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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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わからない

 街路樹の緑が急に鮮やかさを増していく中、SYOUにとっては一見、平穏に日々は過ぎて行った。

 胸の内にせめぎ合う思いはあるものの、考えるべきこと以外に神経を使わず、自分をサイレントモードにセーブするのに成功していたのだ。

 ……サイレントモード。

 今、耳に戻ったこの水色のきらめきが自分と一体であったころ、それは自在だった。それが自分で自分にかけたまじないだとしても、再び昔のように切り替えがスムーズに発動し始めているのを、SYOUは感じていた。

 ……お前はここにいるのか。

 ちいさないのちの記憶に向かって、SYOUは語りかける。

 他の誰でもない、唯一無二の存在としてお前はそこにいる、むしろ自分はそれを望む。

 ほかの何かにぶれさせたくはない。


 テレビ局の食堂の片隅のテレビモニターには、六本木にニューオープンした中国のファッションブランド、デレク・スタイルのパーティーの映像が流れていた。詩織が呼ばれているらしいことを察して、SYOUは自分への招待状を捨てていた。華やかな画面の中の、幾人かの芸能人に交じって、彼女の横顔が通り過ぎる。


 さよならぐらいは言って。

 あの日、車で送った時の別れ際の言葉が耳をよぎる。

 何も言えなかった。

 思い出すと、最後に詩織がそっと握った指先が、じん、と痺れた。

 マナーモードの携帯の震動が、テーブルを鈍い音で震わせた。メール着信。携帯を取り上げて画面を見る。

 KUSUNOKI。

 SYOUは思わずあたりを見廻し、立ち上がって、トイレの個室に移動した。


 ……楠です。このたびはお世話になっております。

 契約期間の半ばに来ましたので、今まで得た情報をひとまずお伝えしたいのですが、お電話しても差し支えないお時間帯をお教え願えますでしょうか。

 本来はこちらの事務所で、差し向かいでお伝えするべきことなのですが、事情が変わり、こちらの事務所にも応接ルームにも足をお運びいただかないほうがいい状況です。

 どこか外の場所、人目のない場所でいろいろお伝えしたほうがよいかと存じます。可能ならば、なるべく早めに。

 まずは、重要な事柄だけでもお電話でお伝えしたいと思います。お手数をかけてすみませんが、まずはそちらのご都合についてご連絡をお願いいたします。


 読み終わった携帯をポケットに入れると、SYOUはしばらく考え、水を流して個室から出た。廊下に出たとたん、デビューから贔屓にしてくれているプロデューサーに声をかけられた。笑顔であいさつしながら、SYOUは今の一文を回想していた。

 事情が変わり…… 

 足をお運びいただかかないほうがいい状況……


 なにか不都合が起きているらしいことは想像できた。相手が自分と会うのを警戒している状況は、すでに外の誰かにこのミッションが流れていることを意味するものだろう。長引けばそれもありうるかと思っていたが、あまりに早すぎる。

 時計を見る。青山のスタジオに移動して、雑誌の取材を二つ受けるまで三時間余り。今のうちに地下駐車場の車にこもってこちらから電話しよう、早い方がいい。

 と、一度は通り過ぎたプロデューサーがまた物言いたげにこちらに戻ってきた。SYOUははやる胸の内を抑え、緊張を解いていつもの表情に戻した。

「なんですか、乃木さん」

「君さっき俺の話まともに聞いてなかっただろ、念を押しとこうと思ってさ」

「あ、そういえばあまり頭に入ってなかったかも。すいません」

 SYOUは申し訳なさそうに笑って見せた。実際、短い会話の内容をまったく思い出せない。

「若宮さんがね。若宮宗司さんが、再起動したらしいって話。そこまでは聞いてた?」

「え、まあ……」

 聞き覚えのない名前だった。とりあえず適当に相槌を打つ。

「で、新作の構想の中で、きみをターゲットにしてるらしいよ。昔、政治がらみの実録映画やポルノ映画ばかり撮って物議かもしてたカリスマ監督だよ、新作が欧州の某映画祭で賞とったらしい。君ぐらいの年齢の子は知らなくても当然かもな。次の作品はと聞かれて、SYOUを使ってみたいって言ってたってさ」


 はい、わかみやです。わかみや・そうじです。

 いきなり、電話に応答する男の声が脳裏をよぎる。

 本棚がずらりと並んだ煙草臭い部屋、吸い殻が山になったガラスの灰皿。壁にあったのは、ヒュアキントスとアポロンの……

 受話器を握る髭面の背の高い男の横顔が、遠い時空の向こうの、色褪せた映画のスチール写真のように脳裏に立ち上がった。

 あいつか!

「若宮さ、俺と同じN大の芸術学部の後輩なんだよ。ダイヤの原石だからひとつよろしく頼むって言っといてやったからな」

「それは……」

 どうも、と口に出しかねて言葉を濁すSYOUに背を向けて、乃木プロデューサーはさっさと廊下を去って行った。

 ひととき、苦い記憶が嵐のように胸をざわめかせた。

 ……映画監督だったのか。

 一緒に仕事なんかしたいもんか、俺はあいつのペニスの黒子の位置まで知ってますっていってやったらどんな顔をするだろう。

 いや、今は今の問題だ。時間がない。

 SYOUはエレベーターに歩み寄り、下行きのボタンを押した。


『はい、楠です』

 ウインドウ越しに薄暗い地下駐車場の車の列を見ながら、SYOUは携帯に向かって言った。

「あの、柚木です、メールありがとうございました。早速ですけど電話させてもらいました。今、いいですか」

『反応がお早いですね。こちらは助かりますが』

「お急ぎと聞いたので。何かトラブルでも起きてるんですか」

『はっきり申しまして、障害は起きています。詳しくお伝えするのは差し控えますが、事務所にお越しいたがかないほうがいい状況です。そちらが差支えなければ今ここでお伝えしたいことがいくつかあるんですが』

「はい、お願いします」

 やはり、すでに何か起きている……。SYOUは話しながら、おもわずあのかっちりした眼鏡をかけた脇役の役者のような彼の容貌を思い出し、そしてその身を案じた。

『依頼を受けて今日で十日目ですね。前金で半分いただいているので、今まで入手できたことだけ手短にお話しします、かいつまんでですが。もちろん後で安全な場所でお会いして、書類にしてお渡しします』

「じゃあ、今じゃなくてもそのときでも……」

『いや、はっきりいって、いつどこでお会いできるという確約が難しい状態なんです』

「……」

『ま、あまり気を回さないでください。こちらのサガとして、こういう件ほど燃えるところもありましてね。では、報告にうつります。

 あの建物に住んでいるのは、ほぼ全員が霊燦会の会員ですね。いろいろな意味において、日本最大の宗教団体です。ご存知ですね』

「……はい、知ってます」

 いきなり出てきた団体名に、SYOUは息をのむ思いだった。哲夫からほのめかされてはいたが、そんな巨大な組織が関係していたのか……

『もともとあそこに建っていた旧家のあるじである年配の男性……あ、もちろん信者です。そのかたがマンションを建設し、八年前まで最上階に住んでいましたが、自分には広すぎるからひとに貸すといって田舎に越したということです。その後の消息は知れません。

ここまでは近所のかたへの聞き込みからわかったことなんですが、マンション住民は一様に口が堅くて、内部については何の情報も聞きだせませんでした』

「住民に、聞き込み? を、したんですか?」

『ええ、基本ですから』

 瞬間、血の冷えるような思いがした。

「頼んでませんよ、ぼくは。近づきすぎるのは危険だから、動向を探ってほしいとだけ……」

『これなくして何の情報も得られません。それと、予定以上に早く仕事を切り上げなければならない可能性もありますから、手間暇を惜しんではいられないんです。

 で、あそこからの車の出入りですが、あなたのおっしゃった車種の車が今までに三回、出入りしました。スモークガラスで中はわかりません。正直、ご指定の女性の出入りを確認するのは困難でした。ですが、正面から一瞬見えたところでは中年男性が客として乗っていたようです。遠方からですが、一度だけ撮影に成功しました。女性の姿は見えませんでした。あとでそちらの携帯に画像を送ります。最近メディアで見た顔ですね、六本木にビルを建てたデレク・スタイルというブランドがあるでしょう』

「ええ」

『そこのオープンに際して出資したチョウ財閥の一人。そして、中国の国務院に属する政治家、えーと、大規模な地下トンネル工事に日本の技術を導入したいとかで来日していたと思います。(チャン)(ジャア)(フゥイ)、通称ヤン・チョウ。ぼくのみたところ、彼に似ていますね』

「……」

『それともうひとつ。名前だけ申し上げておきます。

 陽善功。

 気功術から始まった中国の一大宗教団体です。万病に効く奇跡の気功とかで、当初は中国政府にも信者がいたのですが、かの国全土にわたり信者が増えすぎた時点で、気功術を越えた一大危険思想団体と政府が判断し、過去に例を見ない激しい弾圧を開始しました。徳川家康・秀忠時代のキリシタン迫害なみのむごさですね。こちらは聞いたことはおありですか?』

「耳にしたことはあります。アムネスティが国際問題として動いているとか。確か、最大時で信者が……」

『だいたい八千万人ですね。霊燦会の十倍以上です』

「……それが?」

『教祖もその家族も行方不明、幹部、経済力のある信者たちは激しい弾圧を逃れて世界中に散りました。日本でその受け入れ先となったのが、霊燦会と言われています。現在の代表である土光巌は実は中国系なんですが、陽善功の教祖が遠い親戚にあたるとかで』

「……そうなんですか」

『行方不明の教祖一家の家族の写真があります。こちらもあとでメールに添付してお送りします。妻と娘と養子がいました。よく見てください。

 で、とりあえず、拡大した写真、書類にまとめたものをお渡ししたいんですが。近近でご都合のいい日はありますか?』

「そちらで、確約はできないとおっしゃいましたよね?」

『邪魔が入って変更になることは十分考えられます。が、取り敢えず決めておきましょう。そして、ぼくからもあなたに申しあげておきます。ここまでの資料を手にした時点で、深入りはもうやめた方が御身のためです。いろいろと』

「……のようですね。楠さん、あなたは大丈夫なんですか?」

『次にあなたにお会いした時点で、ぼくも手を引きますよ。では、さっさと日にちを決めましょう』

 いちばん近い休みの日に、個室のある飲食店を予約することで話は決まり、SYOUは礼を言って電話を切った。

 何かの予感が押し寄せていた。

 教祖が、行方不明?

 八千万?

 家族?


 携帯が再び震動する。画像が届いている。



 あまりに小さな画面のなかの、笑顔の人々に囲まれる白い服の中国人男性。

 のそばで、俯きがちに微笑む、長い髪の少女。

 白いドレス、胸に牡丹の花。

 小さい。

 小さすぎて、わからない。

 震える胸の中で、そう、SYOUは繰り返していた。


 どんなに似ていても、これでは、わからない……






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