ありがとう
「じゃあ、約束を果たしましょうか」
公園内の東屋から眺める運河には、対岸の工場群の灯りが帯となって映りこんでいた。
車内の熱気から逃れてこうして雨交じりの風を身に受けると、ひと時の狂気じみた欲情も、対岸の夜景と同様、なにか夢の向こうの風景のように思えてくる。
「果たす気があったんだ」
幾分気の抜けた声でSYOUは言った。視界の端を、羽田空港から飛び立つ航空機の灯りが横切ってゆく。
「こう見えても約束は破らないほうなのよ。あなたも久しぶりだったでしょう、あんなふうに我を忘れる時間は」
「時間というより、瞬間だな」
あはは、と軽やかに笑って、澪子はこともなげに付け足した。
「あなたは素敵だったわ、あの子と同じぐらい」
「……あの子?」
「会いたいんでしょう? だからこんな無茶をしているのよね」
驟雨も峠を越え、雨粒に叩かれる運河の漆黒のさざめきからは、しゃあしゃあというような軽やかな音が聞こえている。
「自分でもはっきりしたわ。わたしは物語の中でしか感じられない。わたしにとってお気に入りのストーリーの中でしか、ね。皮膚感覚なんて蚊に刺されたときの掻痒感の先にあるとるに足らないものだもの。あなたの選んだ悲劇に敬意を表しましょう。さあ、聞きたいことを言ってちょうだい」
ゆったりとこちらを見る、自称神、のナメクジ女に向かい、SYOUは口を開いた。
「あの子、は、リンのこと、ととっていいのか」
「ええ」
「彼女の客になった?」
「ええ、何度かね」
そこで言葉を切ると、澪子は夢見るような瞳を遠くに投げた。
「あの子は素敵だった。膨大な悲劇と死者の陰惨な祈りを背負って、白い体に鈴をつけてわたしの前に立った。あの真っ白な体、毎日毎日讃美歌を呑みこんで、敬虔さの一つもない体。あの子自身が麻薬のようだった。わたしのするひとつひとつに感じて声を上げ、何もかもを体深くに受け入れて、素直に涙を流し、素直に地上と天上を行き来したわ、わたしと一緒に。あなたは背中を撫でてあげた? あの白い、なめらかな肌」
「……」
黙って頷きながら、車中では一切思い出さないようにしていたリンの、あの陸にあがった人魚のような肢体を思い出し、SYOUはふいにわきあがる疼きに無言で抗った。
「愛しいと思ったでしょ」
「あんたはどうなんだ」
「もちろん、思ったわ。誰もがそう思うでしょう。あの子は生まれつき、そうなのよ。底なしの欲望と、開きたての花のような美しさ。誰にでも天国を見せられる娘。たくさんの男たちに愛され、女には多分疎まれ、ひとを幸福にはするけど、自分はけして幸福にはなれない。ある種の人間にとって、理想よね」
脳裏に母親のほのかの面影が過るのを、SYOUは止めようもなかった。どうして、彼女はこう重なるのだろう。自分の人生の大事なキーワードとなる存在と。
夭折した母親と、そして美しい猫。
「僕と会えないようにしたのは、あんたなのか。あの場を取り仕切っているのは結局のところ誰なんだ」
「会わないと決めたのは彼女の意思よ。わたしはあの子を幸せにしたいとただそう思っただけ。だから彼女の側につくことに決めたの」
「幸せにしたい?」
「そう思うでしょう? あの体を抱いたら誰だってそう思うわ」
「彼女の側につくことに決めた、のか」
「ええ。頼まれれば、あなたの幸せの為になんでもかなえてあげると言ったわ」
……幸せ。
なにが幸せかを知るために、どうしてもしなければならない質問がひとつ、厳然と横たわっていた。
「なんでも答えると、あんたは言った」
「ええ」
「じゃあ改めて聞いていいか。彼女の本名は」
澪子は視線をSYOUの瞳孔に定めると、横に長い唇をゆっくりと動かして、丁寧に発音した。
「黄 月鈴」
教会の鐘の音を聞くような気持ちで、SYOUはその名を聞いた。
気のせいでも間違いでもない、鐘男によって打ち鳴らされる、決定的なひとつの音。始まりを告げる音、あるいは、終わりを告げる音。
わかっていたはずなのに、名前を聞いた途端何かが胸にあふれた。SYOUは胸のつぶれるような衝撃が自分自身と一体になるひとときを、ほんの数秒目を閉じて受け止め、やがて目を開いて言った。
「……ありがとう」
SYOUの閉じられた横顔にしばらく口を閉じていた澪子は、静かな口調で言った。
「もしあなたがあの子と何もしていないとすると、わたしの犯した罪は相当深いわね」
「罪なんてないだろう、あんたは神様なんだから」
SYOUは薄くにじんだ涙を隠すように、横を向いて続けた。
「現人神とFUCKできた果報者なんて僕ぐらいだ」
澪子は吐息のような笑いを漏らすと、今度は真顔になった。
「さあハニーボーイ、あなたにはあまり時間がないわ、言うべきことは言っておくわね。
大した善人と吐き捨てられたけど、わたしはどう転んでも善人にはなれない身よ。あの宗教、霊燦会は、たまたま陽善功と薄いつながりがあったことで、海外逃亡する財力と守るべき大家族のいる難民信者を餌にしているだけ。国際的人身売買シンジケートが最高値で取引するような極上の少女が大量流出するいい機会だからね。そこをうまく取り込んで、権力者への献上品を大量に仕入れた、それも使い物にならなくなれば日替わりで」
「……あそこに黄大千の娘がいると言うのはどれぐらいの人間に知れ渡っているんだ」
「霊燦会のボスとボディガードの秀云と、あなたとわたし。あとは知らないけれど、まったくいないと言えるかどうかはわからない」
「中国当局にばれたらどうなる」
「もちろん引き渡しを要求されるでしょう、それも強硬に」
「犯罪者でなくても?」
「日本はもともと中国とは犯罪人引渡条約を結んでいないから、犯罪者であるなしは大して問題じゃないわ。でもあちらにとって一番重要な事実は、彼女が陽善功の後継者とされていること、一部の信者にとって崇拝の対象になっていること、陽善功復活のカギとなること。それと」
澪子はSYOUのひとみに視線を止めた。
「日本の法律においても、彼女は犯罪者ではないとはもう言えない」
「どんな法律を犯したんだ? 国内での話か? 売春なら……」
「たぶん、殺人」
絵空事のような台詞は、最初の印象ではSYOUにはまるで映画か、あるいは何かのたとえにしか思えなかった。
「あるいはその幇助」
「誰を殺した?」
「よく質問する気になるわね。ウソだ、と叫んで首でも絞めに来るかと思ったのに」
「誰を殺したんだ」
澪子はかすかな憐憫を浮かべた表情で、紅潮したSYOUの顔を見た。
「たぶん、あなたがいままでに見た一番凄惨な遺体を作り出すのに尽力した医者と、それを見せものにするのに加担した技術者よ」
「……」
「あの二人が来日する予定があると聞いて、わたしに頼んできたの。
願いを聞いてくれるなら、ここに来るように仕向けてほしい、そして何が起ころうと黙認してほしいと。
あの子なりに、自分と自分の父を守るために、その教義を守るために命を落とした膨大な数の人々の死を背負って、思うところはあったんでしょう。
わたしは二人をあそこにご招待したわ。そのあと、何が起きたかについては関知してない。
該当の二人は行方不明になって終わり。中国当局にとっては政治の暗部を背負った人間の話だし、日本にとっては大して興味のない行方不明。それでうやむやになったわけ」
一気に入ってきた情報を懸命に整理しながら、動かせない現実を一つ、SYOUは口にした。
「リンは、つまり、もう、……あそこからは出られないと」
「あそこ以外にいられる場所もないでしょう。カルト教の教祖の娘として、次期教祖候補として追われる身なのに加えて、行方不明事件の仕掛け人が彼女とばれれば、もちろんさらにただじゃすまないわ。
身分がばれて居所がばれて、友愛政策の名のもとに密かにあの国に引き渡されたら、陽善功信者が味わった地獄があの子の身に降りかかる。それは誰にももう止められない。あなたにも、わたしにも、国家にも」
「……」
DEAD ENDという単語がSYOUの頭に浮かんだ。
完全な行き止まり。鉄壁のような絶望。
彼女が何かしでかそうというのなら、せめてその前に止めるという希望も潰えた。彼女の身の安全を確保したいという望みも、圧倒的な現実の前には霧のようなものだ。高い岩に囲まれて見通しのきかない地の底を意識だけでひと巡りして、SYOUは尋ねた。
「もう一度聞くけど、……連中に手を下したのは、どこかからの命令じゃなく、ほんとうに彼女の、彼女だけの意志なのか」
「彼女と、そして……」澪子はそこで言葉を止めた。
「霊燦会としてはあの場が金儲けと権力者とのつながりに役立てばいいだけで、そんな物騒な復讐劇に手を貸して得になることなんてひとつもないわ。ただ、実行犯にこだわるなら、それはまた別の話かもしれない」
「……ヤオ・シャン?」
「確認できないことは、今は言葉にするのをやめておくわ」
SYOUは質問を変えた。
「あんたは最初から、彼女があの教祖の娘だと知っていたのか」
「わたしはそういうポジションにいるからね。表向きは霊燦会の裏仕事担当者の妹と言われてるけど、正直、兄なんていないわけよ。
あそこのことなら、秀云、自称ヤオ・シャンとわたしが実質取り仕切ってる。
ヤオは、教祖が行方不明になってから彼女をあちこちに隠して逃がそうとしたのよ。それこそ台湾の、黄家の遠縁に一時預かってもらってまでね。
でも結局当局につかまって酷い拷問の末、男性機能を器官ごと奪われた、それでも口を割らなかった。愛情と根性と信仰心のどれが突出していたかはわたしにはわからない話よ。でも台湾にも当局の刺客の手は伸びた。そして、地下の信者たちと霊燦会の連係プレーで二人は香港から日本への脱出に成功したの。
それから、彼は会が提供した一番安全な場所であるあのハニー・ガーデンの番人になったの。あの子が大きな目隠しをされ、耳を栓でふさがれて会話を禁じられていたのも、訪れる客が彼女の身元を判別できないようにするための防御でもあったのよ。ほとんど写真が残っていないからこの国であの子の顔を知る者はまずいないけれど、そうでなくても、声を聞かず、幅の広い目隠しで顔を覆われていたら、初対面の相手を判別はできないわ。連中が見るのはただ、あの眩しい体」
誰も聞いてはならないはずの真実が次々明かされる時間の中で、SYOUは聞き終わった時の自分の運命を静かに飲み込んでいった。耳元でさらさらと、砂時計の音がしていた。無意識にそっと、耳たぶの青いピアスに触れた。
「……つまり、そうしてあそこにいる間、弾圧にかかわった連中が引っ掛かって来るのを、彼女は網を張って待っていたと」
「あの子はあなたに会いに来たのよ」
きっぱりとした口調に、SYOUは伏せていた視線を上げた。
「あの子の主な頼みはふたつ。自分が頼んだ男たちを送り込んでほしいということと、あとは、ひと目でもいい、あなたに会いたいということ。
あの子は言ってたわ。故郷ではただ、自分は普通の娘で、日本の一人のスターに夢中になっていた。彼の姿を追えればそれで満足だった、宗教になんて興味がなかった、あなたを見ている時間だけが幸せだったって。
夢を売る仕事って、罪作りよね」
「……」
「あの子にとって黄大千はただのいい父親だった。肩車でお祭りに行き、サンザシの飴がけを買い、一緒においしい餃子を作った。あのときに帰りたいと、そればかり言ってたわ。たとえ父親が偉大な宗教家になって、野歩きで拾った時から自分にはこの子の特異な魂が見えていた、真理と交信できる澄んだ存在だと周囲に言いだそうともね。
行方を晦ます前、日本に行って大恩のある霊燦会のために尽くせと愛する父親に言われ、日本に行けばあなたと会えるチャンスもあるとその夢に賭け、それだけの為に彼女はここに来たのよ。
会えてよかったじゃない。あの子にとって最後の幸せを、あなたは与えたのかもしれないわ」
……わたしは、あなたを思うことだけで、生きてきた。
わたしの人生にはほかになにもない。あの日あなたに会ったあと、涙が止まらなくて困った。生きてきていちばん、嬉しかった。
今日のこの瞬間を思うだけで、あとの人生を生きられる。
SYOU、可哀想。
……そばにいたかった。ひとりぼっちのあなたの、そばにいたかった。
SYOUの脳裏に、降るようにぱらぱらと、記憶の中の彼女の言葉が落ちてきた。
……その境遇でどうしてこの身を可哀想だと言い、自分のために涙など流せたのだろう。
こんな自分のためになど。
焦燥や怒り、驚愕のこちらがわ、まるで凪のような悲しみの中に、いまSYOUはぽつりと立っていた。
雨はもう上がろうとしていた。