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酔 迷 宮  作者: pinkmint
33/91

玉鞍を払い、紅頬に泣く

 澪子は録画してあったニュース番組を見終えると、テレビを消してぼそりと言った。

「写真まで出すとはね」

 そして蒼白な顔の来客に向かい、皮肉交じりの一言を付け足す。

「おかげで来客の予約の立て込むことったら」

 二人の間の、寄木細工のテーブルにはルビー色に輝く紅茶が二つ、湯気を立てていた。その隣に、揚羽蝶が彫りこまれたクリスタルのジャムの壺が添えてある。漆喰の白壁を仕切る黒い柱で、ドイツ製の、破風飾り鳳凰のついたアンティークの賭け時計が、濁った音で五回鳴った。

「薔薇のジャム入れる? 好きだったでしょ」

「結構です」

 日が傾くとともに風が幾分強くなって、観音開きの高窓をカタカタと揺する。

「ロシアン・ティーって、紅茶にジャムを入れる人とジャムを舐めながら飲む人と、ロシアでは半々だそうよ」

 澪子は銀のスプーンですくったほの赤い薔薇のジャムを、ゴムのように伸びる真っ赤な唇にゆっくりと運び、紅茶を飲んだ。

「なんだか疲れちゃってね、しばらく豪華客船の旅にでも出ようかと思ってるのよ。だから一応会ってあげたんだけど、しばらくは顔も見られないわね」

「お好きなところへお出でください。その前に聞かせていただきたいんです、あなたが知っていることを」

 濃い紅色のヴィクトリア朝の椅子に身を預けると、澪子は紅茶に手を付けようともしない詩織に斜めに視線を投げた。

 ブラウンの薄手のニットにクリーム色のタイトなパンツ姿で、癖のある髪をアップにしてメッシュ編みのキャスケットに突っ込んだ彼女は、まるで少年のように見える。

「ニュースで言われたとおりのことなら、今知ったわ。見つかるといいわね」

「あなたはSYOUに興味があったはず。わたしにはわかる。

外側からではない、あなた自身が持っている情報をくださいと言ってるんです。言ってくだされば、わたしのほうからも知っていることをお話するわ」

「あなたから聞きたいことは残念ながらないわ。SYOUは女の子を追いかけて我を忘れている、止めなさいと言ってあげたわよね。そこから逆算した程度の話なら、今さら聞かせてくださらなくて結構」

「父は、わたしがもしこの事件にかかわっているなら拷問ものだと言いました。あなたが聞きたくなくてもわたしからお話しします。伝えたければ父に伝えてくれてもいいわ、きっと手の込んだ拷問が見られるわよ」

 澪子は目を丸くして首をかしげると、ボーンチャイナのカップを置いた。

「また変わった強迫のしかたね。わたしにあなたの身を案じろと? 残念ながらご想像通り、わたしは何を見せられても楽しむだけの性分よ。話したいなら勝手にしゃべったらいいわ、意味はないけど」

 詩織はいつもより赤く塗った唇の端をくっと上げると、背筋を伸ばして顎を上げた。

「そう。じゃあいきます。SYOUはリンという少女とハニー・ガーデンで会い、あっという間に命を懸けるほどの恋に落ちた。それがすべての始まり。そして彼女の正体をさぐるために探偵を雇い、その結果 探偵は殺された。あなた絡みでね。ここまではいい?」

「……」いくぶん紅潮した詩織の顔を、澪子はまじまじと見やった。

「でもご存じのとおり、彼女との出会いのきっかけを作ったのはわたしの愚行。

 彼がわたしを嫌うのは当然だし、事実、彼にとってわたしはもう鬱陶しい存在でしかない、それは知ってる。

 それでもわたしは、彼にわたしを必要としてほしかった。だからできることがあれば何でもすると言ったの。さよならと言ったら背中しか見られない、背中でなく顔を向けてくれるなら何でもするわ。それがたとえ、そのリンという女のためになることでも」

 澪子はどこか意外そうな表情で詩織の話を聞いていた。そこには何か、小さなものをいとおしむような幽かな風情があった。

 詩織は決然と澪子を見据えた。

「澪子さん。わたしに警告をよこしたあなたが、探偵を消した側にいることは説明されなくても分かってる。わたしはそのことじゃなく、ただ一つのことを聞きたいの。SYOUは今どこにいるの?」

「どうしてわたしが知っていると?」

「あなたは知ってる。それはわかってるわ。言って。どこにいるの?」

 昏い目でこちらを見据えたまま、詩織は不動の構えだった。ぎりぎりに追い詰められた人間の最後の理性を、様々なシーンで今まで澪子は見てきた。その中でもすでに沸点に近い表情なのはまず間違いなかった。

「残念ながら知らないものは知らないのよ。自分の身が危ういと判断して姿を消したなら、むしろあなたが匿っている側だと世間は思うでしょうね」

「……」

 詩織はバッグに手を入れると、ハンカチで包まれたものを取り出した。

 さらりと落ちた絹のハンカチの下から、ブローニング銃が現れた。


 ……さすがに身内同然の娘にボディチェックはしない。その穴があったか、と澪子は自分に舌打ちした。そして、テーブルの上に両手を出してゆっくりと組み合わせた。

「……詩織ちゃん。SYOUはどうしてあんなことになったと思ってる?

いくら止めても聞かず、ただ自分が手に入れたいものを手に入れるために、向こう見ずに突き進んだからよ。今のあなたと同じにね。

 つけが自分に返ってくることは覚悟していたかもしれない。でも、彼のエゴは周りの人間をも巻き込んだわ、あなたも想像がつかないぐらい。

 それでもあの子は聡明な子よ。自分と同じようなことをしないように、静観するように、あなたに言わなかった?」

 詩織は手の中の銃を震わせて、はっきりといった。

「人殺しのくせに、上から言わないで。……ひとごろしのくせに!」

 語尾は叫びに近かった。背後のドアが細く開き、ボディガードの男が戸口に立って澪子に目で合図した。澪子は指の先を軽く振って、その動きを抑えた。

「彼が生きていたとしても、あなたを利用してリンの望みのために動いて、結局捨てられる。だとしたら、あなたに残るものは何?」

「あなたに答える必要があるの?」

「ただ聞きたいの。あなたが女戦士として壮絶に戦って死ぬとしましょう。その犠牲を踏みつけにして 彼が恋人と結ばれるとしたら、あなたのすることに何の意味があるの」

「生にも死にも意味なんてない。わたしはいまこの世のここにいる、ここにいるからには自分の心のままに生きるの。わたしが死ねば彼はわたしの死を一生忘れない、ただの昔の恋人ではなくなる。わたしはわたしのかたちをした刻印になる。

 たとえしまいに溶けるからって、一生火のつかない蝋燭に価値なんてある?」

 澪子はじっと詩織の目を見ていたが、ふっとため息をつくとゆっくり手を伸ばし、銃口を上から押さえて、テーブルに向けて静かに下げさせた。詩織は抵抗しなかった。この女の前でかざす銃に意味などないことは、最初から分かっていたのだ。

「あなたたち、ドア閉めて」

 隙間からこちらを覗いていた男たちに声をかけると、ドアは静かに閉じられた。澪子は凪のように穏やかになったひとみを、詩織に向けた。

「実はね、呼ぶ手間が省けたってのが正直なところなのよ。あなたの覚悟はわかったわ」

 うっすらと赤みを増した自分の目の、その瞳孔が開くのが詩織自身にもわかった。澪子はバッグから小形の書類入れを取出し、その中から折りたたんだ紙を取り出した。

「いい?これを渡すわ。覚えたら燃やしたほうがいい。見た後のことは、わたしは知らないわ」


 詩織は震える指を伸ばし、唇をかむと、いったん目を閉た。体を突き破るように一気に血脈が膨張する。そして目を開けると同時に紙を開いた。


               


 ……記憶はいつも突然始まる。

 目の前にあるのは、青い清冽な流れとそよそよとしたやわらかな藻、険しい山々の稜線、水墨画のように青の稜線を霞ませる雲。

 自分の目がどこにあるのかわからないその世界が展開されると同時に、ぐるりと世界は回り、やがて自分が背の高い髭面の男の手の中にあるのがわかる。

 赤ん坊ではない、その男の首に回す自分の手はもう十分に長いから。

 空の高みで鳶が高い声でなきながら輪を描いている。ああ、世界は美しい、と思う。

 それが最初の記憶。


 ……自分はまるで、過去のない世界から突然現れた異形の生き物のようだ。


 逆光で顔のよく見えない男は、自分に顔を近づけるとしばらく見入り、それから微笑んで、不思議な詩のような言葉を口にした。

 それからその男の家に連れて行かれ、父という名で呼ぶようになってからも何度も、その音律をリンは耳にした。


 王昭君 昭君払玉鞍 (ワンシャオチン シャオチンフーユェアン)

 上馬啼紅頬  (シャンマーティゴンホンチャ)

 今日漢宮人 (チンリハンゴンシェン)

 明朝胡地妾 (ミンシャオチャオフーディチェ)


 王昭君、玉鞍を払い、馬に上って紅頬に泣く。

 今日までは漢宮の人、

 明朝は胡地の男のもの……


 中国の前漢の時代に、元帝の後宮に勤めていた絶世の美女、王昭君を歌った李白の漢詩だった。

 漢の元帝は、長年対立関係にあった北方の遊牧民族である匈奴の王から、友好のしるしに何千という漢の後宮の女から一人譲ってほしいと言われ、承諾する。とはいえ美女を贈るのはいかにも惜しく、宮廷一番の醜女を肖像画で選び、贈ることにした。だが画家の毛延寿に贈賄しなかった事で醜く描かれていた王昭君は、実は絶世の美女だった。感謝を述べに自分の元を訪れた王の傍らの彼女を見て元帝は自分の過ちを知る。激怒して画家の首をはねたが後の祭り。美女は砂漠の地で悲運の人生を閉じたという。


 父が繰り返し聞かせたそれを、

 多分手にした娘の美しさをたたえてのことだろう。

とヤオは言ったが、その詩の不吉な内容は、なんと今の自分と似ていることだろう。

 王昭君の生まれ故郷、湖北の香渓という清流のほとりの村で自分は拾われたという。ならば、これも偶然の悲運の一致というものだろうか。

 王昭君が真珠を川に落としたときから、香渓はかぐわしく澄んだ流れになったという言い伝えがあると父は言った。自分はその川で、真珠を拾ったようなものだと。

 漬かっていたのか浮いていたのか、あのとき目にしていた水のかすかな青は、いつでも自分の網膜の底に沈み、同色のSYOUのピアスの幻影とつながる。闇の中の光のように、不思議とそのありかだけは自分の目に見えるのだ。

 あのとき、SYOUが探していたピアスをどうして見つけたか、誰に説明しても分からないだろう。自分にはいつでも、その光は見えていたのだ。

 そして今そのかすかな輝きは、暗い海の底にある……


「そろそろお見えです」

 寝室のドアを開けて、イーリンが顔を出した。

 ベッドに座って白雲(バイユン)(ビェン)をあおるリンを無言で眺め、そしてテーブルの上の瓶を見て、ひとこと言った。

「もう、そんなにお飲みに」

「ええ、用意してくれてありがとう。故郷のお酒ね」

 香港から送られた信者であるイーリンは、年のころ三十半ばぐらい、ヤオと同じように感情を表面に出さないタイプで、陽善行の気功術から枝分かれした拳法の使い手だった。

「なにかとても不安そうでいらっしゃったから……。常連のお客ですからたまには乱れてもお許しくださるでしょう」

「……そうね」

「でも、強いお酒ですからそのぐらいにされたほうが」

「ええ」

 父の好きだった酒。ただ優しく、ただ穏やかな気功師でしかなかったころ、父は自分を膝に置いてよくこれを飲んでいた。

 父は消えた。ヤオはいない。目の前に希望もない。その状態で客を迎え入れる恐怖が、アルコールをあおっても、まだ足元から這い登ってきていた。イーリンは静かにリンのそばに来ると、「失礼します」と言ってその目をいつもの目隠して覆った。


 目も見えない。そして音も消えた。網膜に広がるのは、ただ、暗闇。

 寂しい。

 SYOU、あなたに会いたい。


 もう何の目的もなく、この場で自分が腐っていく時間を待つだけの人生。

 やろうとしていることが目の前にある間は、自分はそれでも生きていた、恐怖も感じなかった。

 いま、時間が止まろうとしている。止まれば自分の腐敗が始まる。腐る前に、誰かわたしを粉砕して。あの庭園のマシーンで。そして、薔薇の下に撒いてくれればいい……

 かすかに傍らの空気が揺らいだ。いつもなら、目と耳という二つの器官を閉じられた途端に敏感になる肌の感覚が、いまは酩酊の被膜で二重三重に覆われている。傍らに立つ誰かは、斜めにベッドの上に倒れ伏した自分をしばらく眺めて動かない。気配でそれがわかる。酩酊状態に呆れているのか、半分金を返せとでも言ってくるだろうか。

 肩に手が置かれ、身体が上を向かされる。人形のように転がったまま、相手の遊興に任せる。

 そのとき、戦慄が全身を射抜いた。

 常連客と言った、でもこの男の香りは知らない。自分は匂いには相当敏感なほうなのだ。この人から香ってくる煙草臭は、日本のものではない。

 これは、中国の高級煙草だ。おそらくは、大熊猫?

 経験したことのない痺れが全身を覆い始めていた。突然手首が強くつかまれ、何か手錠のようなものがかけられる。

 ボディチェックは? ああ、今日はヤオはいない。どうしてこんなものを持ちこめたの。イーリンは?

 突然、目隠しが乱暴に外された。

 目の前にあったのは、初めて見る、目の釣り上がった酷薄な男の顔だった。

 手錠の片方は、男の手首にあった。男はリンの耳栓を取り、口の端を上げてにっと笑うと、なまりのある中国語で呼びかけた。

「ファン・ユェリン。やっと見つけましたよ」


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