香渓のほとりに
「本国で信者がお待ちしていますよ。こんなところで遊んでいてはいけない。さあ、あなたの国にお送りしましょう」
リンは身動きもできないまま、ただ男の顔を見ていた。
来る時が来た。恐怖に凍りついた胸の奥で、冷静にそうつぶやく声があった。
「なるほど、……噂に聞いた以上だな」
白目の黄ばんだどろりとした視線に捉えられ、硫黄臭い息が顔にかかる。
わたしを売ったの、イーリン、あなたまでが。
それより、ああ、宝琴は。……あの子が見つかったら!
ウォヘンハイパア、プーヨーリウシアウォユイグァレン。
怖い、怖い、わたしをひとりにしないで。
意識が戻ってからずっとそう繰り返し、自分から離れようとしない宝琴に、買っておいたウサギの大きなぬいぐるみを与えた。
抱きしめて部屋に鍵をかけていなさい、わたしの身があいたらすぐにあけてあげるから、それまでは絶対出ちゃだめ。いい? 誰が声をかけても、絶対に、よ。
そう言い聞かせたのが半時前のこと。
あの部屋からどうか出てこないで、宝琴。どうかそこにいて。
リンはいったん全身から力を抜き、手錠にぶら下がるようにして、空いた片手で顔を覆い、絶望と無抵抗のふたつを演じて目を閉じた。男はわずかに笑い、左手にしていた銃を傍らに置くと、携帯をいじり、早口でしゃべった。
当たりだ、ここにいた。急いで上がってこい。
そのとき。
リンは手錠のかかっていない左手でベッドサイドの花瓶を倒した。
男がはっと気をとられた隙に、そのうちの一本のバラを抜き出し、目にもとまらない速さで男の首に突きたてた。茎に繋がれた極細のナイフが太い血管を貫き、男は一瞬、が、というような声を上げると、反射的に首を抑えた。指の間から吹き出す血潮がみるみる顔を染めてゆく。男の片手は手錠、片手は首。リンは男の脇の銃を取り上げた。男は血だらけの手を首から離し、リンの銃をもぎ取ろうとするが、指が震えてまるで死にかけの年寄りのようだ。その男の肩を台にすると、リンは戸口でこちらに銃を構えるイーリンの胸の真ん中を撃ち抜いた。パンパンと続けて響く乾いた音も、まるで遠くで聞く新年の祭りの爆竹のように現実感がない。
次に手錠の鍵の部分を撃ち抜き、血に染まった男の手首から手錠を外す。そして銃を振り上げ、生まれたての子鹿よりも非力になった男の耳の真ん中を台座で打ち据えた。
男は呻きながら、ベッドの上で虫のようにのた打ち回っている。どうせ時間の問題だから、あちらは気にしなくていい。あとは、上がって来る誰かをこの身一つで相手にしなくてはならない。
ベッドから降りると、がくんと膝が落ちた。
体のしびれはひどくなる一方だ。おそらく、あの強い酒に薬剤が混入してあったのだろう。
這うようにして廊下に出ると、倒れているイーリンの身体の横に座ったまま、リンは拾った銃を両手で構えた。
宝琴。あの子の盾になれるのは、もう、この体しかない。頑張るのよ、リン。負けちゃだめ。
銃身が揺れる、視界が霞む。血で、手が滑る。ドアががちゃがちゃと鳴っている。自分はここでこうして座ったまま最期を迎えるのか。その自分の姿が、その光景が、幻影のように視界に浮かんだ。
ああ誰もいない、自分の傍らには、誰もいない。
ドアが開くと同時に引き金を引いた。反動で自分の身体が後ろにのけぞる。人影は一つ、当たったようだが倒れない。よろめいて壁にぶつかり、頭を上げたその顔を見て、リンは叫び声をあげた。
「……ヤオ!」
痺れた手を銃が滑り落ちてごとりと音を立てた。
「ああ……、ああ」
血だらけの両手で顔を覆うようにして悲鳴とも喘ぎともつかない声を上げ続けるリンの元に、ヤオは片手で肩を押さえながらよろよろと近づいてきた。
「お嬢様。ご無事、……でしたか」
「わたし、わたし……」
「大丈夫ですから、このぐらいは。大丈夫、ですから……」
押さえている指の間から、鮮血がにじみ出ている。
ヤオは右手に銃を握ったまま、リンを抱きしめた。ヤオの頬には殴られたような痣があり、手首には切り傷があった。懸命にヤオの背にしがみつくリンの血だらけの指が、灰色のコートを血で染める。ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいとぶるぶる震えながら繰り返すリンの髪を撫でながら、ヤオは廊下に目を走らせ、空いたドアから寝室を見やって状況を一瞬で把握した。
「よく、……よくおひとりで戦われました。何か飲まされましたか」
「わからない、お酒になにか、はいっていたかも、……からだが、しびれて」
「効くかどうかわからないが、一応解毒剤があります。いま、金庫から」
「ヤオ、……どうして撃ち返さなかったの、あのとき、撃たれていた方が」
「馬鹿なことを言わないでください。瞬間ですがあなたが見えました、銃口は上に上げました。間違っても、撃たなくてよかった」
そして奥の部屋に目をやった。
「下の連中は始末しました。宝琴は無事ですね」
「そう、……なの、ヤオ、わたしはいいから、早く、あなたの傷……」
そのとき、ベッドの上の男が呻きながら、低い笑い声を漏らした。
ヤオはそちらに顔を向けると、感情のない声で言った。
「……時間の問題だが、こいつも始末しておきますか」
男はなおも笑いながら、荒い息の中で呟いた。
「お前ら。……お前らも、もう、お、終わりだ」
広東なまりのある中国語に、ヤオは同じ言葉で答えた。
「さきに終わるのはそっちだ」
「同時だ。ここはもう、終わりだ。この殺人鬼ども。血の女。心中、しやがれ」
ヤオははっとした表情で、男が握っている携帯を見た。そしてさっとベッドサイドに走り、男の黒い鞄を開く。四角い箱にデジタル時計がセットされたわかりやすい時限爆弾が目に入った。秒を刻んで赤い数字が移り変わる。
4:35 ………
「お嬢様!」
男の笑い声は消え、体は血の色のベッドの中で動かなくなっていた。ぼんやりとこちらを見るリンに、ヤオは叫んだ。
「時間がない。出てください、すぐ」
「え?」
「時限爆弾です、五分を切っています。たぶんいまこいつが携帯で起動させた。わたしの知識では止められない。まずはあの子を」
リンは必死に体を起こし、声を絞り出した。
「鍵を開けさせなきゃ。中から鍵がかかってる」
ヤオは片手で脇腹を押さえ、少女のいる部屋に突進すると、どんどんとドアをたたいた。
「出ておいで、ヤオだ。出ておいで、出るんだ、すぐに!」
「リンは? あの銃の音は何?」
くぐもった声で宝琴が答える。布団の中にいるらしい。中国を出てから男という男に騙され乱暴されてきたので、リン以外の全員、表情のないヤオも彼女の信頼の外にあった。
「リンもおいでと言ってる。会えるから出ておいで。ここは爆発する!」
「嘘」
あまりに極端な説得に、少女は即座に返事した。無理もない、だが事実なのだ。ヤオは同じことを叫び、少女はリンを呼び続けた。リンは壁伝いに這うようにして部屋に近づきながら、呼びかけた。
「宝琴、聞こえる? わたしよ、リンよ、出てきて。嘘じゃないわ、ここは爆発する。鍵を開けて」
囁くような声しか出なかった。中でベッドから降りる気配がする。ヤオはその場をリンに任せ、血まみれの寝室に取って返すと、激痛に顔をしかめながらバッグごと時限爆弾を持ち出し、庭園へのドアを開けた。そしてバッグを半開きのドアに挟むと部屋のドアの前に戻り、やっと顔を出した少女の手を思い切り引っ張った。
廊下の惨状を見て悲鳴を上げる彼女をぬいぐるみごと脇に抱え、もう一つの手でリンの身体を支え、二人を引きずるようにして廊下を進む。服の下の複数の傷口から血があふれ出てくるのがわかる。体温が下がってゆく。頭の中でデジタル時計の数字が刻一刻と移り変わる。
玄関ドアを開け、自分たちを押し出そうとするヤオに、リンは叫んだ。
「待ってヤオ、あなたはどこへ行くの、戻らないで」
「このまま爆発したら下の住民にも被害が及ぶ。外に突き出している庭園の端まで爆弾を運びます」
そしてポケットからUSBメモりを出すと、リンに押し付けた。
「データが入ってる。大事にしてください」
「ヤオ、一人にしないで。わたしには行くところがない。ここ以外、もうどこにも行く場所はないのよ」
叫び声には涙が混じっていた。今までで一番悲しい声だとヤオは思った。襟元にしがみつく血まみれの指を握りながら、荒い息でヤオは言った。
「わたしはもう、……無理です。下で、脇腹を撃たれた。あなたには枷になります」
リンは目を見張り、視線を落とした。ヤオの靴はすでに服の下から滴り落ちる血で真っ赤に染まっている。襟をつかんでいた手をヤオの頬にあてる。蒼白な頬に走る稲妻のような鋭い傷が、あふれる涙の向こうに霞んで見えた。
「……わたしも残らせて。死んでもいい、一人ぼっちはいや。ヤオ、お願い」
「宝琴を守ってください」
ヤオは二人のからだをがっとかき抱くと、リンの耳元に口を寄せて言った。
「あなたにはあのかたがいます」
「え?」
「……愛しています。あなたと香渓のほとりに帰りたかった」
顔を見返す間もなく、次の瞬間リンの身体は思い切り後方に突き飛ばされていた。宝琴を抱いたまま廊下に倒れ、したたかに頭を打つ。ドアが閉まる音が重く反響する。目の端に、それでも起き上がろうとする少女が見え、止めようと声を出しかけたその時、不意に視界がまるごと誰かの身体の下になって暗転した。
激しい爆音が地響きとともにあたりを覆い、
やがて残響とともにすべては闇に沈んだ。