蓋
話は三週間前にさかのぼる。
その夜、三月にしては寒すぎる雨が梅の花を散らし始めていた。
ツァーの最後を飾る東京ライブを三週間後に控えて、SYOUは赤坂のスタジオでのセッションを終え、どこかでビールと動物性脂肪質でも補給しようかとツアーバンド仲間と話し合っていた。
「下に、……また、来てるみたいだけど」
自販機に飲み物を買いに行っていたギターのダイが、戻ってくるなり口ごもりながらSYOUに耳打ちした。 一瞬息を止め、SYOUはため息交じりにつぶやいた。
「……参ったな」
手早く帰り支度を整えてエレベーターで一階に降りる。ホールの隅の自動販売機の横で、バーバリーロンドンの膝丈のトレンチコートに黒い革のブーツの女が、壁に背をもたせかけて携帯を覗いていた。
立っているだけで目立つのは際立ったスタイルのせいだ。ダークブラウンのロングヘアが緩やかなウェーブに小雨のきらめきを乗せて半分顔を隠している。
「詩織」
小声の呼びかけに顔を上げると、女は少し笑った。
「今日はきみも仕事だっていってなかったっけ」
「もう済んだわ、簡単な撮影だもの」
「で、何の用」
「私物を取りに行きたいのよ。あなたの部屋にわたしのもの、まだいろいろあるし」
「じゃあ送るよ。どこに送ればいい。実家?」
詩織は少しため息をつくようにすると、黒目がちの目でSYOUを見上げた。
「……冷たいのね。今ホテル住まいだし送られても困るわ。自分で選びたいの。いらないものはあなたが捨てるか使うかして。それとも新しい女でもいて来られると困るの?」
「今いないよ、そんな暇もないし」
「わたしも、ただ私物を引き取ってけじめをつけたいだけ。さくっと、いいよっていいなさい。いいじゃない、それぐらい」
なし崩しにいつの間にかタクシーの後部座席に並んでいた。
伊藤詩織。有り余る程の金を持ち、お嬢様大学の大学院に通いながら、モデル兼女優として最近名が売れ始めた、……一週間前に別れた女。
彼女のどこがよくて、飽きっぽい自分が一年も続いたのかよくはわからない。
だが、こうして並んで車に乗っていると、そしてその横顔を見ていると、言いようのない後ろめたさが胸に押し寄せて来る。
人生の転換期に立っていた十四の頃、何度も自分を車に乗せては説教をしてくれた恩人の女性がいる。その面影に、ほんの少し、彼女は似ているのだ。
もちろん、偶然。そう、付き合ってから気づいたことだから、偶然。
―お前が付き合ってるあの女のことだけど、と、私生活にはあまり口出ししない関岡社長が珍しく言い出したのは二月末のことだった。
……あの女が誰だかわかってるのか。構成員が一万人を越える広域暴力団、権田組の組長の娘だぞ。
妾腹の隠し子とはいえ、その母親が早くに病死して不憫だからと金ばかりを与えた結果、手が付けられなくなってるお嬢だ。暴力団規制法が施行されてから取り締まりが強化されてきた現在でも、なお権勢を誇っている唯一の組だ。
いいかげん、現実を見て距離を取れ。あの娘はいろいろとヤバすぎる。
そのころ、二人はよくけんかをしていた。たびたびできる顔のひっかき傷を見かねた社長が、今まで大目に見ていたSYOUの交際に口を出したのだ。朝顔の花が萎むように、そのころ、詩織の肌や気紛れな性分に対する興味も執着も枯れかけていた。
……もう終わりにします、ちょうど愛想を尽かされかけてますから。そう答えると、社長は心からほっとたような顔をして、そうかと笑った。
忠告を受けた翌日、SYOUは部屋で早速別れ話を切り出した。詩織は覚悟していたように、冷めた目で聞いていた。
……結局わたしのことなんか好きじゃなかったのよね、はじめから。誰のことも好きになんかなれないくせに。
その通りだ、ごめん、俺には恋愛の資格がないらしい。だからちゃんと優しくしてくれるいい男を探してくれ。
率直にそう答えたら、いきなり灰皿が飛んできた。それから平手打ち。SYOUの載っている雑誌を本棚から引き抜いては泣きながら床に叩きつける彼女を見ていて、心の中で、ああまたこれか、とため息をついていた。
初めて一緒に食事したとき、飲んだのがたまたまとびきり美味い酒で、酔いに任せて近くのビルの屋上に上がり、この世から爆弾で吹っ飛ばしたいものを叫びあった。非常階段で知っている限りの歌を歌った。公園の池沿いの道を歩いていた亀を拾い、ケロリンの洗面器で飼った。刃のように容赦のない彼女の物言いと、時折見せる子どものような笑顔が好きだった。
宝物を探すように、都会の片隅の、自由の片鱗を二人で拾い集めた。楽しかった。
彼女を見ていたかったし、幸せにしたいと思った。それが自分の都合でも、どこに根差すものでも、その瞬間の気持ちに嘘はなかった。それでもいつの間にか二人の間に風が吹き始め、女が寂しい寂しいと訴える回数が増え、それが重荷になって関係は終わる。どうしていつもうまくいかないのだろう、自分も寂しいのは同じなのに。
「なんだかなつかしい、この匂い」
SYOUのマンションの部屋に入ると、詩織はモノトーンを基調とした無機質な室内を見廻しながら言った。
「わたしがバリで買ったフランジパニの石鹸と、あなたのキャスタ―が混じりあった香り。ついこの間まで住んでたのに、もう遠い昔のことみたい」
「……」
「服にね、この部屋の香りが染みついてるの。バッグにもよ。だんだん薄まっていくのが切なくてね。マフラーなんて、洗えもしなけりゃ捲けもしない。バカみたい」
黙って突っ立っているSYOUを振り向いて、詩織は言った。
「警戒しないで、また住み着こうなんて思ってないから。でもひとつだけ聞かせて。わたしのこと、ほんとに、好きじゃなかった?」
「……いいや」
「最初は好きだった? 少しは思ってくれてた?
それとも、わたしの親が普通の親だったら、こんなことにはならなかった?」
詩織が少しずつ買ってきては大事に水をやってきた鉢植えの花々が夜の窓辺に並んでいる。それを眺めながら、SYOUは答えた。
「親がだれかなんて、俺には関係ない。
昔から、好きって感情がよくわからないんだ。誰かに好きだと言うと、そのあと、その言葉に交じってるかもしれない嘘が気になって、申し訳ない気持ちになる。心の中が不純物だらけで、自分の本音がよく見えない。自分にそれを言う資格があるのかとか、面倒なことを考えちまう。
でも、一緒にいたいと思ったし、きみを見てると、……幸せだった」
詩織は目を細めると、ふうっと細いため息をついた。
「それを聞きたかったの。ありがとう。
楽しかったよね、ちょっとの間だけど。……わたしも、幸せだった」
うっすらと涙の浮かんだ詩織の瞳は、愚かなことにこれまでで一番きれいに見えた。
「ねえ」
「うん?」
「最後にキスして」
「……駄目だよ」
「そこで止める自信がないから?」
詩織は微笑みを含んだ目で見つめながら、SYOUの腰に手を回した。
「あなたの帰りをここで待ち続けて、死にたくなった夜がいくつもあったのよ。
退屈しのぎにネットを開いたら、SYOUと女優Eがホテルのバーなうとかツイッターに爆撃されて、部屋に火をつけたくなったことも。
それを全部がまんして、おまけに忘れてあげるっていうんだから、ひとつくらい置き土産をくれてもいいと思う」
SYOUの頬を両手ではさみ、詩織はきゅっと目を閉じて唇を突き出した。付き合い程度に唇で触れると、いきなり力を込めてSYOUの頭を抱え、まるで息の根を止めようとするかのように強引に唇をむさぼる。思わず目を閉じて、無意識に上がった両手を、いつもの動きをなぞるように詩織の背中に回していた。
「……好きだったのに。本当に、好きだったのに。あなたはどうでも、わたしは本当に、本当に……」
「……ごめん」
恋というものが持続を求められるものではなく、ただ今、その刹那の深さだけではかれるものならば、自分は何度もきちんと、心から人を愛したのに。そのつもりだったのに。永遠だと思ったものはいつもあっという間に形を変えてゆき、その変化を誤魔化すことが自分にはできない。こうして、泪に濡れた頬を胸に押し付けられても、時間は戻せない。
それでも、自分の内部に行けばいくほど温度の下がる冷えた精神構造の中心に、その夜はめったに灯らない灯りが灯っていたとSYOUは思う。彼女の悲しみと自分の空洞を共に満たすという未知の衝動に導かれて、今までにないぐらい腕に力を込めて彼女を抱きしめていた。
嬉しい、とかすれた女の声が耳に切なく響いた。
優しくして、お願い。最後だけ、もっともっと優しくして……
翌朝、皺の海に埋もれそうになりながらシーツの中で目を覚ますと、身支度を整えた詩織が鞄に荷物を詰め込んでいるところだった。SYOUの視線に気づくと、どこかばつが悪そうに微笑みながら声をかけた。
「おこしちゃった? まだ寝てていいのに」
「………」
一瞬置いて夕べから今までのことを一気に思い起こし、SYOUはただ、ああ、うん、……と間抜けな声を出した。
「寝顔が綺麗で見とれてたの。口をきくと、また未練が生まれそうだから、黙っていこうと思ってた」
「私物とか、整理は済んだの?」SYOUは寝起きのかすれ声で尋ねた。
「ああ、結局服だけ持っていくことにしたわ。あとのものは適当に処分しといてね。あ、それから」
詩織は左手でSYOUを指さすと、右手の人差し指で自分の耳をとんとんしてみせた。
「お別れにもらっといたわ」
「何を?」
「慰謝料替わり。本当は別れたくなかったのよ、わかるでしょ。でも未練は残さないでおいてあげる。いただいたものは、恋愛不感症のあなたへの罰」
SYOUははっと自分の耳に手をやった。
……ピアス!
「おい!」
思わず大声が出ていた。
「おお、怖い。お隣の人が起きちゃうわよ」
「……ふざけるな。返せよ!」
久しく出したことのない低い声だった。語尾が震えているのが自分でもわかる。
「たかがダイヤのピアスでしょ。一年分の慰謝料と思えば安いものじゃない」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題なの」
「あれはただのピアスじゃないんだ。金に代えられない唯一無二の思い出の品なんだ。マジで冗談じゃすまない。とにかく返してくれ」
「よっぽど大事な女からもらったのね。じゃあ名前言ってくれたら返すわ」
「交換条件どころじゃない、ほんとに返せ。返してくれ、頼むから。女なんかじゃないんだ、あれは俺の……」
「あなたの、なに?」
「……蓋なんだよ」
「なによ、それ。蓋がなくなると何が出て来るの、その中から」
「詩織!」
SYOUの怒鳴り声に、詩織はつんと顎を上げた。
「そんな大声で脅したって返してあげない。何よ、昨日は天上の恋人みたいに扱ってくれたのに、たかがピアスで気がふれたような顔しちゃって。そうね、また会ってくれたら、その時は考えてあげるわ。でも、それ以上脅しつけるなら捨てちゃうからね。いつでも電話ちょうだい。じゃ、さよなら」
SYOUはベッドサイドのガウンを乱暴に羽織ると、背を向けた詩織の手を乱暴に掴み、そのまま後ろに引き倒した。詩織は仰向けにベッドに倒れて、悲鳴を上げた。その耳に、ピアスはなかった。
「ピアスはどこだ!」
狂気のような表情のSYOUに長い髪をわしづかみにされたまま、詩織はもがいた。
「痛い痛い、手を離して!人を呼ぶわよ!」
「言わないでこの部屋から出られると思ってるのか。ふざけるな。言え!」
男の豹変に、詩織の目も座り、冷たい光と涙をみなぎらせて怒鳴り返した。
「SYOUのバカ! 大っ嫌い。何よ、結局わたしなんてあなたにとってはピアス以下のゴミ屑なんじゃない。いつも思ってた、あなたの目はきれいだけど底なしに冷たい、生粋の人でなしの目だわ。わたしがよく知ってるヤクザの目よ。
知らんふりして言わないであげたのに、あなたの秘密。わたし知ってるのよ、名前を変えて隠してるあなたの過去。言ってあげましょうか。
SYOU、本名、柚木晶太。
たった十四で、母親と共謀して実の父親を殺した……」
「黙れ!」
ふわりと全身が熱に包まれ、すべてが現実感を失った。