながら、ただ言葉もなく頷いた。
「わたしとしては、今関わってるすべてから早々に手を引きたいと思ってるの。特に彼の関係はね。
これからはあなたに託すわ。重い荷物だけど、本望でしょう?」
「ええ。……ええ、本望です」
「付け加えるならさらに、彼が負う荷は重いわ。まともにあなたが受け止めるなら、命がけよ」
「何度も聞きました。答えは同じです」
「わかってるわ。じゃあ、帰り道も一人でね」
「もちろんです。もうここには来ません。ありがとうございました」
ひとつひとつ、刃物で切るようにすぱっと答えると、詩織は背筋を伸ばして屋敷を出ていった。
SYOU。生きる時が来たわ。わたしを頼りにして、そしてできることを何でも言って。後悔なんてしない。わたしの人生の第二幕が、これから上がるのよ。
詩織は歩きながら早速監督にメールを打った。文面は言われたとおり。
……お仕事の件についてご連絡をお待ちしてます 伊東詩織
待ち望んでいた連絡があったのは、丑三つ時だった。しかも、メールではなく、いきなり電話だ。
ベッドの中で携帯を手にうとうとしていた詩織は、呼び出し音に飛び起きると、ベッドの上に正座して電話を受けた。
『若宮です。こんな時間にご免。いま、いいかな』
「はい、……はい」
二度答えると、詩織は布団の下に潜り込んだ。
「お電話いただけてうれしいです。あの、お仕事の件、でいいんですよね」
自分の声が震えているのがわかる。
『そう、まずは無駄を省いて聞こう。きみは〝仕事″を受ける気がある?』
「お受けします。まず何から準備したらいいか言ってください」
『よし、じゃあまずは伝言をそのまま伝えよう。あの日の自動販売機、その下に頼まれたものを置いてほしい。正面じゃなく横から。頼まれたもの、は分かる?』
「だいたい、……わかります」
『じゃあ、引き受ける気があって、そして〝仕事″が終わったら、俺に連絡してくれるかな』
頼んだものとは、合鍵だろう。それを封筒に入れて、あの日SYOUに肩を掴まれたビルの裏の自動販売機の下に刺し込む。彼は、……SYOUはあそこを潜伏先にするのだ。
詩織は続けて言った。
「わかりました。封筒にメッセージを入れます。大事な内容です。読んでくれるよう彼に伝えてください。それと、あの、どうかこのこと、わたしがかかわっていることもどこにも漏れないようにお願いします」
『もちろん、そこは大丈夫』
「あの、……それと、監督」
息を整えて、詩織は聞いた。
「彼、は、……元気ですか」
胸がどきどきと高まった。賭けのような言葉に、彼はどうこたえるのか、あるいは無視するのか。
『元気だよ。だけどそうだな、用心として、医療品一式があるとありがたい』
「わかりました、用意しておきます。……監督、どうか、彼の力になってください」
『イッツマイプレジャー。あんたも気をつけろよ』
それきり、ぷつりと携帯は切れた。
……怪我をしている?
手紙と、電話での伝え聞き。その向こうに見える、SYOUの気配。詩織は目を凝らし、思いを凝らした。父親とは決裂したまま、ホテル暮らしもやめ実家にも戻らず、新しく借りたマンションで一人暮らししている。今自分がどう動こうと誰にも気づかれまい。詩織はとりあえず机に向かい、短い手紙を書いた。
そして鍵とともに封筒に入れ、丁寧に封をした。
そののち、真夜中の街に車を出すと、まず終日営業のスーパーに向かい、すぐに食べられて栄養になりそうな食料を片っ端から買い込んだ。彼の好きなもの、栄養豊富なもの、具合が悪くても喉を通りそうなもの……。
ひととおり車に詰め込むと、青山に向かう。
あの日、スタジオを出てすぐ、彼に肩を叩かれた。首根っこを掴まれた猫のように連れて行かれた自動販売機。それでも、顔が見られて自分は嬉しかった。なにもかも、まるで遠い遠い昔のようだ。
あたりを見廻してから、販売機の横に屈みこみ、そっと横から封筒を刺し込んだ。そして、祈るような気持ちでその販売機から日本茶を一本、買った。
次に車を飛ばして、M区のマンションに向かう。東京タワーの灯りは消えていて、部屋からは見えない。しんと冷えて動かない空気の中で、冷蔵庫を満タンにし、家から持ち出した薬品をテーブルの上の籠に詰め込んで、そっと部屋を見回した。
ここで、この部屋で彼は、もしかしたらあのリンという女性と暮らすのだろうか。それでもいい、彼がわたしが用意した安全のもとで無事に生きるなら。
あの日彼と二人で逃げ込んだこの部屋。もう、自分は入れない。わかってる。覚悟はできてる。……我儘なわたしが持ちこたえられますように、どうか。
目を閉じると、詩織はドアを閉じた。
だいすきなあなたへ
食料を冷蔵庫と食品庫に入れておきます。あの空間は自由に使ってください。
友人はあと半年は戻らない予定です、それまでは大丈夫です。
わたしたちが接触を持てばまた噂の種にもなり、あなたの命取りにもなりかねません、それはよく わかっています。 あのマンションにはわたしは訪問しません、ただ必要なものがあれば言ってく ださい。間接的にお届けすることはできます。
あなたが生きていてくれて、わたしは嬉しい。 ほんとうに、嬉しい。
一時は気持ちが崩れそうでした。
何でも言ってください、なんでもします。あなたの無事だけを、毎日祈っています。
生きましょう。 どんな色合いであっても人生は生きるに値する。 わたしはそう信じています。
S より
夜明け前の街を車まで戻る足取りは、外見には今までと同じだろうけれど、自分には違う。一歩一歩が、自分の生きる軌跡だ。
この思いと心が、時空を経て、彼に届く。彼の望みがわたしに届き、わたしはそれを遂行する。それはなんて素晴らしいことだろう。
わたしたちは同じ時空の上を、それぞれの決意を抱えて生きるのだ。
詩織は濃紺から群青、青紫から茜色へ染まってゆく明け方の空のグラデーションを見上げた。
SYOUは生きている。
もうこれ以上、何も望まない。
生きてこそ。