瞬間
「何が駄目なんだ」
哲夫は静かに語りかけた。
「相当の決心をして、ここに来たんじゃないのか」
「……」
SYOUは肩で息をしているように見えた。今まで、自分にとってピンチの時ほど、むしろ彼は感情を表に出さず、落ち着いて見えた。これほど追いつめられている姿を見るのは、初めてかもしれない。
「詩織ちゃんじゃないんだな」
「違う」小声で、呻くような返事だった。
「じゃあな、乗りかかった船だ、こちらから聞かせてもらうよ。頷くだけでいい。それを送ってきたのは、お前の知ってる子か」
SYOUはしばらく躊躇したのち、小さく頷いた。
「その子を好きだったか」
拳から額を離し、顎に当てるようにしてSYOUは窓のほうを向いた。反応しないその横顔を見て、哲夫は喉の奥でん~と唸った。
窓際に立ち、レースのカーテンを引く。緑の光に紗がかかる。哲夫はそのままSYOUを振り向いた。
「いいか、俺、引き受けると言ったよな。言ったからには、覚悟もあるんだ。俳優とマネジャーってのは腐れ縁だし、たちの悪いのを抱えれば一蓮托生ってところもある。俺はお前を託されたとき、こりゃ覚悟しなきゃならないかもと思ったよ。まあいろいろあったけど、どれもたいしたことはなかった。だが、今回は正直、別だ。お前がしたことじゃなく、されたことに関してだけど」
「……」
「コーヒー飲めよ、せっかく入れたんだから」
SYOUは気が付いたように目の前のコーヒーを眺め、黙って口に運んだ。哲夫はSYOUの正面に腰を下ろした。
「お前忘れてるかもしれないけど、澪子とかいう女に渡されたディスクを俺に見せたよな。正直、よく見せたと思うよ。あれで、俺はお前の現状を察した。
社長からも、実はある程度事情を聞いた。お前が取り込まれた禁断の花園の実態」
「……実態?」
「二つの権力がかかわってる。ひとつはお前も知ってる。もうひとつの具体的な名前を言うのは今はやめておく。
で、……そこの住人に精神的につかまった。その線でいいんだな?」
びくりと体が震えたように見え、次に哲夫を見上げた時、SYOUの唇は物言いたげにうっすら開いたが、声にはならなかった。
「俺の知っていることで言えることだけ言おう。客は名前の出せないセレブがほとんど、こういったことを取り締まるべき側があそこに取り込まれている、だから表に出て来ない、警察の手も伸びない。いわば治外法権だ。そこの顧客として記録されるというのは、〝そこが摘発されるとまずい側″にまわるということ、つまりそいつが属している組織、企業ごと、そこを支配している連中の傘下に入ることを意味する」
「……」
「誰の口にものぼってはいけない場所、存在しないことになっている場所、それがあそこだ。だから、あそこに閉じ込められている少女も、そもそもいないことになっている。つまり、生殺与奪は連中の意のまま」
SYOUの表情にゆらめく明らかな動揺を見て、哲夫は胸の中で手招きした。さあ来い、あとひと息。
「本当は、ここは口できないヤバい部分まで俺は社長からほとんど聞きだしたんだよ。どんな目にあっても後悔しないという約束付きで、恩を着させてもらうがお前のためにだ。俺とお前は文字通り、一蓮托生だ。お前の知っていることを全部話せ、こうなったら今さらだろう」
一直線に口を引き結んでいたSYOUは、拳をそっと開き、掌のピアスをガラスの上に転がした。そして、静かな瞳で哲夫を見上げた。
「……哲っちゃん。持っていきかたがうまいね」
「……」
「俺はあそこの全貌は知らない、でも哲っちゃんが言ったことはだいたい、思っていた通りだ。でも、俺が聞きたいこと、話したいことはちょっと違う」
「違う?」
「隠すのはやめにする。そっちの思ってるとおり、俺にあれを送ってきたのは、あそこの住人だ。そしてもう多分、二度と会えない」
「会えないって。そういう手紙だったのか」
「そういってきた。俺の足跡を消すって。だから来なかったことにしろって」
「澪子さんが言ってきたんじゃなくて……」
「彼女自身だ」
「つまり、接待した側の」
「そう」
「いくつぐらいだ」
「よくわからない、十代後半……か」
「どんな子だ」
「哲っちゃんも見てる」
「見てる? 俺が?」
少し考えて、哲夫は あ、と小さく口の中で言った。
クラブ・ホーネットの、ピンクのシャンパン……
「俺は本当に何もしなかったんだ。一緒にいたけど話をしただけでセックスなんてしてない。初恋におぼれるガキみたいな有様だった。で、だから無事で済んだとか、不思議なことを言ってきた。それで……」
SYOUは、縁が青いひだになっている、吹きガラスの金魚鉢を眺めた。赤い金魚と黒い金魚と水草の、無音のダンス。
「彼女は死ぬ気でいる。……そんな気がする」
「なんでだ?」
「もう来ないでと、会わないと一方的に言ってきた。おふくろが昔バカ男と心中するつもりで俺に電話をくれたとき、感じた空気と同じだ」
静かに語るSYOUの胸の内を、哲夫は読みかねた。予測していた激情も抗議も、怒りも取り乱しも、そこにはもうなかった。こいつはどうするつもりでいるんだ?
「俺さ」
ひとこと言って、SYOUは黙った。
「……なんだ。言えよ」
「バカバカしいんだ」
「バカバカしい?」
「こんなときなのに」
自嘲めいて、SYOUはうっすらと笑った。
「くだらないことばかり考えてる」
「くだらないって、何を」
「彼女が、これじゃないかって」
「これ?」
SYOUは哲夫の目の前にピアスを翳した。そして、ぽかんとしている哲夫の前で、ゆっくりとした動作で左耳に通した。
「初めてこれを作ったとき、ああ、これであいつと一緒に生きられるって思った。青い光があんまり綺麗で、この輝きに恥じないように生きなきゃって。殊勝にそんなことを考えてた。ペアを分け合った叔母は、手紙を添えてくれた。
有名な格言が、そこには書いてあった」
「それが、……あのツアラトストゥラか」
「そう」
SYOUは耳から手を離して諳んじた。
「〝おお、わたしの兄弟たちよ。あなたがたは豪胆であるか?目撃者のあるところの勇気ではなく、もはや見ている神もない孤高の勇気、鷲の勇気をもっているか?″……
あのあと、興味を惹かれて本のほうを図書館で読んだ。文章を覚えるのは得意なんだ、それからあちこちの文章が折に触れて、あたまの中で放電する」
そういったきり、目を細めて黙り込んだ。
……この門を見るがいい。この門は二つの顔をもっている。二つの道がここで出会っている。どちらの道も、まだだれ一人その果てまで行ったものはない。
このうしろへの道、それは永劫へとつづいている。それから前をさして延びている道、 それは別の永劫に通じている。
この二つの道は相容れない。たがいに角つきあいをしている。だが、この門で、両者が行き会っている。この門の名は、上にかかげられているとおり、『瞬間』である……
「……SYOU」
黙ったままのSYOUに、哲夫は語りかけた。
「せっかく来たんだから、わかるように話してくれ。あの子を、猫の生まれ変わりみたいに感じてると、つまりそういうことか。それで、惹かれたのか」
「生まれ変わりのわけがない、シャラが死んでまだ八年なのに」
「でも、お前はそう感じているんだろう?」
答えるまでに、しばらくの間があった。
「思い込みと言えばそうだけど、そういう方向で考えれば、自分にとっていろんなことに説明がつく。 つまりは、それだけのことかもしれないし……」
「……なにもしなかったなら、何をしてたんだ。ベッドに座ってただ話をして終わりか」
「俺にだけ会いたくて、そのために生きてきたと、そういってた」
「そういうファンは多いよな」
「……」
「ほかには」
「さすがにいちいち打ち明ける趣味はないよ」
「本当に会話だけで、指一本触れずに別れたと?」
「背中を撫でてくれというから、撫でただけだ。その記憶だけで、一生を生きられると言ってた」
「それで今度は、もう会えないとわざわざ手紙か。で、その思い出だけでは済まなくなってるのはお前のほうなんだな。勝手に思い出の愛猫に重ねて」
返す言葉がない。起きたことを並べてみればその通りだった。哲夫は呆れたような表情で、腕組みをして首をかしげた。
「お前、アイドルだのカリスマだの言われてファンもべったりついて、やる気満々の女には不自由しないはずなのに、なんでそんな芝居みたいな台詞にころっといかされるかな。案外、純情乙女文学みたいな分野だけ留守だったのか」
……どうせ伝わらないんだから、話さなければよかった。という後悔とともに、SYOUは別の仮定について考えていた。ほかに目的があってあそこにいるなら、どこにも出られないと言いながらあの場を自由にしている得体のしれない存在だ。詩織は、しかも、外で彼女にあったと言った。そして、血の匂いがする、普通の人間じゃないと。一番不思議なのは、いったいどこであれを手に入れたのか……
SYOUは両手でコーヒーカップを抱えるようにした。そして、冷めかけたコーヒーを、ゆっくりと飲んだ。そのまま口を開かないので、今度は哲夫が語りかけた。
「……お前の中で一番大事なものにその子が重なったとしても、不思議はない。女は従来、猫に似てるもんだ。だけど、会えないと言ったなら、それは悪いけどお前にとって何よりだ。
しかしまあ、その彼女がピアスを送ってくれたというなら、なんとも妙な話だな」
「……」
「ま、それはいい」
哲夫は自分のカップをとんとテーブルに置くと、SYOUの顔を覗きこむようにした。
「SYOU。もう、終わりにしろ。ほんとうに何もしてないなら、何よりだ。どっちにしろ、お前にどうこうできる話じゃない。聞いた印象では、その子は案外、一度来た客を逃がさない手管にたけているプロともいえそうだぞ」
「……生殺与奪が云々言っといて、それか」SYOUはぽつりといった。
「あれは」
哲夫は頭を掻いた。
「お前にいろいろ吐き出させたくて、正直多少煽った、ごめん。
こう考えろよ。俺達の目に見えないだけで、手の届かない悲劇は世界中のあちこちにある。彼女のいる場所もその一つだ。
おふくろさんのことなら、お前の取った行動は、息子としてある意味当然で健全だ。だが彼女にとって、お前はただの、多くの客のうちの一人なんだ。それに体に触れていないなら、何の後ろめたいこともない。
な。今なら間に合う。引きかえせなくなる前に、忘れろ」
覚悟していた反論も抗議も、なにひとつなかった。SYOUは静かに哲夫の目を見返し、冷えた声で言った。
「整理してくれてありがとう。確かに、その通りだ」
「……納得してないよな、お前」
「彼女はただののら猫だと思うことにしとくよ」
「……」
「道端の、通りすがりのね」
SYOUはラウンドショルダーを手にした。そして、淡々とした口調で翌日からのスケジュールを聞いてきた。頷きながら説明を聞く表情は、もう、いつもの彼だった。
「もう話のほうはいいのか。仕事、大丈夫、……か?」
「うん、大丈夫。きょうは急に押しかけてごめん。いろいろとありがとう」
「いや……」
「じゃ、明日また事務所で」
そういうとくるりと背を向け、玄関に座って靴の紐を結び始める。何か声をかけようと思うが、言葉にならない。言うべきことはもう全部、言ってしまったのだ。
SYOUは肩のあたりでいつものように指をひらひらさせると、初夏を思わせる日差しの中に出て行った。
ぱたんと音を立ててあっさりと閉じられた扉を見ながら、哲夫は思った。
彼が望んだような言葉を、多分俺は言えていない。
いや、あいつ自身に心のドアを閉じさせて、どこにも踏み込めないまま、終わってしまった。
……このままでは済まないだろう。
その予感は、確信に近かった。
愛と不審、信頼と裏切り。それはSYOUの起爆剤になる。
今、多分、彼はぎりぎりだ。
今なら間に合うと言ったが、もしかしてもう、自分の思うラインの向こうに、彼は踏み出してしまっているのかもしれない……。