軌跡
「最後に、もうひとつ答えてくれ。車の中で僕があんたに尋ねたことだ。
探偵……
楠さんを殺したのは、結局、誰なんだ」
雨の飛沫もほぼ収まった運河の水面は、まるで墨を流したようだった。澪子は、ああ、と気づいたように答えた。
「大事なことが残っていたわね。
今なら受け止められるでしょう。
陽善功とここの場所に関することに首を突っ込んでくる手合いならば、誰であれどんなものであれ、排除してくれと頼んできたのは、
あの子、黄月鈴よ」
一瞬体が凍りつき、そしてその凍結した部分をやはり、という印象がじわじわと溶かしていくのを、SYOUは感じた。
「……そうか」
それだけいって、唇を噛む。
「探偵さんにはお気の毒だったわね。
でも、あの子の正体と居場所が外に判明したら、どんな運命が待っているかはもうあなたにもわかったでしょう。すべてはあの子が決め、決断したことなのよ。実行したのがわたしの配下であってもね。 あなたには手を出してほしくなかったわ」
人体標本。生きたまま黒こげにされた遺体。性的虐待の末に殺された妊婦。
次々と脳裏に展開される画像に、リンが加わる。
SYOUは浅はかな自分が手を伸ばした先に訪れたかもしれないその現実に、がっとシャッターを下ろして、短く言った。
「わかった」
澪子はゆっくり立ち上がると腕時計を見て、呟くように言った。
「時間だわ」
その時ちょうど、澪子の手鞄の中で携帯が鳴った。澪子は耳にあてると、ただひとこと言った。
「ええ、いいわよ。来て」
形にならない戦慄が、背骨を駆け上がった。
澪子は背後のSYOUを振り返ると、言った。
「これで満足した?」
「……ああ、十分だ」
「じゃあ行きましょうか、先に立って歩いてね」
SYOUの頭の中で、残り少なかった砂時計の砂が、ちりちりと音を立てて最後の粒を落とした。
もう、知りたいことはない。
いや、できれば、もう一度顔が見たい。ひりつくように、見たい。リン。いまどうしているのだろう。何を考えているのだろう。
いざとなったらこの女も道連れに、そう思った自分が前を歩かされている。だが、知恵をめぐらせてサバイバルする、という意志そのものが、このひと時で失われてしまっていた。自分の中枢にあった熱い衝動が、今化学反応によって別のものに姿を変え、この雨上がりの広い公園に溶け出してしまったようだ。あの煙突の先で炎を上げているのは、ただの燃料となって火をつけられた自分の魂かもしれない。そんなことを考えながらふと斜め後ろに滑らせた視線の先で、澪子がバッグから小型の拳銃を取り出すのが見える。
あんなものを持っていながら、むしろここまできちんと付き合ってくれたことに感謝するべきなのかもしれない。よくあそこまで喋ってくれたものだ。
駐車場の車が見える。あの車の中で恐怖を欲望に代えてさんざん放出したおかげか、妙にからだの芯の冷えている自分がいた。そうしてSYOUは自分に語りかけつづけた。これでいいのか。何が起こるとしても、これで終わるとしても、ほんとうに自分は、これでいいのか。
「乗って」
車の前まで来ると、澪子は銃口でドアを指さした。そして、顎をしゃくって言った。
「運転席に座ってシートベルトを締めて」
言われたとおり、素直にシートベルトを締める。澪子は身を乗り出してグローブボックスから青灰色のマフラーを出すと、SYOUの鼻のあたりまでぐるぐると顔を覆った。息がふさがれ、自分の吐いた熱い息が鼻から入ってくる。ああ車ごと沈めるつもりか、とぼんやりと思う。
車の走行音が近づき、こちらにライトを向けて、離れた場所で止まった。
ばん、と開閉音がして、複数の人影がこちらに近づいてくる。
澪子は開いたドアから車内へ身を乗り出すようにすると、わずかに窓を開け、銃口をこちらに向けて、淡々と語りかけてきた。
「今更抵抗しないわよね。そこでおとなしくしていて。いい? あとあなたにできることは、視界に映るすべてをただ見ることよ」
「……」
SYOUは黙って頷いた。
澪子はドアを勢いよく閉めた。SYOUはスカーフに沁みついた、澪子の粉っぽい甘い体臭の中で呼吸しながら、暗いスモークガラスの外を凝視した。
近づいてくる二つの人影。
ひとつは背が高く、やせ形。
そしてもうひとつは……
ほっそりしたなよやかな体に、長い髪が揺れているのが見えた。
SYOUはのどのあたりで声を詰まらせ、目を見張った。
「遅くなってしまって」
聞きなれた細い声が、窓の上のわずかな空間から流れ込んできた。
「いえ、大丈夫」澪子が答える。
「それで、いまはトランクに?」
「あの薬ならあと三、四時間は効果が続くわ。そうよね、ヤオ」
「仮死状態はだいたいひと晩は続きます。が、運ぶのは早いほうがいい」
トランク?
SYOUはマフラーの中で呼吸を速めながら、スモークガラスの外の三人を食い入るように見た。ヤオが懐中電灯をつける。その灯りに、隣りに立つ少女の顔がぼんやりと見える。
……リン。
相変らず長い髪を後ろに流したまま、黒っぽいレインコートに身を包んで、襟を立てている。白い横顔が、薄明かりにぼんやりと咲いている。すっと通った細い鼻筋、ささやかな花のような唇。
きみはそこにいる、生きている。ぼくもここにいる、生きている。
そう胸の中で懸命に呼びかけながら、ただ眼を一杯に見開いて、SYOUはこちらに背中を向けた細いシルエットを追った。心臓が飛び上がるように、体を揺らすように打ち続けた。
三人は車体の後ろに回った。トランクが開く音がして、蓋の陰に三人の姿が隠れる。SYOUは背もたれに隠れるようにして、それでも精一杯後ろを見た。やがてトランクが閉まり、ゴルフバッグのようなものを背の高いシルエットが抱え出し、そして車の横に回った。
形はゴルフバッグだが、中身がゴルフクラブでないのは、そのしなり具合を見れば一目瞭然だった。 ヤオは跪くようにすると、そっとバッグのチャックを開けた。リンが脇から覗き込む。そして短く、ああ、と感嘆するような声を上げ、そこから揺れ出てきた細い体を抱いた。
少女?
暗さでよく見えないが、みたところ十二・三ぐらいの。
ヤオが顔を照らす。目を閉じた幼い可憐な顔が目に入る。
リンが小声で名前を呼んだ。中国名だった。
顔に顔を寄せ、何か中国語で囁きながら、リンは愛しげに少女を抱きしめた。
「もういいでしょう。運びましょう」
ヤオの冷静な声が聞こえる。
リンは少女の頬にキスすると、再びゴルフバッグのチャックを閉めた。
「ほんとに少しずつしか移せないのよ、これで最後にするわ。いいかげん土光の爺さんからも動向が妙とかでマークされてるからね。この子は一番の売れっ子だったから、病死を装うのも大変だったのよ」
澪子の声だった。
「いいんです、少しでも。支援してくださる人のところもいま、受け入れが大変なんですから」リンが鈴のような声で答えている。
「あなたにはいろいろと感謝してるわ。今までありがとうございました」
「この先の道はあなたが一人で歩くのよ。それでいいのね」
「ええ。もう、覚悟はできていますから」
「いまいうのはおかしいけれど」
澪子はリンの頬に手を伸ばした。
「あなたはよくやったわ」
リンは上を向いて、澪子の顔を見た。
そこでキスしろ。
SYOUは衝動的に、あるいは本能的に、澪子に呼びかけた。
あんたの体から、伝えてくれ。
その声が届いたかのように、澪子は、小柄なリンの上に身をかがめた。そして両頬を手で挿むと、ゆっくりとその唇に自分の唇を重ねた。
リン。
胸にあふれる愛しさに、痛みに近い疼きを覚えながら、SYOUは呼びかけた。
きみはいま僕と、間接キスをしているんだぞ。
きみはわからないことだろう。だが、僕は嬉しい。あの女に、今あらためて心から感謝しよう。
僕らはついにお互い体を重ねることはなかった。それでもずっと、これからも、永遠に、僕らの軌跡は重なっていくんだ。
……永遠に。