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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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だからいったでしょう

 SYOUが主演をつとめる携帯ドラマの評判は、上々だった。

 スタート当初こそ、「格落ちの仕事だ」と一部のファンからはぶーぶー言われたものの、始まってみればなかなかの反響で、テレビシリーズ化や映画化を望む声も早々に上がり始めた。

「ひとまず反応がよくてよかったよ。ドラマでの成功失敗は、CMに使ってもらってる企業へのイメージ貢献にもつながるからな」

 社長は上機嫌だった。イメージ貢献。二つの新しいCM採用が決まってから、社長は特にSYOUに身を慎むようにとくどくどと繰り返し始めた。

「お前一人のことじゃない。事務所の信用にもかかわるんだからな。大きな仕事を抱えれば注目度も上がる、責任も重くなる、叩きたいやつは好機を狙ってくる」

 主演映画の企画もあがっていた。まだ詳細はわからないが、有名小説を原作とした映画の主役に、幾人かの人気俳優と一緒にSYOUの名も挙がっているという話だった。最大手の配給会社で、シナリオはもう社長の手元に届いているらしい。

「大人しくしてろよ、あの事件が明るみに出なかっただけでも奇跡なんだからな。もう失敗は許されんぞ」

 その事件のあと自分が科せられたペナルティの話、行かされた先であったこと、その最暗部には一切触れず、めでたい話ばかり花吹雪のように頭上に散らせてくる。こうして前に進めば、すべてはなかったことになる、とでもいうかのように。

 自分が今、興信所に依頼している仕事。

それこそはその「なかったことにしようとしている」件の最暗部を穿り返す蛮行だ。それは、まちがいない。

 社長がこのことを知ったら、どんな顔をするだろう。

 SYOUは、わかっていてみずから地雷原に足を踏み入れずにはいられない自分の性分に、改めて自分で呆れ、かつ、大したものだと他人事のように感嘆した。


 六本木にニューオープンした、丸窓をいくつも穿つ宇宙船のような外観のビルの中では、躍進めざましいアジア系のアパレルブランドの、日本初の旗艦店のオープニングパーティーが行われていた。

 招待されたセレブの顧客、著名なアーティスト、芸能人、業界人の中に、伊藤詩織の姿もあった。詩織は友人や顔見知りとあいさつを交わし、笑みを振りまき、デザイナーや関係者と一緒にカメラに収まった。

「ティアードスカートとタイトなブラウスの組み合わせが、実にお似合いだ。当ブランドの狙い通りの着こなしですね」

 社長兼クリエイティブ・ディレクターのデレク・チョウが微笑みながら話しかけてきた。

「ありがとうございます。最近、ファッション界ではアジア圏のデザイナーが台頭していますよね。なかでも、ここのデザインは私の好みに合ってるので、よく購入させていただいてるんです」


 暫く談笑した後、二杯目のシャンパンを手にして、詩織は部屋の隅の椅子に座った。心身共に疲れていた。新調したミュールのサイズもあわない。帰れるものなら、仕事なぞ放り出してとっとと家に帰ってしまいたかった。

「こんばんは」

 聞き覚えのある声に顔を上げて、詩織はぎょっとした。

 ふんわりとウエーブのかかった漆黒の髪を顔の両側に豊かにたらし、ブラックのラッフルドレスを身にまとった、モナリザの娼婦バージョンのような、見慣れた顔。

 ……城島澪子。

「詩織ちゃん、ひとりなの?」

 胸の奥に、殴られたような鈍い痛みが走る。

「来てるとは聞いてたけど、ひとが多すぎて会える気がしてなかったわ」

「……こんばんは」

 固い声で答える詩織の隣に、躊躇することなく澪子は座った。

「ね。妙なところで適当にわたしの名前出してくれたみたいじゃない? 電話で説教されたわよ、尊大なあのおっさんから。余計なことを話してくれるなって」

「……すみません」

「適当に話し合わせといたわ。で、……あの坊やと会ったわけね」

 ゆったりと笑って澪子は言った。

「……」

「いい男だものね。あなたが離れられないのも分かるわ」

「正直に言います。わたし今、あなたとお話ししたくありません」

「まあ、そうでしょうね」

 ギャルソンがシャンパンとワインの乗ったトレイを目の前に差し出す。ロゼのグラスをとると、澪子はゆっくりと一口飲んだ。

「まだあの坊やが好きなんだ」

 こちらを向いて口を開きかけた詩織に、澪子は重ねるように言った。

「ちょっと上で話さない? 未完成で一般公開はしてないんだけど、入っていいってここのオーナーに言われた展望室があるの。いい眺めよ」

 遠くでひときわ高い笑い声が上がった。グラスを合わせて、乾杯、乾杯と数か国語で言いかわす声を背に、二人は丸窓をいくつか通り過ぎながら狭い階段を上がった。


 ビルの頂上にあたる展望室は、四角錐のような構造になっており、全面強化ガラス張りで、周囲で点滅するネオンがそのまま部屋の中に反射していた。透明なパイプでできたガラス細工のような椅子がみっつよっつ置かれてあり、少し間を開けたその椅子に、二人は夜景を見降ろしながら座る格好になった。

「どう、なかなかな眺めでしょ」 

 澪子の鷹揚な口調に、同じ夜景に目を落としながら、詩織は尖った声で答えた。

「……わたしは彼に殴られて当然のことをしたんです。それなのに父ばかりか、あなたまでが彼の落ち度につけこんでいたなんて、信じられない」

 澪子はグラスに口をつけた。

「あなたはわたしを恨むでしょうけど、わたしが引き受けなければもっとむごい目に遭ってたかもしれないのよ。助け舟と取ってもらってもいいくらいだわ」

「好きでしたことでしょう。あなたの性癖についてはこちらも知らないわけじゃありません」

 薄い笑みを含んで、澪子は言った。

「ちょっと見立て違いでね、あの坊やには可哀想なことしたとは思ってるのよ」

「見立て違い?」

「ああいうことがほぼ初めてとは思わなかった。ゲイじゃなくてもバイあたりかと予想してたのに、属性がなかったなんて、意外だわ」

「……」

 きっと目を上げると、詩織は澪子を睨んだ。

「あなたのことを、本当の母親のように、あるいは姉のように思っていたこともあるわ。でも裏が見えてくれば、あなたは父と同種の、いえ、もっと酷薄で得体のしれない人だった。わたしと付き合わなければ彼も、こんな目にあわされることもなかったのに。それがいま、一番悔しい」

「そんな愚痴はいまさら何の役にも立たないのよ。彼は多分、いま新しい恋をしてる。で、会えない女性への思いで未練たらたらでしょう。SYOUが好きなら、彼が暴走しないように見守ってあげなくちゃ。それができるのは、あなただけ」

「……よくもそんなことが」

 いきなり投げ込まれた石にふつふつと胸を泡立てながら、思わず知らず、声が荒くなっていた。

「どうして今日、わたしに声をかけたんですか。任務気取りで彼をいたぶって、今度は守れ? 新しい恋? 

 それはなんですか、相手は誰ですかって、わたしにうろたえてほしいの? 問い詰めてほしいの? あなたはそもそもどの立場に立って、なにをしようとしているの?」

 目の前の訳知り顔の女に、言葉にできなかった苛立ちが雪崩を打って向かっていた。尋ねたいことの 確信を含んだ、釣針のような言葉。でも、意地でもこのひとの前に膝を折りたくはない。

「……どうして、か」

 歌うように言うと、澪子はずり落ちかけている紫色のストールを肩にかけ直して、低い声で言った。

「わたしはね、退屈なのよ」

「……退屈?」

 詩織は唖然として聞き直した。いきなり出てきた、この場では信じられない単語だった。

「薄っぺらい感情を後生大事に振り回して、泣いたりわめいたりする馬鹿面の群れを眺めるのは少し好き。美しい男が苦しめられているのを見たりするのは、たぶんもっと好き」

 絶句している詩織には視線を移さず、夜景を見下ろしたまま、澪子は言った。

「薄汚い都会も、夜、こうして上から眺める分には十分美しいわね。

 もしこの世界に神というものがあるのなら、たぶん、神様も退屈が嫌いなのよ。こんな風に高いところに座って、世界を俯瞰して、自分が作ったいのちの群れが、自分の作りだした幸福にすがり、自分の投げ込んだ不幸に倒れて地面をはいずりまわるのを見るのが好きなのよ。だからきっとこの世には、祈っても祈っても不幸が絶えないのよ」

「……」

 感情の読めない白い顔を見ながら、詩織は茫然と瞳を震わせた。

「それが」

 無意識に唾を飲み込むと、続けた。

「つまりそれが、あなたの属する……霊燦会の教義?」

 澪子は椅子に寄り掛かると、軽く足を組んだ。

「あそこには神様はいないわ。あれはひとの、ひとによる、ひとのための宗教」

「じゃあ、神様ってどこにいるんですか」

 人差し指でとんと自分の胸を突くと、澪子はふっと笑顔を作った。

「だから言ったでしょう」

「………」

 詩織は勢いをつけて椅子から立ち上がった。ふざけてる。

「もうお話が終わりなら、わたしはこれで」

「詩織ちゃん」

 その名で呼ばないで。立ち上がったまま、のど元まで出かけた言葉を、詩織は呑み込んだ。

「一つだけお願いするわ。彼に、済んだものは追わないで、仕事に打ち込むように言ってあげてちょうだい。まともに芸能人を続けたいなら」

「だから、なんのことかわかりません。誰のことを言ってるんですか。わたしに何ができるんですか? 退屈がお嫌いなら、何が起きても笑って眺めていればいいでしょう」

「……小娘のあなたにも、本気になればできることはある。のよ」

「………」

 にっと笑うと、澪子はグラスを拾い上げた。

「黒髪の、鈴付きの首輪が似合う、男にも女にも感じる、発情期の猫みたいな極上の子。誰にとっても、一度きりの相手にはなれない。その子が、SYOUから逃げた。そのままで済めばよし、済ませられそうにないのは、SYOUのほう。忘れられなければ、危険なのは彼。伝えるだけは、伝えておいたわ」

 右手を挙げて制しかけた詩織をおいてくるりと背を向けると、澪子はヒールを鳴らしながら階段を下りて行った。


           

 ……ショウ。

 あなたに、許してほしいことがある。


 こんなふうに、あなたを思うこと。

 こんなときに、この感覚のすべてを、あなたに置き換えること。


 視界は闇に閉ざされ、聴覚は閉じられているから、残るのは感覚しかない。

 わたしの頬を撫でる指、わたしの背に這う掌、一度知ってしまったやさしくせつない感覚は比べられないけれど、知らないことは置き換えられる。

 わたしのなかに滑り込むだれかの指、わたしの体に打ち付けられるだれかのファロス、わたしにしがみついて憂き世のすべてを忘れようとする男のからだ。この息、しつこい愛撫、凌辱に近い粗暴な扱い、奴隷のような奉仕を強いられること。

 選ぶものを選んであなただと思い、わたしを穿つのはあなただと想像し、思えば思うほど、わたしは、かんじた。

 ただの欲望を抱えて訪れる客を、まるで暗い道に灯る街路灯のように、わたしは辿りながら歩く。

 わたしはこれでいい。たぶん、こういう風に生きるために生まれついたのだ。

 そう思う方が、過剰な期待をこの身に背負うよりもずっといい。


 あのかたの娘。

 あの高貴な、神のごときあのかたの。

 誰もが必要とする、あのかたの。

 あのかたに後継者と指差された、唯一の。


 幼いころの無条件な愛情は崩れ、愛する父は条件付きでなければわたしを愛さなくなった。

 わたしのために生きておくれ。

 わたしにすがる人々を救済するために、お前はいる。お前しかいない。


 そんなときにあなたを知った。画面の向こうの、海の向こうのひと。

 何かのスイッチが入るように、わたしの体中に灯りが灯り、それは初めて知る官能となって、わたしの深部を鳴らした。

 子宮のあるここ、卵巣のあるここ、心のあるここ、そのもっと奥、生まれる前の自分のいた、ここ。

 画面を消してあなたを思うたび、誰にも触れられていないのに、誰も触れることのなかった琴線が震えて、わたしは、ああ届く、と思った。

 あなたにあいたい。あって、生きていることを確かめたい。わたしと、あなたが。

 いま、一つの道具となってこの地にあるわたしが、この場であなたとの出会いを求めるのは、あなたの生死をかけることになる危険な野望だった。

 それでもいいと思ったの。ショウ、あなたとあえるなら、万が一、たとえあなたとわたしに地獄が訪れてもいいと……

 わたしは、そんな娘。だから死んでも、しかたがない。

 ぼくはなにもしたくない。あなたはそのひとことで、生き延びた。

 わたしははじめて、体を通さず、心だけであの境地に達した。

 ショウ、あなたはただ一人の人。

 この背を撫でるだけで、見捨てられたわたしを、あの天国に連れて行ってくれる、この世でたった一人の人。

 長いことこの身をあちこちに投げ出して待っていたのは、これ。


 わたしを許して。もうじき、ここで死んでいくから。

 肉体だけの男たちに自分をささげつくして、それをあなただと思って頂点に達する、醜い日々を繰り返して、最後の使命を果たして、

 汚い血にまみれて見せるから、どうか、わたしを許して。

 ショウ。

 お父さん……


 黒髪をシーツ一杯に投げ出して、何度ものけぞるように身をしならせる娘の、白いしなやかな体と吐息交じりの喘ぎ声を、モニターのこちら側でヤオは見ていた。やがて獣欲も尽き果てた男が、倒れるように少女の横に身を投げ、鼾をかき始める。

 三分ほど経過した辺りで、ヤオは部屋に入り、男の傍らに跪いた。 

 手袋をはめ、下腹部から、男の陰毛を抜き取る。男はぴくりとも動かない。リンの体にあらかじめ仕込まれた薬は、何度もの試験でならされた少女自身にはもう効き目はなく、ただ男の意識だけを奪っていた。

 ヤオは毛根付きの陰毛をビニールにしまうと、体液を特殊な紙に採取し、足の爪を薄く切って、それも別のビニールにしまった。

 ヤオはリンの耳栓を取ると、囁いた。

「お(シャオ)(ジェ)

 リンの肩がかすかに動き、唇が開いた。

「大丈夫ですか」

「……なにが」

「この男はしつこかった。ときどき、なかなか薬が効かない体質がある」


「疲れただけ」


 ぽつりというと、リンは起き上がり、全裸のからだのどこも覆わずにそのまま床に足をおろし、立ち上がろうとして、よろめいた。

 ヤオは素早く脇から腕を回し、リンの白い体を支えた。そして、目隠しをしたままのリンをバスルームに連れて行くと、ドアを閉め、目隠しを取った。ふたりは、斜めに視線を合わせた。


「……来週ですね」

「ええ」

「いいんですね」

「ええ」

 リンはヤオから体を離すと身をかがめ、手を伸ばし、バスタブの上のシャワーの栓をひねった。シャワーヘッドから勢いよく湯が迸る。湯に掌を当て、少し考えるようにすると、そのままヘッドをヤオのほうに向けた。

 上下黒のスーツのヤオの顔に、全身に、湯気を上げながら勢いよく湯が襲い掛かる。ヤオは目を閉じて、少し眉間にしわを寄せたまま、無抵抗で湯を浴びている。前髪が額に張り付き、頬の傷が少し赤みを帯びたように見えた。リンは栓をひねった。水流が止まる。ヤオの全身から、ぽたりぽたりと雫が垂れ堕ちる。

 リンは白い裸身からそっと手を伸べると、頬の傷に触れた。


「ヤオ。……最後まで見届けてね」

「はい」

「そばにいてね」

「わたしはここにいます」


 そのまま、少女は細い腕をヤオの背中に回し、細い指先で、濡れた服の端をきゅっと掴んだ。


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