仄暗い海の底から
五月とは思えない冷えた空気が都会を押し包んだその夜、北原哲夫は警察署の長い廊下を社長と連れだって歩いていた。
どうもご足労をおかけして、という捜査員の言葉を聞きながら、買って間もない眼鏡をかける。
人間ドックで視力が落ちていると指摘され、どうせならいいデザインを選んでやるよとSYOUに言われて一緒に眼鏡店に行き、新調したものだった。
いま、何を見るためにかけているのか、それを思うと胸の中で何かが爆発しそうで、哲夫はただクリアになった視界の向こうの薄暗い廊下に目を凝らした。
「こちらです」
捜査員に案内されたのは、灰色の、二十畳ほどの部屋だった。テーブルの上に並べられた品々はまだ完全に乾ききっていないものもあり、それぞれに都会の海の匂いが染みついていた。
ライター、ダークグレーのジャケット、青いマフラー、靴の片方、クッション、お守り、女性ものの黒いレインコート……
「届け出のあったものと一致したのが、こちらです」
刑事は薄汚れたハイカットの白いスニーカーと、グレーのジャケットを指さした。哲夫は拳で口元を覆うようにして、ゆっくりと近づいた。
Y-3のレザーハイカットスニーカー。
あの日、自分のアパートを訪れたSYOUが履いてきたものだった。
背を丸めて靴紐を結んでいた後ろ姿が目の前に思い浮かび、思わず出そうになる声を喉の奥で抑えて、哲夫は言った。
「……彼のものです」
「こちらのナイロンジャケットは」
彼がよく着ていた、ルーカ―のダークグレーの……
「それも彼の……」
あとは声にならず、社長が後を継いだ。
「それで、車内は無人だったんですか」
「転落時に破損したのか、とにかく窓は壊れ、内部に人はいませんでした。岸から相当離れた場所に転落していたところから見て、アクセルを踏んで飛び込んだものと思われます。潮の流れもありますし、沖に流されたとも考えられます。乗用車は近くの物流センターの社員所有のものでした。つまり盗難車ですね。その前からの行方不明の件も含めて、何か思い当たる節は」
「いや、……まったく」
それきり社長も声を詰まらせた。
哲夫は片方だけの靴を持ち、ジャケットを眺め、SYOUの幻影を追いながら呼びかけていた。
……こんなのは嘘だろう。
とっとと出てきて説明してくれ。
何を聞こうとしたのか、あの日何を俺に言おうとしていたのか、もう一度聞くから、チャンスをくれ。これではなにもわからない。
これきりでは俺にはなんにもわからないぞ、SYOU。
「あいつ泳ぎがうまかったよな……」
となりでぽつりと社長が言ったその刹那、哲夫の喉からは自分でも驚くような大声が出ていた。
「くだらないことを言わんでください。自分で飛び込んでおいて、いったい泳いでどこへ行くっていうんですか!」
「……自分で飛び込んだとはまだ」
「じゃあ誰が!」
刑事が哲夫の肩を後ろから掴んで何か言い、社長が何か答え、そして自分はさらに声を上げて怒鳴りながら、哲夫は自分の体全体が冷えた水の底にどんどん落ちてゆくような感覚を味わっていた。
ネット上ではSYOU失踪の噂が飛び交い始めていた。そしてツイッタ―でブログで、さまざまな目撃情報が報告され、憶測は憶測を呼び、あらゆる珍説を引きずり出し、噂の広がりは止めようもなくなっていた。
SYOUは探偵を雇って好きな女をストーキングしていたらしい。ライバル事務所の女優らしい、いや逆に脅されていたらしい、暴力団に追い詰められていたらしい、犯罪を犯してもみ消しに苦労していた、たいそうな借金をしていた、等々。
なかでも、探偵落下事件の現場付近での目撃情報が一番信憑性のあるものとして注目されていた。事件直後にSYOUが現場から立ち去るのを見た、交際歴のある女優、伊藤詩織と連れ立っていた、というものだ。
騒ぎの広がりは抑えようもなく、SYOUの属する関岡プロダクションは落下事件から三日後、管轄の警察にSYOUの捜索願いを出した。
川崎市の、工場の立ち並ぶO島の物流倉庫の裏手、東京湾の底から破損した乗用車が引き上げられたのは、その三日後のことだった。
警察からの帰り、社長は運転には危険な精神状態と判断して哲夫から車のキーを取り上げ、久々にハンドルを握った。
「おまえがSYOU贔屓なのはわかってた。だが、今は取り乱してる時じゃないぞ。なあ、北原。行方不明なのは事実だが、逆に言えば、彼がどこにいるかはまだ誰にもわからないんだ。そうじゃないか?」
どんよりとした目を窓の外に向けたまま、哲夫は無言だった。
「車の遺留品の件は警察はまだ表に出さないと言った。これからはますますマスコミの突っ込み取材も増えて来るだろう。これ以上噂を広めないために……」
「もうどうでもいいですよ」
投げやりな答えに、社長は真剣なまなざしを哲夫に向けた。
「どうでもよくはないんだよ。俺達のあずかり知らないところで、実は問題は妙な広がりを見せてるんだ。いいか、最近事務所に立て続けに妙な電話がかかってる。SYOUはどこだ。いまSYOUはどこにいる。ほんとうはわかっているんだろう。緊急に伝えたいことがある、〝彼女″について伝言があると彼に伝えてくれ。事務所がどうなってもいいのか。
どれも多少日本語がおかしい。たぶんアジア系だ、どうも中国の何かの組織が彼の動向を探っているらしい」
「海に沈んだとでも答えれば大人しくなるんじゃないですか」寄りかかって窓の外を見ながら哲夫は答えた。
「だからその件については絶対に外に出してはならないんだ、しつこく居場所を聞いてくる連中については、どうも相当やばい匂いがする…… おい、なんだその酒は」
「ボンベイ・サファイアですよ。綺麗な色でしょ」
哲夫は鞄から取り出した青い瓶を目の前で振って見せると、蓋を外した。
「種類を聞いてるんじゃない。お前強い酒はダメだって言ってたろ。大事な時なんだからアルコールはやめろ」
無視して瓶ごとあおると、口元を拭き、哲夫は言った。
「ヤバいっていうのなら陽善功関係じゃないですか、SYOUが知りたがってましたから」
「なに関係だって?」
「カルト宗教の名前ですよ。なんで知りたがってたのかわからないけど、あの弾圧ぶりは中国の恥と言われてますからね、じゃあSYOUをつけ回してるのはマフィアじゃなくて恥部を探られたくない中国政府かな、どのみち知らないことですから答えようがないでしょう。彼がこのまま現れなければ今まで出た単語を噂にしてばらまけばいい、逆に世間中が大騒ぎして探してくれるんじゃないですか? 社長がどれだけ無関心でも」
哲夫は立て続けに瓶を逆さにして口に当てた。社長は車を左に寄せると、やがて減速して車を路肩に止めた。
「もうやめろ、死ぬぞ。おまえ陽善功、といったか?」
「SYOUがなんだか、霊燦会と並べて名前を出してました。言いかけてやめたんで気にはなってたんです」
「若宮さんの話はSYOUにしたか?」
「誰の? ああ、映画監督の、話って何をろんなふうに」もう耳まで真っ赤だった。意識のあるうちにと、社長はたたみかけた。
「SYOUと直接話がしたいと彼からおれのところに最後に電話があった時、彼は今ルポルタージュを撮るならあえてそのタブーに挑戦したいと言ってたんだよ。一応SYOUの携帯の番号を教えたんだが、その直後にあいつが行方不明になりやがった」
「タブーか。そういやあいつハニーガーデンの彼女のことも気にしていましたよ。ほら、ピンクのシャンパン持ってきてましたよね。かわいい子だったし、あんなところで客とって人生台無しにして、そりゃあ同情すればきりがないけれども、だから俺は止めたんです。なんにもならないと。なんか必死だったから。だけど今頃どこかで会ってたらいいなあ。もしそうなら祝福しますよ、ほんとに会ってるといいなあ……」
話し声がやむと同時に転がり落ちた瓶がどんとドアにぶつかる音がした。目を閉じてドアに寄り掛かる哲夫の足元の瓶は、あっという間に八割がた空になっていた。
わかりやすい荒れように、むしろ社長は憐憫を覚えた。そして、反動で自分の頭を冷やしてくれたこと、ぺらぺらと情報を漏らしてくれたことに感謝すらしていた。
彼が追っていたのは、クラブ・ホーネットのあの少女か。陥れられたあの庭で、本気になっていたんだな。彼らしいと言えば彼らしい。
今朝、伊藤詩織の属するホライズンプロから電話があった。彼女は落下事件に一切のかかわりを持っておらず、また当日は友人宅にいてSYOUと同行はしていないという点についてそちらからも話を合わせてほしいということだった。
あわせるも何も、その時点で彼の行動はすでにこちらも掴んでいない。だが、マスコミへの対応として、噂は事実無根と返答するか黙殺すると言う一点でとにかく同意した。
……マフィアじゃなくて中国政府。
まるで恋人を突然失ったかのような哲夫の妄言には、それなりの真実性があるように思われた。
ルポルタージュを撮りたいと言っていた若宮に聞けば、このウラもわかるんじゃないのか? だが、いまに権田組と霊燦会の傘下にある自分の事務所がするべきことなのかどうか。
事務所社長としての立場と個人的な感情を二つがせめぎ合う苦痛を、今初めて関岡は感じていた。
「ここまで聞いても、お前は本当に何も知らないというんだな」
都下のM市の閑静な住宅街の一角にあるその邸宅の庭では、銀香梅が梅に似た白い花を満開にほころばせていた。
「海から何が出てきたからって、わたしには関係ないわよ。
だいたい六本木の転落事件の日だって、男友達の家で時間潰してたって言ってるでしょ。事務所にもそう言ってあるわ、いろいろあれだから名前は出せないけど。とにかくSYOUとは会ってない。何度聞かれても、何を聞かされても、それ以外に言うことはないわ」
壁一面が飾り棚になっている居間で、骨董品の壺やら置物に囲まれながら、詩織は革のソファーの上で足を組んでいた。
強情な娘はそれ以外のことを一切答えない。
表情を見れば、その下にさまざまな感情がせめぎ合っているのはわかったし、第一あれほど執心していたSYOUの失踪について、表には出ていない海中転落事故の詳細について、父を問い詰めもしなければ騒ぎもしないこと自体が明らかに普通ではなかった。
だが、いったん動き出すと止まらない彼女が静観を決め込んでいるのが、事務所にとっても眞一郎にとってもありがたいのは確かだった。
「それならそれでいい。一切外からの問いには答えるな、お前は今まで通りに過ごせ」
「最初からそうしてるわ」
「ひとこと言っておく。お前が何か知ったうえであの男をかばっているなら、この権田眞一郎は組ごとある組織に逆らうことになる。その組織の裏にはさらに巨大な組織がかかわってるんだ。いいか。私の娘でなければ拷問にかけているレベルの話だ」
「そう。じゃあやってみたらいいじゃない、逃げないわよ」
しばらく睨みあった後、眞一郎は視線を落とし、葉巻の灰をたたき落とした。
「……もう行け」
詩織はゆっくり立ち上がると、馬鹿にしたように丁寧に頭を下げて、居間を出て行った。
眞一郎は手元の女性週刊誌の表紙に踊る娘の名前とSYOUの名前を苦々しげに見やると、ばさりとその上に新聞紙を投げた。