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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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You lose

 楠氏が指定したのは、モノトーンでまとめられた上品なベジタリアン料理のレストランの個室だった。

「いつも見てます、お仕事がんばってくださいね」

 個室に案内してくれた店員が、頬を染めながら小声で言った。いつもなら、どうも有難うと普通に笑顔を返すのに、今日は自分の顔が引きつるのがわかった。

 ひと目の多いところの方が安全だということでここにしたんだろうか。

 次に会うことがあるなら、やはり事務所とかあの部屋にしてもらおう。SYOUは心の中でそう決めた。こんな相談の時に、外に向けて芸能人顔をするのは自分には無理すぎる。

 三階の個室の窓から覗くポプラの街路樹が、陽光に葉をきらめかせながら、風にふらふらと枝を揺らしている。

 SYOUは腕時計を覗いた。午後二時。もう、到着して二十分は経っている。

 机の上に携帯を取り出した途端、低い音でバイブが震動した。

 メール着信。彼からだ。またアクシデントとやらで遅れているのか?

 画面を見る。そこには漢字一文字だけがあった。


「窓」


 ……まど?

 何かの送り違い?


 SYOUはふと窓の外に目をやった。とそのとき、何か黒い塊が窓の上からどっと真っ直線に落下してきた。

 固まりはポプラの木の中心に突入し、そして葉を跳ね上げて何本かの枝を折るとそのまま木の下に落下していった。

 店内から複数の悲鳴があがった。無意識にSYOUは立ち上がった。

 窓に駆け寄り、下を覗く。嵌め殺しなのであけられないが、歩道の上に血にまみれた男が倒れているのはわかった。黒い帽子が足元に落ちている。通行人が遠巻きに囲んでいる。


 再び携帯が震える。SYOUは汗ばんだ掌を開いて画面をもう一度見た。


 You lose.


 SYOUは携帯を閉じると頭上を見やり、しばらく棒立ちになって痺れた感覚の中にいた。そして痺れが消えるとぶるりと首を振り、鞄を掴み個室を出て、騒然とした店内を抜けて足早に出口へと急いだ。


 外はすでに野次馬でごった返していた。その背後から、サングラスとパーカーのフードで顔を隠しながら、SYOUは倒れている男を確認した。


 ……楠さん。


 粉々に割れた眼鏡、ひしゃげた顔の下でじわじわと広がる血だまり。砕けた歯が、手のあたりにふたつ飛んでいる。

 自分が調べ上げた、陽善功の信者の無残な遺体の画像が、目の前の光景に重なった。

 ただ衝撃が、ただ激痛が、塊となって胸を撃ち抜いた。

 自分のせいだ。取り返しがつかない。なんという光景だ、……取り返しがつかない。自分が仕事を失うのも、命を狙われるのも、事務所が打撃をこうむるのも予想していた。だが、これは。これは……


 その一方、後悔に締め付けられる胸の奥底では冷静な分析が始まっていた。彼の手近に鞄も資料もない。散らばっている紙片もない。見上げたポプラにも、何も引っかかっていない。彼を手にかけた誰かは、彼が自分に渡す予定だった情報を丸ごと持ち去ったのだ。

 そして顔のあざ。変色具合からして、今さっきついたものではない、ある程度時間がたっている。おそらくはどこかで拷問を受けたのちに……

 You lose.

 ……しくじったな。

 誰かの嘲笑が背後から聞こえてくるようだった。


 遠くからパトカーと救急車のけたたましいサイレンが近づいてきた。SYOUは心の中で楠氏に謝りながら、そっとその場を離れた。手を下した誰かは、まだビルの屋上か、あるいはごく近くにいるのかもしれない。たとえば、この人ごみのどこかにも……。

 急ぎ足でビルの角を曲がる。ひと気のない細い路地にはいる。パーカーのポケットの中の携帯が、また震える。初めて、恐怖というやつの原型をじかに手に握っているような戦慄に体中が凍えた。彼の携帯はすでに敵の手中なのだ。次は何のメッセージだ?

 決心して取り出そうとしたその時、いきなり背中に固いものが押し付けられた。

 一瞬すべての体の機能が止まり、脳髄が凍りつく。

 次の瞬間、ここはまだひと目のある屋外だ、と判断して、SYOUは飛び退いて距離を取ると、振り向きざまに相手の首筋のあたりを力いっぱい掴んだ。


 手の中にあったのは、オリーブグリーンのスカーフ。手首にサングラスが落ちてきた。一瞬遅れて、スカーフごと首を締め上げられた、若い女性の苦悶の表情が目に入った。


「……詩織!」


 低い声で叫ぶと、SYOUは茫然と手を離した。

 はらりとスカーフが胸に落ち、詩織は首を抑えると二、三度咳をした。

「……殺されるかと思った」

 黒のカットソーに細身の黒のパンツ、光沢のあるグレーのカーディガン姿の詩織はサングラスを拾うと紅潮した顔を上げた。肩のあたりで外にはねた茶色い髪が、ざんばらに顔にかかっている。

「なぜ、きみが、……ここに」

 左手で顔の前の髪を払うと、SYOUの背中に押し付けていた硬いもの……携帯をかざして見せ、次に詩織はSYOUのポケットを指さした。

「今の電話は、わたし。あなたを探してたの。そしたら、目の前に背中があったから……」

「きみが?」

「あなたの名前と店名と日時入りで、危険、とだけ付け足した知らない人からのメールが入ってて、あなたの今の携帯番号も添えてあったの。

それでとりあえずかけつけたら、……」

 詩織は人でごった返す表通りを振り向いた。

「あの人。……SYOUと関係があるの?」

 SYOUは口元に手をやって、黙り込んだ。詩織は大きな目でじっとこちらを見ている。

「SYOU、……大丈夫? 顔色がなんだか、紙みたいに真っ白」

 SYOUはあたりを見廻した。

「とりあえず、ここよりはましな場所へ移りたい。きみはどうやってここへ来た?」

「近くに車があるわ。場所なら心当たりがあるから移動しましょう」

 二人とも顔を隠すように俯いて、裏通りに路上駐車している車までを急ぎ足で歩いた。

 どちらもがすでに、それぞれの立場が切り離しようもなく絡み合っていることを確かめており、もはや会わない約束がどうのこうのと遠慮している事態ではないことを静かに呑みこんでいた。詩織が運転する車の走行音を聞きながら、自分が運ばれていく未来への茫漠とした不安に、目的地へ着くまでSYOUは口を開かなかった。

 到着したのは、詩織の友人のマンションだった。当人は長期の海外留学中で、たまに掃除をすることを条件に合鍵を受け取って自由に使わせてもらっているという。

「ここの場所はほとんど誰も知らないから大丈夫」パンプスを脱ぎながら詩織は言った。

 十階のだだっ広いその部屋は、大きな窓に向けて家具が配置されており、正面遠くに東京タワーが見えた。

 昨日あれを見たとき、……まだ彼は生きていたのだ。

 SYOUはブラインドを下ろしながら、まぶたに浮かんでくる彼の最後の姿を脳裏から振り払い、テーブルの上のリモコンでテレビをつけた。

 ちょっとは血の巡りがよくなるかもしれないわ、と言いながら詩織は泡盛仕込みの梅酒をビードロのコップに注ぎ、ひとつを自分の前、ひとつをSYOUの前に置いて差し向かいに座った。

 さまざまな修羅を重ねてきて、取り敢えず今また自分の眼前に彼女がこうして座っている。これも宿命かと、SYOUは重い心ではちみつ色の液体に口をつけた。透き通った梅酒は、死んだ男に申し訳がなくなるぐらい、とろりと甘く、美味かった。

「……きみに親切な伝言をしたやつに、心当たりはある?」

「たぶん……」

 詩織はそのまま口を閉じた。SYOUはくるりと上を向いた詩織の睫毛を眺めながら、己の鼻腔の中のかすかな血の匂いを反芻していた。

「……それで、落ちてきた人とは知り合いなの」

「今日あそこのレストランの個室で会う予定だった」

 詩織は茶色に澄んだ目を見張った。

「……俺もきみも、すでに安全じゃない。きみに関しては今まではそうじゃなかったけど、きみは俺をこの部屋に入れた。よく考えたら一緒に来るべきじゃなかったな」

「覚悟の上よ」

 あっさりと詩織は言ってのけた。そしてさらに、「むしろ、してやったり」と言って笑った。SYOUは初めて、もしかしたら惜しい女と別れたのかもしれないと本能で思った。

「澪子さん」

 唐突に出てきた名前に、SYOUの手の中の液体が揺れた。

「が、ね」

「……親しいの」

「一時は母親代わりみたいだったから。というより、姉代わりかな」

 そっちの想像力の欠落していたSYOUは、今更ながらに驚いていた。

 確かに、権田眞一郎の愛人なら、詩織との距離も近いはずではあった。

「あなたに、過去の女を追うのをやめさせろって、わたしに以前忠告してきたの」

「いつ」

「デレク・スタイルのパーティーで」

 自分が捨てた招待状、黒の地の真ん中にD・Sと印字されたカードが脳裏に浮かんだ。

 ……まさか、じゃあ。

 そこまでやるか、……あの女が。

 驚愕と怒りの両方が、一気にSYOUの胸に押し寄せた。

「あの人、こうも言ってた。自分は退屈なんだって。だから美しい男をいたぶったり、その男が今心を奪われてる女の話をわたしにしてみたり、その女を追うのをやめさせろとわたしに命令したりして、ひとの心をもて遊ぶのが楽しいそうよ」

「………」

 それはつまり、あのナメクジ女が、自分とリンのことをよく知ったうえで、縁を切れと間接的に自分に言っているということか。そもそも当初、あの花園に自分を招待したのは誰だったというのだろう?

 背後のテレビから定時のニュースのオープニングの音楽が流れていた。SYOUは振り向いて、リモコンで音声のボリュームを上げた。

 ……本日午後二時過ぎ、六本木の集合ビルの屋上から男性が路上に転落、全身を強く打って死亡しました。男性は個人事務所を開いて私立探偵をやっており、危険を伴う高額な仕事を主に引き受けていたということです。警察は事件の可能性も視野に入れて捜査を開始……

 眼鏡をかけた私立探偵の顔写真から、SYOUは顔をそむけた。楠さん、あなたは大丈夫ですか。自分がかけた言葉が、空しく蘇る。

「あなたが雇ったのね」画面を見ながら、詩織が言った。

「ああ。でも依頼の内容は言えない」

 ぴしゃりといって梅酒に口をつけると、SYOUは淡々と続けた。

「話を戻そう。“過去の女”の名前とかは、彼女は出した?」

「……名前はなし。説明はこう。鈴付きの首輪が似合う、男にも女にも感じる、猫みたいな極上の子。その子が、SYOUから逃げた。そのままで済めばよし、済ませられそうにないのは、SYOUのほう。忘れられなければ、危険なのはSYOU。すんだものは追わないで、仕事に集中しなさいと、そう伝えてと。あと、……」

 少し考えてから、詩織は一言ひとことを確かめるように言った。

「神様も、きっと退屈が嫌いなのよって。自分の気まぐれで人間がのた打ち回るのを眺めるのが好きなのよ、だからこの世には不幸が絶えないのよって、そんなことを嗤いながらあの人、言ってた。じゃあその神様ってどこにいるのって聞いたら、自分を指さして」

 詩織はゆったりとした声色を作った。

『だからいったでしょう』

「……」

 その時の率直な感想としては、ただ、あの女らしい、それだけだった。だが、これがすべての答えだろうか。自分にあの花園とその背後の巨悪について、何よりリンの正体について嗅ぎまわらせないために、見せしめとして探偵を拷問して殺し、資料を奪った。おそらく、誰からの依頼か吐かせたうえで?


 ほんとうに、彼女が? それとも別の誰かの思惑か?


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