ボンベイ・サファイア・ブルー
コリアンダー、アーモンド、リコリス、オレンジピール。
薫り高い草根木皮から抽出された香りが、花に近い芳香となって体内から鼻腔へ抜け、胃に小さな陽を灯す。
陽は無数の小さなともしびを全身にゆるゆると運び、まだやれる、大丈夫まだいける、行こう、前へ行こうとやさしく語りかけてくれるのだ。
この薄青い綺麗な液体を敵視する理由がどこにあるだろう。
SYOUはボンベイ・サファイアの栓をきゅっと締め、紙袋に入れると個室のドアを開けた。
トイレから出ると、二千人収容のホールの方向からマイクのハウリング音が響いてきた。不機嫌な鉄の箱はわんわんと音を反響させ、テストテストというスタッフの声が、きょうが何の日か、だるい頭に念を押してくる。
この音を聞くのも今日が最後。
ばしばし頬を叩いてから控室の扉を開けると、マネジャーの哲夫がノートパソコンから顔を上げた。
「長いトイレだったな」
「とっといて」
ぐしゃりと口を握りつぶした紙袋をSYOUがぞんざいに渡すと、中を覗いた哲夫が呆れた声を出した。
「おい、……こら」
「四十七度」
唇に薄い笑いを浮かべながらそういってビニールのソファに腰を下ろし、SYOUは長い足を投げ出した。
「ちょっと景気づけにひっかけてきた。手元にあると誘惑に負けちまう。さすがにちびちびやるにはきつい度数だし、預けることにする」
「捨てるぞ」
「どうぞ」
SYOUは天井を見上げた。
「それは俺の首輪につける縄みたいなもんだから。ほどいたら最後、金輪際どの収容所にもひきずっていけやしない。
大丈夫、ライブが終わればジンに頼るのもやめるよ」
「順番が逆だろう、ライブの間こそやめるべきじゃないのか。収容所って、ステージのことじゃないだろうな」
「違う。そのあとのお勤めの話」
「……あれか」
小声で言うと、哲夫は紙袋を自分の鞄にしまった。
「まあ、その話はやめよう。社長だって本当はあんな糞接待は止めたかったんだ、最後まで回避の方向を探してた。それはもう必死に。だが、もうどうしようもなかった」
「わかってる、全部俺が撒いた種だ。……全部、俺が悪い」
哲夫は、仰向けになって天井を見ているSYOUに向かって言った。
「俺は正直残念だよ、音楽活動停止っていうのはな。これだけはつづけさせてやりたかった。歌ってるお前を見るのが好きだった」
目を閉じたたまま、SYOUは口を開いた。
「いつかこんな時が来るとは思ってたんだ。どんなことにも、始まりがあって、終わりがある。一日も二十四時間ワンサイクルでいちいち終わりが来るから、人間は次の日も生きられる。来世がほしいとは思わないけどね。
正直、勢いだけでここまで来られるとは思わなかった、自分としてはもう限度だ。幕を降ろすにはいい機会だよ」
哲夫はレモン入りのミネラルウォーターの入ったシャトルの蓋を開けてSYOUに手渡した。
「……お前と初めて会った時、あれはもう四年前か、歳のわりには結構大人びてると思ったよ。でも今思えば、あの時のままいくつになっても成長してないともいえる。お前は年の取り方がいびつだな」
SYOUは喉を鳴らしてレモン水を飲み干した。
「ああ、……美味い」
「少しはアルコールは抜けたか」
口元を拭くと、SYOUは哲夫に人懐こい笑顔を向けた。
「今回のことでは事務所のみんなに迷惑かけっぱなしだったからね。来た観客全員にこれが最後と信じたくないと思わせるようなライブにするよ。特に、一番世話になった北原哲夫氏のために」
「……そりゃあ光栄だな」
「さて、と」
シャトルを哲夫に投げ返すと、首と肩をぐるぐる回し、ばんと音を立ててSYOUは控室のドアから出て行った。廊下から、バンドの連中と朗らかに挨拶している声が聞こえてくる。
哲夫はしばらく時計をながめたあと、ステージ脇に回り、袖から舞台上のSYOUを見つめた。
サフアィア・ブルーの光に彩られて浮き上がる横顔は、名工の手で彫り上げた彫刻のようで、何度見てもそのたびに感嘆せずにはいられない。
……お前はときどきさっきみたいに、胸がうずくような笑顔を見せる。それがどれだけ破壊力を持つか、今まで一度も自覚したことがないような顔をして。
「……そこのところはサス残しでいきたいんだ。ソロのドラムの敦に光残して。で、三曲目との間はクロス・フェードだろ、光も途絶えないように。シーリングスポットはそこ青めでよろしく。 で、スクリーン換える間に紗幕降ろす、そのタイミングが昨日は遅かったよね。ちょっとそこまで通しでやってみて。あとポップノイズがひどいのが気になった、ちょっとタカさん、その位置でタチツテト言ってくれない。マイクとの距離の見当つけたい。で、位置決めたらバミっといて(*)」
こうして見ると、素直で健康なただの青年だ。
……こいつが見てくれの通りであったら、あんなことは起きなかったのに。
それにしても、ひとつのキャリアを失おうとしているというのに、妙に清々しく、そして漂う気配も暗くない。こいつはもうほかの何かに照準を定めたのか。それとも何も考えていないのか……
哲夫の耳に、三週間前SYOUからかかってきた電話の、切羽詰まった声色が蘇る。
あの大失態の落とし前としてライブを今回限りで打ち切ると決められたとき、読めない無表情の中に、何かほっとしたものがあった。
嵐のようだったあの一夜、彼は何を失い、何を見つけたのか。とにかく、このステージが、彼がどうしても失いたくないものでなかったらしいのは確かだ。
最初からそうだった、社長が彼を連れてきたときから、ギターを抱えてはいたものの、どこへ向かったらいいのかわからないという顔付きをしていた。
有名になりたいかと聞かれ、金が欲しいと素直に答えた。
社長は笑って、必ず稼がせてやると言った。
そしていま、その通りにはなった。……だが。
彼が手にした招待状が、どれだけやっかいな世界への入り口か、たぶん自分よりも社長がよく知っている。ちくしょう、ちくしょうと呟きながら、社長が頭を抱えているのを初めて見た……
……哲夫は胸の中で、端正な横顔に呼びかけた。
SYOU。
今日で歌手としてのお前は終わる。だが、そのほかの分野でむしろ人気の出過ぎたお前には大した痛手ではないだろう。
しかし、お前が明日向かわねばならない場所がどれだけやばいところか、詳細をきかされていない自分にも気配で伝わってくる。
今日は歌え。そしてそののち、どこへいこうと、……とにかく帰ってこい。
俺は見たい。この世界を泳いで、お前が最終的にどこの高みへ向かうのか。
*バミる …… ステージ上の位置をテープなどでマークしておく