三つの行方不明
眼前に広がる総硝子の向こうの広い庭にはパームツリーが五月の風に揺れ、花盛りのカルミアの枝で、紅色の鳥がよく響く声でさえずり続けている。
あの鳥の名はカーディナルでいいんだっけ、とどうでもいいことを考えながら、奈津子は早口で聞き返していた。
「すみません、お尋ねの件は本当にSYOU、つまり柚木晶太ということでいいんですか」
『ええ、晶太さんで間違いありません。事件のあった先週の金曜日、どこにいたか、あるいはどこに行く予定だったかご存知ではないですか』
本当に日本の警察からの電話だということは、番号の末尾が××××110で終わっていることで確認できていた。奈津子は片手で携帯をいじり、通話とメールの履歴を確かめながら答えた。
「わたしが日本に行ったとき、電話で一度コンタクトをとったきりなんです。それがもう四週間近くも前ですし、事件が起きたときはわたしは日本を離れていました。お役にたてるような情報は何も……」
『差支えなければ会話の内容をお聞かせ願えませんか』
慇懃無礼な男の口調に、奈津子は心中むっとしながら答えた。
「本当に個人的な話です、なくしたアクセサリーに関する類の。あと彼女がしつこいとか、ほんとうに取るに足らない内輪話ですから」
『会話そのものはどのぐらいの長さでした』
「ものの五分ぐらいです。わたしは外で外食中でしたし興味のない話題でしたから、適当に相槌を打って早々に切りました。スケジュールや行動予定については一切聞いていません」
『そういうことをよく話す相手に、心当たりは』
「ありません。ふだんは太平洋を隔てている間柄ですし、何か特別なことがあった時以外、めったに連絡はとらないんです」
『そうですか、わかりました。もしまた何か連絡があったらお伝えいただけるとありがたいです』
「あの、探偵さんは現時点では殺されたということになっているんですか。晶太は被疑者という立場で……」
『いえいえ、あくまで探偵さんの動向を知る参考人のおひとりというレベルです。捜査の内容は明らかにはできませんが、事件性は薄いと思われますので、そうご心配なさらないでください』
「あの子が行方不明だという件に関して、捜索願いとかは事務所から出されているんでしょうか」
『まだそちらは受理されておりません。ですからこの件についてはなにぶんにもご内密にお願いします』
「……わかりました」
電話を切ると同時に、昼シャワーを浴び終わった正臣がガウン姿で居間に入ってきた。
短く刈った頭をぐしゃぐしゃと拭きながら、ビールの買い置きまだあったっけ、と言いかけて奈津子の顔色に気づき、いったん口を閉じる。
「……どうかした?」
「晶太が行方不明なの」
真顔になって腰を下ろした正臣の正面に、冷蔵庫から出したバドワイザーを置き、奈津子は手短かに警察から聞いた話の一部始終を告げた。膝の上に置いた両手の指を組み合わせ、いつもの癖で親指同士をぐるぐるとまわしながら正臣は黙って聞いていた。
「……つまり、六本木の落下事件に関して、死んだ探偵の客として晶太君の名が挙がっていて、しかも行方不明だと、そういう話か」
「ええ」
「公園のカフェでの電話があったきり、きみは彼からの連絡は受けてないんだよね」
「いえ、厳密に言えばメールはあったわ。ピアスが見つかったときの」
「ああ、そういえば。あれいつだっけ」
「日本を離れる直前よ、だいたい二十日前。ただ、心配かけて御免、出てきたから。と、それだけ。よかったわね、どこから出てきたの、と送ったんだけど返事はなかったわ」
「……」
正臣は若干視線を落として口を閉じると、黙ってビールの泡を見つめ、何か決心したように顔を上げて語りだした。
「実は今まで話してはいなかったけど、その件についてはぼくも別口から相談を受けていたんだ」
「ええ?」
「こうなったら話しやすい。ただ、すべてはここだけの話にしてくれ」
「わかったわ」
奈津子は背筋を伸ばして呼吸を整え、夫の目に見入った。
「このあいだ日本にいったとき、ぼく刑事時代の同僚と飲んだろう。今捜査一課にいる奴で櫻田っていうんだけど、あのとき、日本の警察が手を出すケースではないと棚上げにされてる事件がいくつかあって、どうにも腹の座りが悪いと、そんな愚痴を聞かされたんだ。
まずは中国からの観光客が二人、四月から日本国内で行方不明になっていると言う話だった」
「中国の?」
「医者と、ある種の技術者。個人的な事情でみずから行方を絶つ外国人は珍しくないから、まあその口かと思われてたんだけど、どうも背景がきな臭いと」
「きな臭いって、どんないなくなり方なの」
「ホテルの部屋に荷物を残して、ある日突然失踪する。携帯もそのままでね。事件性があるかどうかはわからないが、二人とも中国政府にある件で重用されていた人物だ」
「外国人の失踪自体、あまりニュースにならないわよね」
「名前を聞いて分かったことだが、……実はその二人のことは、ぼくはまったく知らないわけでもない」
奈津子はそっと身を乗り出した。
「……個人的な知り合い?」
「いや、NPOの仕事のほうで知った。こっちは子どもの人権保護に関する仕事が中心だけど、そのつながりで中国から亡命してきた孤児の世話もしてるだろ。最近増えてるのが、弾圧されてる某宗教団体の流れの子だ。その調査の延長上で、彼らの名前を聞いたことがある」
「その宗教って……」
「陽善功。聞いたことぐらいはあるだろう」
「……ええ」
切れ切れな知識として頭にある、残虐な弾圧の印象に、奈津子は眉間を歪ませた。
「で、まあ例の二人は、いわばナチスの残酷な手下として名を轟かした誰それという、そういう位置付けだ」
「つまり、陽善功の信者弾圧にかかわった二人……」
「弾圧というか、まあ、……いっていいのか」
躊躇したのち、正臣は口を開いた。
「医者は製薬会社とつながって人体実験をおもに繰り返していた。技術者は人体標本制作のプロだ」
「え?」
「そういうプロジェクトがあるんだよ。どこからも文句の出ない遺体を用いて標本をつくる、そして世界中を巡る見世物の旅に出す」
「……」
言葉を失った奈津子を見て、正臣は慌てた様子で話題を変えた。
「ごめん、ここらへんは気分の悪い話なんで飛ばすよ。で、それからこれだ、先週の六本木の落下事件」
「……あれについても相談を受けてたの?」
「捜査が途中でうやむやになって、検死もそこそこに自殺扱いになるらしいと。何かで横やりが入ったらしい。で、墜落死した探偵が依頼されていた件が、どうも陽善功関係だというんだ」
「……」
「探偵の事務所と家が荒らされ、パソコンのデータは消されていた。だが助手が、手元にあった資料を届け出たらしい。その中に、陽善功関係のもの……教祖とその家族の写真等があったというんだな」
「それじゃ自殺じゃないじゃない、立派な事件よね。それでどうして自殺扱いになるの」
「日本はあの国とはとにかく友好関係を保つと決めてるから、世界が目を向けようがアムネスティが騒ごうが、当局がないことにしようとしている宗教弾圧については一切アンタッチャブルなんだよ。助手が提出した資料も、今は行方がわからないというんだ」
「じゃあ、こういうこと?
つまり、中国のカルト宗教団体関係の調査を、あの子が依頼して、そして、その件がらみで私立探偵さんが死んだ。そして、宗教弾圧にかかわった中国人二人と同様、晶太の行方が分からない……」
「言っておくけど、これは日本の管轄の警視庁の内部で隠密に行われている捜査だし、あくまでここだけの話にしてくれ。前の二件と晶太君の行方不明が、同じ系列の事件かどうかも確かなことじゃない」
「……それはわかってるわ」
吐き気のようにしてせり上がる不安の中で、奈津子はホテルでの伊藤詩織との会話を思い起こしていた。
晶太の部屋に荷物を取りにいったとき、彼女が記念にと晶太から強引に奪ったピアス。逆上した彼が錯乱状態になって暴力をふるい、そのままピアスは行方不明。そして、晶太は彼女にけがをさせた件のペナルティを負う形になった。
後悔の念にさいなまれる彼女は、フェイクにしてでもピアスを彼に返したいと願い、自分はそれを止めた。晶太は別れた彼女が自分と連絡を取ったことに触れ、二度と彼女にかかわらないでくれと釘を刺し、了承した。それが最後の電話だ。そして、現物はどういう経緯を辿ってか、彼の手元に戻ったという。 そして今、晶太が消えた。
何を思い出しても、どこにも、宗教弾圧との接点はない。
当の彼女、伊藤詩織に聞けば、もしかして最近の動向がわかるだろうか。だが、彼女と接すること自体、晶太に固く禁じられている。少なくともコンタクトをとらないことを、自分は彼と約束したのだ。 切羽詰まった気持ちで、奈津子は尋ねた。
「あなたの直感で答えて。晶太は今、どれぐらい危険だと思う」
「難しい質問だな」
正臣は視線を落として日焼けした額を撫でた。日々接する子どもたちと、カリフォルニアの陽光にやわらげられてはいるが、刑事時代の眼光が目尻の上がった細い目の奥に幾分残っている。
「彼が何を求めて探偵に近づいたか、陽善功とどれだけ関係を持っていたかによるだろう。それと、失踪が自分の意思か否か。
気になるのは伊藤詩織嬢の父親だ。晶太君の弱みを握った形になっているが、彼は権田組の会長だろう。あそこは霊燦会と裏で結託しているという噂がある。
霊燦会は教祖が中国系で、ざっくりいって陽善功寄りなんだ。詳しいことは言えないが」
「……」
「どちらにしろ、安否を隠ぺいしても誰も騒がない中国人と違って、有名人である彼の失踪はいずれ明るみに出るし、社会に影響を与えることになる。黙っていてもメディアとファンと一般人の目が彼を懸命に探し始めるだろう。簡単に消せる存在じゃない。そこに期待するしかないな」
もう八年も前になる、孤独な十四のあの子を預かっていたとき、先の見えない不安に胸を震わせた夜が何度あったことだろう。でもそのどのときよりも今の闇が一番深いのは確かだ。
とにかく彼の耳に、今はあれがある。その光にすがるしかない。
奈津子は不意に立ち上がると、ちょっと、と言って正臣の前を横切った。
「どこに行くの」
「鞄にピアスが入れてあるの。久しぶりに身に着けようと思って」
「……」
正臣は太い眉を寄せ、何か不思議なものでも見るような視線を妻の背中に投げた。
横風交じりの雨が、夜の高級住宅街を斜めに切り裂いていた。
その一角にある、ほとんど窓のない、要塞を思わせるレンガ色の豪壮な家の鉄の門が音もなく左右に開き、街灯が庭木を通して映し出す影絵のダンスを車体に受けながら、オリエントブルーの大型車が広いアプローチから街路に滑り出す。
とそのとき、車体の前に人影が現れ、ヘッドライトの前で両手を広げた。
咄嗟にクラクションを鳴らしかけた運転手を遮って、「止めて」と低い声で助手席の女が叫んだ。急ブレーキに車体全体が揺れる。リズミカルな音を立てながらワイパーが左右にかき落とす雨粒の向こうに、びしょ濡れの青年がブルーホワイトのライトに照らし出されて仁王立ちしている。
前髪から鼻の先から睫毛から滴り落ちる水滴がきらきらと光る。サングラスに表情を隠してはいるものの、遠目にも長身と顔立ちの端正さはわかった。
「……」
水底に沈んだように揺れる顔を見やりながら、女は一瞬自分の表情に歓喜のかけらが浮かんでいるのを意識した。
青年は背をかがめてミラーを掴むと、運転手側の窓をこんこんと叩いた。
運転手が困惑した表情を女に向けた次の瞬間、いきなりドアが外から乱暴に開けられた。
「何だ貴様」
だみ声で叫ぶと同時に運転手は上着の内側に手を差し入れたが、目的のものを出すより早く青年の手は男の襟首をつかんでいた。いきなり飛び込んだパンチの洗礼を受けて体が後ろにのけぞる。シートベルトに固定された男の髪をつかむと、青年は二度目のパンチを顔面真正面から食らわせ、さらに眼にもとまらぬ速さで腹にとどめの一撃をめり込ませる。隣席の女が声を発する間もなく、運転手は低い呻き声を上げてそのまま首を垂れた。
青年は膝に鼻血を垂らす彼の前髪を持って顔を上げたのち、手を離して言った。
「これじゃ運転は無理だな。僕が代わりましょうか、澪子さん」
「……」
澪子は黙って青年の顔を見つめると、低い声で言った。
「こっちからじゃ手が届かないわ。そいつのシートベルトを外して、ハニーボーイ」