大丈夫
思ったより小さい、と思いながら、奈津子は手元の携帯の地図とビルの住所を見比べた。
間違いない、ここだ。自社ビルを抱えていると思っていたけれど、関岡プロが占有しているのは、案内板を見ると雑居ビルの3階から6階だった。
黒とグレーの光沢のある外壁が建物全体を覆い、中はガラス張りになっていてそれなりにおしゃれではあるが、大した床面積ではない。少人数で回している事務所となると、てんやわんやの今、自分が顔を出したらかなり迷惑なことだろう。
エレベーターボタンに指をあてること自体躊躇していると、入り口わきの階段から早足で男が降りてきた。ぼさぼさの髪にニット帽をかぶり、エンジ色のジャケットの下は金魚柄のTシャツ、サングラスに無精ひげ。年齢も素性も全く量りがたい風情だ。
声をかけるべきだが避けたい人種、という状況に言葉を失っていると、いきなり男が呼びかけてきた。
「伊藤詩織さん」
「……?」
「……に、似てるって言われない? お姉さん」
突然の名前に絶句したのち、湧き上がった警戒心に、偶然の一致。と結論付けて、奈津子ははっきりと答えた。
「いいえ、一度も」
「ああ、よく見たら似てないか」
男はさばさばというと、傍に来て改めて奈津子を眺めまわした。
「一瞬そう思ったんでね。目元かな。関岡さんとこに用?」
関岡さん。という呼称に、関係者と判断して、奈津子は体全体を向けて答えた。
「そうなんですけど、ご迷惑かと。今たいへんですよね」
「大変だよねえ。表で待ってるのも報道関係だろ、あれ。もうずっとだよ」
アンテナの多い車やテレビ局の名入りのバンがとまっている通りの向こう側を見やりながら、男は言った。
「おまわりに追っ払われては一巡してまた来ると。まあ、用心棒がわりにはなるかな]
「失礼ですが、事務所のかたですか」
「あなたは? SYOUのファンなら帰った方がいいよ。ほんとにそれどころじゃないから」
「わたしの年齢のファンがそんなにいるんですか」思わず苦笑しながらそう答えると、男は肩をすくめた。
「結構あれでファンは全年代にわたってるんだよ、面白いカラー持ってるからね。うろうろ階段から登ろうとするファンもいるみたいで上じゃ門番ががんばってる」
多分晶太のことをよく知る、そして口数の多い関係者と見て取った奈津子は、思い切って賭けに出た。
「柚木奈津子と申します。SYOUの叔母にあたります。アポイントは取らずに来ました。今行ってもご迷惑ですよね」
「……」
男は意外そうな、というより本当に驚いた、といった風情で奈津子をまじまじと見た。その左耳の薄青いダイヤのピアスに目を止めると、感慨深げに口の中でああ、とくぐもった声をだし、ポケットをさぐり、名刺を出してきた。
「失礼しました。自分はこういう者です」
ガラスのひび割れのような文様で全体がおおわれた名刺に、読みにくい名前が銀で刻印されていた。
WAKAMIYA SOUJI。
知らない名前だ。職業、映像屋……?
道路の向かい側のバンから、報道関係と思われる男が寄ってきた。
「すいません。失礼ですが、もしかして、映画監督の……」
「誰がだって? ああ、よく似てるって言われるんだけど人違いだよ。ここの社長がバーのつけ払わないんでママに回収頼まれてきたんだよ、それどころじゃないって追っ払われてきたとこ。ひどいよなあ? こっちも商売なのに。うんと悪く書いてやっといて。新宿二丁目の菊花の契りってバーだから」ぺらぺらしゃべると奈津子の肩に手を置き、「あんたももう無駄だから帰んな、一緒の方角だし送るよ。金の取り立てはしばらく無理だよな」
追いすがろうとする記者を早足で巻くとさっさと表通りのほうに奈津子を追いたてた。
「お時間があるなら、ちょっとだけ話しませんか。よければぼくの車の中で」小声で囁くように若宮は言った。
「すみませんけど、これからちょっと行きたい場所があるんです」
「ああ、じゃあこちらは予定もないしお送りしますよ、どちらですか」
「川崎の、H公園です。京浜運河沿いの」
若宮宗司は一瞬歩を止め、奈津子の顔を見た。
「あの、お尋ねしていいですか。ほんとうに映画監督でいらっしゃるんですか」
「フルネーム聞いても85%の人間が知らないって答える程度の知名度のね」
「すみません、わたしこういうことに全然疎いもので」
首都高湾岸道路を走る車の中で、奈津子は申し訳なさそうに言って下を向いた。
「まあ、その肩書きがなかったらあなたもついてこなかったんじゃないかな、見ず知らずの男の車にホイホイ乗るタイプでもなさそうだし」
「〝菊花の契り″の取り立て屋さんの車なら乗っていませんでした」
若宮は苦笑した。そしてまた耳元のピアスを見ると、まじめな口調で言った。
「彼は身内の縁が薄くて、少年のころ叔母にあたるひとにずいぶん世話になったと聞きました。なんというか、心中お察ししますよ」
奈津子は思わず運転席の男の顔をまじまじと見た。
「あの子と、……あの、個人的に面識がおありなんですか」
「いろいろと、恥多き身でね。そのことについてはおいおいお話ししましょう。公園に着いたらですが」
その日は休日ということもあって、H公園は犬連れの家族でにぎわっていた。定期的に集会を開いているらしく、顔見知りの犬と犬が嬉しそうに吠えあい、人と人が笑いさざめいている。
奈津子と若宮は人の集まる公園を左手に見ながら、東京湾に向かって突き出す細い遊歩道を並んで歩いた。右手のフェンス越しに、埠頭が続いている。左手に見えるのは対岸の工場群ばかりで、こちらは人影もない。
「なんだか海への滑走路みたいですね」ぽつりと奈津子が呟くと、
「少し前までここもレポーターがうろうろしてたんだよねえ。もうあれから一週間になるか」若宮は独り言のように答えた。
突端に立つと、海からの風がひゅうひゅうと耳元で鳴った。暗い色に沈む都会の海には、いきものの気配はない。工場と煙突と倉庫しか見えないこの風景が、晶太が見た最後の景色なのだろうか。奈津子は手すりにつかまると、黙って身を乗り出した。飛んできた新聞が、ばさりと足に絡まる。若宮は屈んで新聞を取り上げた。三面に大見出しが躍っている。五月十三日のM区のマンション爆発事故、原因はガス漏れか。配管工に故意の細工の前科あり、三人と見られる遺体は損傷が激しく性別も身元も不明、警察は配管工の事情聴取へ……
「ほんというと、今もわたし、信じていないんです。あの子が海で消えたなんて。あの子の人生が、そんな風に終わっていいわけがないんです。なにもかもが納得いかなくて、気が付いたら日本行きのチケット買ってました」
奈津子はそういうと、唇をかみしめた。
若宮は新聞を丸めると、筒のようにして手すりを叩いた。
「よくても悪くても死ぬときは死ぬ、ひとの運命なんてそんなもんです。だが、彼の場合は遺体が出ていませんからね」
「でも、わからないんです。生きているなら、どうして出てこないのか。離島で流されたわけでもないのに、東京湾から這い出てひと目のつかないところに隠れているとしたら、いったい何のためなんでしょう。あの子は誰かに追われているんでしょうか」
「彼とはずっと連絡を取っていないんですか」
「先月メールをもらったきりです。なくしていたピアスが見つかったと。返信したんですけど、それに対する返事はありませんでした」
「今お付けになっている、それの片割れですね。アメリカで書道家をなさっていると聞きましたが、いきなりチケットを買う情の深さは親子以上かもしれませんねえ」
奈津子は訝しげに若宮の顔を見て、一度問いかけた質問をまた差し向けた。
「わたしたち…… わたしとあの子について、ずいぶん詳しくご存じなんですね。晶太がお仕事でご一緒したことがあるんでしょうか」
「お仕事はね、これからご一緒しようと思っていましたよ。世間をあっと言わせる作品を、世界の表層に二度と消えない傷をつけるような映画を、彼を使って撮りたかった。こちらの連絡先とともにその意向を事務所に伝え、あいつのアドレスも教えてもらった、その直後にやつは消えやがった」
奈津子はあらためて若宮の顔をしげしげと見た。海に顔を向けたまま、若宮はサングラスを外した。 奥まった二重の目は深く濃く、どこか掴みきれない情をたたえていた。
「恥多き身といったからには、一応お話ししましょう。ぼくはSYOU、まあ、晶太君とは面識があるんですよ。と言っても彼が十二の頃ですがね。当時彼は母親とヤクザ風の男と同居していて、ああ、彼が十四の時に自業自得の最期を迎えた男ですよ。あの野郎とぼくは恥ずかしながら当時知り合いでした。ヤクザ関係のドキュメント映画を自腹で撮ってた頃で、そういう繋がりです」
奈津子は言葉もなく、ただ面食らっていた。十二と言えば自分が晶太の身柄を預かるさらに前の話だ。
「彼は晶太君の母親に客をとらせ、暇な時は旅行だなんだと好きに連れ回してた、そしてぼくは奴に留守中の晶太君の世話を頼まれたと、形としてはそうでした。が、それは金による取引きでしかなかった」
「取引き?」
「十二歳の彼は、ちょっとそこらへんにいないぐらい眩しい少年でした。まあ今でもそうですが、奴はそこを利用してぼくに彼を売ったんです。そしてぼくは彼に金を渡し、その間晶太君を預かった。と言ってもそうえげつないことはしてませんよ、まあ全く何もしなかったとは言えませんが。兎に角ぼくは彼の姿を映像に納めたかったんです。あのころから彼は普通ではなかった、それは素質と言ってよかった。ぼくは俳優としての彼の将来を思い描き、何とかして自分の映像作品に彼を使いたいと切望した。だが彼はそのあと母親と男に置き去りにされ、あなたに引き取られて、ぼくの手は届かなくなった」
「……」
「あのヤクザ男が死んだことについては何とも思いませんでした。むしろ晶太君が手を下したことについて、ぼくは快哉を叫んだほどです。彼は自分の手で運命から独立したんだと思いました。十四でね。立派なもんです」
奈津子は絶句したまま、ただ目の前の得体のしれない男を睨みつけていた。自分が彼を引き取る前に、晶太はこの男にモノのように与えられていたのだ。その事実にただ圧倒され、その驚愕は錐のような視線となって、眼前の男に向かっていた。
「正直に申し上げます。よくそんなことがいま、わたしに向かって言えますね。あなたのなさったことは犯罪ではないんですか」
「何と言われても仕方がない、ぼくにはそういう性癖がありましたから。だが、彼の事務所社長に彼を紹介したのもぼくだ。今彼があるのもこの変態野郎のおかげだと思っていただければ」
「今彼がある? どこにあるんですか。もともとわたしは芸能界入りなんて賛成していませんでした。外見から見て人気が出るのは想像できたことですが、あの子にはもっと着実な道を歩んでほしかったんです。あの子は才能の塊でした。こんなかたちで世間に消費されるなんて」そういうと、声を詰まらせて奈津子は顔をそむけた。その視線の先にはただ、沈黙したままの東京湾が無言で波打っていた。
若宮は静かに口を開いた。
「失礼ですが、あなたのご主人は、元刑事で現在NPO団体、エンジェルフィールド・USAの代表でいらっしゃいますよね」
「それが何か」どうしてそこまで調べあげているのか、半ば気味悪く思いながら奈津子は尖った声で答えた。
「こんな話のあとでなんですが、いつかご紹介いただけると嬉しい。詳しくは言えないがぼくにはある計画があるんです。過去のことはぼくの負債になっています、いつかきちんと彼に返したい。きょうも、事務所で将来の仕事の話ばかりしてきました。彼のマネージャーがだいぶ参っていてね、けっこうたくさんの人に彼は愛されていたんですよ。このままで終わっていいわけがない」
「……」
若宮の目はまっすぐに奈津子に向かっていた。
「とにかく、希望は捨てないでください。捨てない限り、希望は生きています。あなたが信じる限り、晶太君は生きています。誰の祈りよりも、あなたの祈りが多分、一番パワーが強い。そしてその次がぼくだ。彼はこれからの奴ですから」
「あなたはあの子が生きていると信じていらっしゃるんですか」
「もちろんです」
力強い即答に、胸の奥が一瞬熱く燃えた。その熱は涙に姿を変えて、奈津子の目がしらに透明な球を作った。
「信じましょう。そして、待ちましょう。ぼくの勘は当たるんです。彼はここで終わりになるような奴じゃない。断じて、ない。ぼくが保証します。奈津子さん、あなたはまたかならず、元気な彼に会えますよ」
奈津子は口を押えた。透明な球は五月の東京湾を写し、そして一筋の流れとなって紅潮した頬を転がり落ちた。