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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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挿絵(By みてみん)




プロテナーゼK。高塩濃度フェノール。 ベンジルクロライド。X-100尿素。陽イオン界面活性剤 ……

 地下の支援組織が用意してくれた薬液を、書類とともに手持ち金庫にひとつひとつしまいこむと、ヤオ・シャンは錠をかけた。

 髪と爪からDNAを抽出するには、 これらの薬剤を使い、細胞膜を破壊して細胞を溶解し、核のなかの DNA を溶出させる。そして溶解しているタンパク質を除去し精製する。……

 そうやってこれまでに収集した顧客のDNAの膨大なデータは今や、表に出せば、日本の現政権を倒すに足るだけの量になろうとしていた。


 パソコンに向かう。USBファイルから一覧表を呼出し、そろそろリストの終わりになるであろう名前と顔を確認しながら、ヤオは苦い記憶を噛みしめた。

 脂の塊のような醜い中年男。痩せぎすの髭面。皺だらけの老獪な政治家。

 ひとりひとりの顔、声、匂い、立ち居振る舞いが動画を再生するように脳内に再現されると同時に、リン-黄月(ファンユェ)(リン)の記憶は自分に比べてどれだけ生々しく深いことかと考えずにはいられず、考えれば眩暈を覚える。

 いつもそうだった、その思いを閉じ込めて一年。

 ここしか居場所はない、ここですることは霊燦会のためになることでありいずれ陽善功再建につながるであろうと言われて一年。

 地獄のような中国の刑務所内で、男性器を潰されてまで口を割らなかった恭順を買われて、ハニー・ガーデンの守り主となることを許されてきた。

 だが結局のところ、異国の邪教の金儲けの道具になっているだけと察し始めたころから、信頼をタテに密かに動き、日本に潜伏する陽善功の地下信者と連絡を取り合った。そして今、日本の表社会で権勢を誇るお歴々の裏のデータがここに揃っている。

 だが、自分は何をしにここに来たのか。それは何のためだったか。

 それを思うと、自分がどちらの方向を向いて動けばいいのか、材料が揃えば揃うほどわからなくなる自分がいた。

 たまたま澪子がリンに肩入れした結果、状況は信者としての自分寄りにはなっていた。一方でその澪子を裏切って地下活動家と通じている自分の動向は、薄氷を踏むような危ういバランスの上にあった。その澪子も、もう手を引くという。


 そっと部屋を出て廊下を通り、細くドアを開けて寝室の気配を探る。

 白い部屋はやわらかな午後の光に包まれ、ベッドのふくらにみは窓の外で揺れる白丁(ハクチョウ)()の影がうっすらと映っている。羽根布団の中では、親鳥に抱かれる雛のように、リンの胸に従妹の(パオ)(チン)が包まれている。全身麻酔と同じぐらい強力な薬の効果からはなかなか覚めやらず、起きてはリンを呼び、泣いては眠り、それを丸一日以上繰り返し、少女はリンにしがみついたまま、また寝息すら聞こえない深い眠りの中にいた。

 村一番の美少女の座を、リンと争っていた従妹。当局に両親を連行され、行き場を失っていたまだ十三歳の少女。

 リンがいるところだから安全、と信じ込まされてリンのあとから連れてこられた日本の監禁先は、リンの花園とは別にある、同じ欲望の檻だった。リンと会える、という言葉につられて海を渡った少女たちの一人。自分が騙したも同然、自分の命に代えても救出すると、リンが必死に手を尽くしていたひとりだった。

 けれど、今その彼女を抱きながらも、彼女は悲嘆のどん底にあるのだ。それを知るのは自分ただ一人だった。


 あの夜。

 雨の上がった深夜の道を走る車の中で、無言で前を見ていたリンが突然口を開いた。


「止めて」

「なんですか?」

「戻って、あの公園へ」

 ヤオはハンドルを握ったまま、スピードを落とさずに尋ねた。

「なんのために? はやく(パオ)(チン)をトランクから出さないと……」

「ひと晩は仮死状態と言ったでしょう。じゃあわたしが降りている間にトランクから座席に移してあげて」

「公園に何か落とし物でも?」

「あの人が、……」

「あの人?」

「……いたの。こちらを見ていた。気のせいじゃない」


 何かに憑かれたように、視線は前を向いたままだ。

 ヤオはゆっくりと車を停止させた。


「……わたしの記憶では、あたりに人影はありませんでしたが」

「止まっていた澪子の車の中。

 窓がほんの少し開いていた。視界の端に、一瞬人影が見えた。マフラーのようなもので顔を半分覆っていた」

「それは運転手でしょう」

「わたしに懸命に話しかけてた。心の中で。それが今、届いた」

「何と言っていたと?」

 数秒の沈黙ののち、リンは言った。

『ぼくはここにいる、生きている』

「……」

 リンは澄んだ瞳をヤオへ向けた。

「SYOUは行方不明と言われているわよね」

 その名にびくりと体の深部を反応させ、ヤオは言った。

「……あなたがそのことに触れないので、わたしも触れませんでした。

 もう完全に切り離していると思っていましたが」

「そうよ、切り離してた。でもあそこにいたのよ、いたの。でも、いま……。

 ヤオ、行って。戻りなさい!」

 ああ、またか。ヤオは心の中で舌打ちした。

 ハンドルを切り、オレンジの街灯に照らされたがら空きの道で大きく車をUターンさせる。濡れた道路が車輪の下で悲鳴のような音を立てる。

 なぜあの男は、これほど引き離しても彼女を呼び続けるのか。命を懸けた仕事が、仕上げに近づいているというのに。

 到着した臨海の公園は雨上がりの闇に沈み、しっとりと水気を含んだ大気の中、ひとの姿も車の影もなかった。左手の運河の対岸、燃料工場の煙突の炎も今は消えている。

 バーの降りた駐車場の手前の路上に車を止める。リンは即座にドアを開け、五月とは思えない冷気の中に出ていった。

「あまり遠くへ行かないで。そこで待っていてください」

 リンに叫ぶと、ヤオは車の後ろに回ってトランクを開け、ゴルフバッグを引きずり出して両腕で抱えた。ふと振り向くと、真っ暗な岸壁のほうに駆けだしてゆくリンの後姿が見えた。

 大急ぎで開けたスライドドアから後部座席にバッグを置くと、通気のために小さくチャックを開け、ヤオはドアを閉じてロックした。

「お嬢様!」無駄と知りながら大声で叫び、地面を蹴る。

 何かに導かれるかのように、リンは真っ暗な海辺に並ぶ倉庫の群れの方向にひた走っている。東南アジアからの材木が並ぶ上屋のむこうは海に向かって滑走路のように埠頭が付き出ており、フェンス越しに並行するように遊歩道が延びている。そのさきは、対岸にちらちらと千葉の灯りが瞬く、漆黒の東京湾だ。 

 リンは飛ぶように遊歩道を走り、いきなりフェンスに飛びつくと信じられない身軽さでよじ登って埠頭側に飛び降りた。よろめいて膝をついたかに見えたが、すぐに体を立て直して走り出す。まるでいなくなった主人を追って疾走する猫のようだとヤオは思う。彼女は何を目指しているのか、大千大師が時たま言っていたように普通の人間には見えない何かが見通せるというのだろうか、それとも恋しさのあまりのただの狂気だろうか。

 ヤオはフェンスに腕をかけると一足で乗り越え、埠頭側に飛び降りた。顔を上げたその瞬間、コートを脱ぐリンの姿が見えた。腕から抜いたコートが風に乗って海に飛んでゆく。

 ああ飛び込む、咄嗟にそう思った。声も出さず、ただ全速力で彼女の後姿に突進し、今しも岸壁を蹴ろうとしてつんのめったその体を、すんでのところで背後から抱き止める。前のめりになる眼下に、真っ暗な水面が迫った。

「何を、何をするんですか!」

不要碰(プーヨーペン)(ウォ)(ラン)我走(ウォツォ)!」(さわらないで、いかせて!)

 息を切らせたヤオに羽交い絞めにされながらリンは叫び、暴れ、顔をひっかき、獣のように腕に噛みついた。そして泣き叫ぶように、海に向かって愛しい男の名を叫び続ける。到底自分が鎮められる状況ではないと即時にヤオは判断した。

「お許しください」

 耳元にそう囁くと、その腹に鈍く、体重を乗せたひと突きをくれる。

 リンのからだは前のめりにゆっくりと倒れ、ヤオの腕の中に崩れた。

 やわらかな体を両手で受け止め、横抱きにすると、ヤオは漆黒の海に視線を投げた。

 自分の足元から五十メートルほどの距離に、薄白く、そして広範囲に泡が立っている。

 羽田の離発着の音か、または風か、ごうごうごうごうという地鳴りのような音が海の彼方からずっと続いていた。……



 ふいに寝室から抑揚のないアナウンサーの声が流れてきた。追想から我に返り、ヤオはまたドアをそっと開けた。


 ベッドの上に半身を起こし、リンがテレビに見入っている。手にはリモコンが握られている。宝琴はまだ眠りの中で、緩やかな巻き毛を枕の上に散らばせて目を閉じている。リンの漆黒の髪は上半身を丸ごと包むかのように広がり、白い薄手の夜着を纏う体は半分以上が羽根布団の中にあった。

 ヤオは静かにベッドに歩み寄った。

「……目が覚めましたか。何か飲みますか?」

 そっと問いかけると、リンは無言のまま口元に指を当てた。その視線の先では、アナウンサーが入ったばかりのニュースを読み上げている。ヤオは画面に目を向けた。

 SYOUの顔が大映しになった。


 ……八日夜、川崎の埠頭から引き揚げられた乗用車の遺留品が俳優のSYOUさんのものと判明し、失踪の原因とあわせて安否が心配されています。

 なお、海底からはさらに本人の携帯も発見されており、いまだに本人の足取りはつかめておりません。事務所はこの件について……


 リンの驚愕が皮膚を突き破るようにして自分に流れ込んでくる。時々こういうことがある。何の言葉も発せなかった。ヤオはただ体を硬直させて視線を画面からリンに移した。

 次のニュースに移って三十秒ほどして、リンはテレビを消した。


「どうして」

「……」

「どうして、あのとき、わたしを止めたの」

 凍りついたふたつの瞳が、こちらを見ていた。言っている内容よりも、感情のすべてが凍結した、波動の低い、囁くような呻くような声音に、ヤオは圧倒されていた。

「あなたは、必要な方です。この世界のために必要な命です。決して海に消えていい存在ではない」

「必要? どういう意味で? 彼の命とどう違いがある!」

 絶叫すると同時にリンはヤオに向かってリモコンを投げつけた。顔からわずかにそれたリモコンは壁に当たり、バラバラになって落下した。

「むしろ消えていいのはこの身のほう。お前にとってどんなに必要であろうと、わたしの知ったことではない。お前は生きながらにわたしを殺した。彼が海にあるならわたしも行く、これ以上わたしにふさわしい場所はなかった。これ以上生きて、わたしに何を見ろと言うの!」

 お前。初めて聞く呼称で呼ばれながら、狂気寸前の彼女の激情に、平伏したくなる自分を抑えて、ヤオは叫ぶように答えた。

「わたしのためではない、断じてないのです。あなたのために、いえ、あなたのお父上である大千大師の教えのためにいのちを投げ出した何千という信者、そして残された何千万という信者が、あなたにすがっている。あなたは彼らの灯なのです。どうかお気持ちを彼らに向けてください、あなたにはすることがあるはずです」

 色白の顔を激昂に染めてリンは即座に怒鳴り返した。

「父はその人々を大陸に放置してアメリカに逃げた。わたしを後継者といい、この国に送り込んだ。その言葉を信じて親が少女たちを霊燦会に預けた、その結果はどう。宝琴を見て。未だに幽閉されたままの女たちを見て。わたしは同朋の少女たちを陥れる囮。父はもはやわたしにとって、裏切者でしかない!」

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