覚悟
詩織は目を泳がせるSYOUを見つめると、静かな口調で語りかけてきた。
「わたしはもうあなたと別れた身だから、個人的に何も求めようとは思わない。でも、あなたのためにできることがあれば、役に立ちたいと思ってる。わたしは父に連れられてクレー射撃にも通った身だし、その気になれば武器だって調達できる環境にいるわ。わたしを信用できる? それだけ答えて」
「……詩織」
「できる?」
SYOUは複雑な思いで詩織の真摯な視線を見かえした。
彼女はまるで自分にとって、神の、……いや、悪心の魔王の配材だ。
「きみは、なんというか、……今の俺にとって都合がよすぎるんだ。
自分でもそう思うだろ。
きみを味方につければそれは得るものは大きいだろう、けど何の見返りも差し出せない俺が、もらえるものにだけ手を差し出すのは下衆そのものだと思わないか」
「あなたが下衆なら、わたしこそはお似合い。それに味方につけると無茶苦茶鬱陶しいしね、それでおあいこ」笑いながら詩織は答えた。SYOUは表情を崩す余裕もなく、詩織の柔らかな表情に向かって言った。
「いいか。……よく考えてみてくれ。
きみは、自分以外の女に心を奪われてストーカーまがいのことをしている男に協力を申し出てるんだ。
頼まれたとおり、俺を止めてくれればいいんだ。俺は断る、きみにできることはない、それで終わりだ。何が起きたかを、目の前で見たろう。そうしてくれ」
「さっきの質問にちゃんと答えて。わたしは信用できる?」
「詩織……」
「できる?」
「それは、……できる」
「ありがと」
詩織はにっこりと笑った。それはもう、ほかに望むことがないというぐらい、満足そうに。SYOUの胸に、焦げ付くような痛みが広がった。
「もし警察が正常に機能しているなら、俺はじきに呼び出されるだろう。探偵の最後の依頼主として、何の調査を頼んだか、自殺なのか他殺なのかを丹念に調べあげようとしてくるだろう。もしも、この国が正気ならばね。でもそうじゃない可能性のほうが高い」
「……」
「もしかしたら俺はこの先、何らかの事情で自ら消息を絶つことになるかもしれない。そうであっても、きみは余計な心配をしないでくれ。やろうとしていることについて、詳しく説明できなくて悪いけど」
詩織は無表情のまま視線を上げて、ぽつりとつぶやいた。
「……ハニー・ガーデン」
聞いた瞬間、SYOUは息をのんだ。
「どこで、……その名を」
「死にものぐるいで探す気になれば、この程度の名前にはたどり着ける。わたしの会った子の名前がリンで、そこの接待側だったらしいということもね。さすがにフルネームや出自はわからないけど。
わたしは父の書斎にも、事務所にも出入りできる環境にいるのよ。澪子さんに意味深なことを言われてから、奥の手を総動員してできる限りの情報を手に入れたの。女の部分を使えば動くぐらいのシンパは事務所内にいるし。
あなたはハニーガーデンのお客だった。わたしへの暴力のペナルティとして澪子さんの飼い犬の男たちの餌にされ、少女買春クラブの顧客に登録された。そして彼女…… わたしの前でピアスを落とした中国人少女、リンについての調査を、探偵さんに依頼したんでしょ?」
決然とした詩織の視線に圧倒される思いで、SYOUは詩織を見つめた。もう、彼女相手に誤魔化しても仕方がない。言い訳も中途半端な否定も、SYOUは飛び越すことにした。
「……きみは、それで、彼女を……リンをどう思うんだ」
詩織は尖った視線をこちらに向けた。
「大っ嫌い。あなたのすべてをわたしから奪った。それ以前に、悪いけど、本能的に嫌い。全部が嫌い」
「その彼女と俺の為になるようなことでも、頼んでいいのか」
「もちろん、あなたが望むなら」
「……すごいな」
独り言のように、SYOUは言った。そして同時に、彼女を止めることは自分にはもうできないことを改めて確信した。
「じゃあまずは、ハニー・ガーデンの正体がどうとか客が誰それとか彼女の正体とか、それ以上嗅ぎまわるのはやめにしてくれ。あそこの後ろは巨大な闇につながってるんだ、それこそ人一人殺してでも口封じしなけりゃならないレベルのね。俺が今一番願ってるのは、もうこれ以上ひとりも犠牲者を出したくないということなんだ。きみの身の心配までしていたら、こっちは身が持たない。きみには何も望まない。俺のことを思うなら、祈っていてくれ」
子どものようにまっすぐな詩織のひとみを見ながら、SYOUの頭の中に、覚悟、という文字が墨痕淋漓と立ち上がっていた。もし書の心得があるなら、今の自分よりも彼女のほうが、よほど血の通った文字を書けるだろう。
「……とにかく、きみが権田組の組長の娘でよかった。きみの身の安全をそれほど心配しないで済む」
硬い表情が崩れて詩織はほんのりとした笑顔を見せた。
「あの親でよかったと言ってくれた人なんて、SYOUが初めて」
「いろんなことで、お前みたいなのは初めてだと言われ続けて二十二年だからね」
唇の両端を持ち上げながらも、目だけは笑わずに、詩織は言った。
「あなたと初めて会ったとき、思ったの。わたしは、生きたいと。
わたしは生きたい。生きているという実感を持って、生きたい。善悪の境がわからなくなるぐらい、この身を燃やして生きたいの。少しの時間でも、あなたとともに、あるいは、あなたのためにね。
腐った環境に生まれてきて、まわりに媚びる職業について、ずっと自分が自分になる瞬間を望んできた。自分の思いに、血に、嘘をつくような生き方はもうたくさん。
わたしが必要になる時が来たら、いつでも連絡して。力になるから」
机の上の自分の手を握る詩織の指の温かみを確かめながら、体の奥の種火が新たな勢いで点火されるのをSYOUは感じていた。
「……わかった」
ずっと、自分を恐れるあまり、自分を細分化して眺めてきた。そうできる術を手にしてきた。
例えば澪子が自分に仕掛けた仕打ち。あんなときにも、自分の魂は肉体を離れ、その憐れな肉塊を嗤いながら眺めるのだ。いい気味だ、これはあの男の体、あの男の血を引く肉。存分に悲鳴を上げるがいい、自分はここで見降ろすから。ざまあ見ろ。
そして、今。
時が来た。
自分が、恐れていた自分と一つになり、「殻を破って自分として生きたい」のその殻を、おそらく本当の意味で割る時が来た。多分、そうなのだ。自分は自分になる。そうしてただ一人の、本当の自分の声を聞く。リンがそうであるように、詩織がそうであるように、自分は自分の血の声を聞かなくてはならないのだ。それが、生きるということだから。
全身の血脈が温度を上げて、しゅうしゅうと音を立てているような気がした。
生きるなら、今。
その日、関岡プロの所有するこじんまりとしたビルの中では一日中、ばたばたというせわしない足音が響き、来客のほとんどを断ったままドアは固く閉じられていた。
「まだだめか」
デスクの横で、受話器を置いた哲夫にいらいらと社長が問いかけてきた。
「だめです。口止めできるほとんどのところにはかけました。誰のところにも連絡がいっていないそうです」
哲夫のテーブルの上の灰皿は、社長が吸っては消す煙草でこんもりとした山ができ、その中心はぶすぶすとくすぶり続けていた。
「例の場所に呼ばれているのかと思ったが、間接的に聞いてみてもにそんな予定も事実もないと言うし、まあ、本当かどうかはわからんが」
「事実ですよ、もうあそこには呼ばれない身になったというようなことをぼくに打ち明けていました。それに彼を監禁して得になることがあちらにあるとは思えません」
答えながら哲夫は、手元のお茶を小さなスモーキー・マウンテンにかけて消火した。山の真ん中でじゅう、という音がした。
「話が広がるのを恐れてる場合じゃないな。例のあの、書道家の叔母さんとやらにも連絡を」
「すでにアメリカに帰ってるんですよ。今の消息をたずねるにも海の向こうの人物では……」
社長はサングラスを外すと、寝不足で厚みを増した瞼をごしごしとこすった。
「携帯ドラマはすべて撮り終えているからいいが、取り敢えず明日の打ち上げには欠席の連絡を先にしておかないと、変な噂を流されるな。体調を崩したとでもなんとでも理由をつけて先に断っておけ」
「……はい」
六本木の探偵転落死事件で、参考人としてSYOUから事情が聴きたいと警察から連絡が入ってからひと晩。
どんなに手を尽くしても、SYOUの居場所がわからなくなっていた。携帯は繋がらず、自宅も留守。休暇中以外、いままでこんなことはなかった。
HIROを通して哲夫は、伊藤詩織の様子もそれとなく聞いてはみた。だが、接触を絶つという厳命がある以上、おおっぴらにSYOUの安否は尋ねられない。変わった様子もなく仕事をしている、という情報しか入って来ないのも、致し方のないことだった。これ以上騒ぎ立てて芸能関係者の間にこのことが漏れれば、人気スター突然の失踪劇として賑々しく取り上げられてしまう。
「とりあえず手を打たなきゃいけない仕事のほうは、映画の脚本家とのセッションか。これは本人がいなくともマネのお前と俺とで何とかなる。あとはそうだな、悪性のインフルエンザで寝付いてる、この線であと三日は押さえとけ」
「三日もほっといたら正直な話、SYOUの身が危険じゃないですか。それに警察がマスコミに発表してしまえば終わりですよ」
「いや、あの件は自殺という方向で一応カタがつくらしい。彼と連絡が取れない件については、逆にこちらが捜索願を出さない限り表沙汰にはならない」
「自殺? あの状況でですか?」
社長は赤ラークを取り出すと、またいらいらと銀のライターで火をつけた。
「ほぼ結論がでていることだから、SYOUはほんとに参考人程度だそうだ。だから現在真剣に困ってるのは正直あっちよりこっちだよ。一体何があったって言うんだ」
「……」
「SYOUが探偵に何か依頼していたってことを、お前は勘づいていなかったのか」
「知りませんでした。ピアスのことでいつまでも思い悩んでる節はありましたが、とにかくそれも戻ったんです」
「どういう件で相談を受けていたか、探偵の側からも一切の資料が出て来ないというんだ。こっちにもまったく見当がつかない話だ。何がどうなっているやら」
見当。
……陽善功については、何か聞いてる?
あの日出た単語が、ずっと哲夫の胸に引っかかり続けていた。おそらく、これが何かの鍵になっているのだろう。だが、この件については誰にも言わないほうがいい。根拠はないが、哲夫の本能がそう告げていた。
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