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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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依頼

「お嬢様がいらっしゃってます」

 事務所の表番の男に耳打ちされて、権田眞一郎はかすかに眉を寄せると、新たに入手したばかりの拳銃を改める手を止めた。

「通せ」

 やがて若衆の開けたドアから、厳しい顔の詩織が入ってきた。

 彼女にしては珍しく、清楚な薄緑のワンピースに白いカーディガンという大人しい出で立ちだ。

「前触れもなく、あまりこんなところに顔を出すんじゃない」

 隠そうとする様子もなく、ゆっくりと拳銃を引き出しに入れる。詩織はマホガニーのデスクを挿んで父の前に立つと、ひとこと言った。

「人払いして」

 眞一郎は黙ってドアのほうを指さした。部屋に控えていた男二人は、頭を下げると退出して行った。

「なんだ」

「……どうして彼に乱暴したの」

「上から話すんじゃない。座れ」

 デスクの前にある応接セットの椅子に座り、詩織は距離を置いて父親を睨んだ。

「毛嫌いしている場所に勝手に来て、挨拶もなくいきなりそれか」

「これでも、今まで遠慮して何も聞かなかったの。元を作ったのはわたしのほうだから。でも、お金を搾り取ったという話だけじゃなかったのね。歌をやめたことに関係があるかもとは思ったけれど、直接、まさか暴力をふるうなんて」

「誰から聞いた。……会ったのか」

 父の昏い目がまっすぐこちらを向いていた。ぞくり、と背を震わせて、それでも詩織は膝に置いた手に力を込めて睨み返した。金融、建設、娯楽サービス産業、そして巨大宗教団体の裏仕事、さまざまなビジネスを展開している権田興行の代表としての男の迫力に対峙する厳しさを、この身一つで持ちこたえねばならない。父と呼ぶには、いつでもその距離はあまりに遠すぎた。

「そんな噂なんてどこからでも耳に入って来るわ。パパともわたしとも親しい人が身近にいるじゃない」

「……澪子か」

 薄く笑いを浮かべ、手元の葉巻の箱を開ける。

「あいつの好きなようにさせただけだ、目に見える怪我がないようなやり方でな。元気でやってるだろうが。うちがそれなりの扱いをしたら、すでに五体満足なわけもない」

 ライターで火をつけると、薄く煙を吸い込んで吐き出した。

「愛娘に暴力を振るって入院させたろくでなしが、ああして元の世界できちんと活躍してる。むしろお前は父親のふがいなさを責めるべきだ」

 愛娘という言葉に、詩織は口元を歪ませた。

「痛めつけるだけじゃ一文にもならないから、うまく利用して金づるにしただけでしょ」

 眞一郎は引き出しを開けると、札入れを取り出した。

「タクシーで帰ってうまい酒でも飲め。それ以上思いあがった口をきくと、お前自身が大事な金づるを失うぞ」

「………」

 こんこん、とドアをノックする音がした。

「なんだ」

 頬の扱けた男が顔を覗かせる。

「お電話を回していいでしょうか。張先生の件で……」

「のちほどこちらからご連絡すると丁寧にお答えしとけ」

「はい」

 光の沈んだ目が、詩織のほうに向き直った。

「この通り忙しいんだ。用が済んだなら帰りなさい」

 詩織はすっと立ち上がると、デスクの前まで歩み寄り、両手をついて言った。

「……こんな小娘でも、本気を出せばできることはあるのよ」

 父親は深く吸った煙を、ゆっくりと娘の顔に吹きかけた。

「お前はつくづく母親似だな。惜しい女を亡くしたよ」

 灰を落とすと、こほ、と軽く咳をして言った。

「そういきり立つな、あの男にはもう何もする気はない。あいつが二度とお前に会わず、お前もちゃんと自分の仕事をして、結果を出してゆくならな。芸能界で生きるなら、それ以外にするべきことはないだろう」

 詩織は机の上の紙幣を握った。

「せっかくだから、もらっとくわ」

 高い音でヒールを鳴らし、戸口の外の用心棒たちに頭を下げられながら、娘の細い後姿がドアの向こうに消えた。父親はとんとんとテーブルを叩いていた指先を止め、短い顎鬚を撫でた。


 駅前ではひと群れの小中学生たちが、声を張り上げて交通遺児育成募金への協力を呼びかけていた。 詩織は近寄ると募金箱に万札をねじ込み、驚き顔の子どもたちの頭をくしゃくしゃと撫でると、手を上げてタクシーを止めた。

 背をかがめて乗り込んで、テレビ局の名を告げる。胸の中の暗い残響に目を閉じながらシートに身を預ける。

 いくら強がっても、所詮小娘の身の自分にできることはない。難攻不落の父は、どう持って行っても会話そのものを十分と続ける気はない男だ。それでも、聞きだせたことはある。


 ……澪子か。

 あいつの好きなようにさせただけだ、目に見える怪我がないようなやり方でな。


 十歳で母親を亡くしてからずっと、自分を可愛がってくれた父親の愛人。色白でコケティッシュで、自由で、おしゃれが上手で、豊かな胸の、香水のきつい……

 あのひとの正体がうすうすわかってから、気味が悪くなって距離を置いた。まさか自分を通じたつながりで、SYOUがあの残酷な人の玩具にされていたなんて。


 結構打たれ強い自分でも正直、二度とあんな目にはあいたくない。

 ……察してくれ。


 自分が悪い。それは間違いない。あんなに傍にいてほしかった、大好きだと言い続けたあの間、自分のことよりも彼のことを考えていれば、彼の幸せを優先に考えていれば、こんな目にあわせることにはならなかったのに。

 でも、……でも。

 自分自身と、そして自分の周囲の闇世界の大人たちへの苛立ちと恨みが、胸の中にどす黒いしこりのように溜っていくのを、詩織は感じていた。



 指定されたワンルームマンションのドアには、楠、とだけ表札がかかっていた。

 SYOUは手元のメモをもう一度確認すると、呼び鈴を押した。

 しばらくすると、ドアの横のモニターから、どうぞ、と声がして、ドアが開いた。

 かっちりとしたフレームの眼鏡をかけた、表情のない男が、そこに立っていた。

 年のころは四十前後、中肉中背、これと言って印象のない容貌の下に、喜怒哀楽の原型のようなものを詰め込んでいる気配がある。例えるならば、脇役専門の演技派俳優のような男。

「狭いところで申し訳ありませんね。どうぞこちらへ」

 部屋はやっと八畳ぐらいの広さで、壁一面にファイルのそろった棚。あとは入口近くに小さなバスルームと簡易キッチンと冷蔵庫があるだけの簡素な部屋だった。

 背の低い籐の衝立の向こうの簡単な応接セットにSYOUを案内すると、男は冷蔵庫から取り出したハーブティーを目の前でガラスのコップに無造作に注いだ。

「こんな時間にうかがって、すみません」

「いえ、こういう時間帯の訪問はけっこう多いんですよ。ひと目につかないよういらっしゃりたい方が多いですから」

「あの、ここが事務所ですか」

「ここはただの相談専門のスペースです、興信所の看板を出していると足を運びにくい人もいますからね。事務所は別にあります」

「なるほど」

 差し向かいに腰をおろすと、男はSYOUから渡されたクリアファイルを開き、ターゲットの資料に目を落とした。沈黙したままひと通り目を通す。やがて男はゆっくりと口を開いた。

「……とにかくターゲットの情報が少ないですね。年齢も素性も分からない状態ですし、制約も多いし写真データもないし、外出の可能性も低い。正直こちらとしてもやりにくい仕事ではあります。

 しかし、これはすごい」

 クリアファイルの中から、薄墨で描かれた少女像を取り出す。

「水墨画、というんですかね。素人さんがお描きになったとは思えない。美しい女性ですね、多分似ているのでしょう。あなたがお描きになったんですか」

 何度も何度も、思い出してはSYOUが描いたリンの肖像画は、顔のアップもあれば全身のものもあった。横顔、寝顔、正面を向いて微笑む顔。

「どういうわけか、墨を使うとたいていのものはかけるんです」SYOUは小声で言った。

「で、ただ、動向を探る、というだけでいいということなら、それなりにできるとは思いますが。過去、素性まで踏み込む調査をお望みですか?」

「それは、できればお願いしますと言いたいところですが、いろいろと危険を伴うと思うんです。ですから、ただ身を隠して、行動範囲というか動きを報告してくだされば、それでいいんです」

「たとえば、外出の回数、行先、出入りしている人間の数、そういった……?」

「そうです、そこまでで。自分にはそんな時間の余裕もないし目立ちすぎるので不可能だし」

「訪問してくる、あるいは同行している相手の素性のほうも追いますか?」

「いや、追いかけてまで調べないでください。とにかくひとまず、三週間でいいので、行動パターンというか動きを見てくれるだけでいいんです。あと、依頼した簡単な情報の収集。できる範囲でいいんです。それ以上に何か手がかりが入ればそれに越したことはないですが、多くは求めません。くれぐれも身の安全に注意して、近づきすぎないようにしてください」

 言いながら、どうしようもない自己嫌悪の塊がうす暗い霧のように自分の身を包むのをSYOUは感じていた。

 こんなことをしてどうなるというのか、なぜ終わりにできないのか。こんなことを金をかけてまで他人に依頼する自分は異常じゃないのか。その問いは何百回も自分に向けられたものだった。

 だが、客観的に自分を眺めわたせば、このまますべてをなかったことにできる性分ではないことも十分承知していた。仕事を放り出してなりふり構わず暴走するか、一日中あの建物に張り付いて写真週刊誌のネタになるか。このままいけば多分そのどちらかしかない。

 突き詰めればただ一つ。

 ……もう何も怖くない。あの言葉の先にあるものを、おそらく自分は嗅ぎ取りたいのだ。

 母の時と同じ悲劇が待ち受けているとして、それを知りながら看過するなどという愚はもう自分に許したくない。たとえ彼女の正体が、哲夫に揶揄されたとおりであったとしても。そのためなら、利用できるものは何でも利用する。

 それが、SYOUの覚悟だった。

「安全には十分気を付けますよ、こちらも命あっての商売ですから。予定通りに事が運べば、途中でひとまず、わかったことをお知らせします」

「よろしくお願いします」

 男は最後にひと言、付け加えた。

「言うまでもなく、守秘義務のほうも、当然ながらお約束します。それが根底にあっての稼業ですからね。危ない件ほど、当方は慣れているんです。お任せください」

 頭を下げて部屋を出たとき、時計は午後十一時を回っていた。

 頬を撫でる風が、何か幽かに花の香りを含んでいるような気がして、通路から下を見る。人通りの少ない街路の白色灯の下に、遅咲きの八重桜の淡い紅色が、ふらふらと風に揺れているのが見える。

 下に降りたらあの木のところにいって、柔らかい紙細工のようなやさしい手触りを確かめようと、SYOUは思った。



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