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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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駄目だ

 家具の少ない殺風景な居間に、午後の陽光が差している。

 中国の某都市に作る大規模な地下トンネルの件で、日本に技術協力を要請するため、国務院の交通運輸部の誰それが来日するとかいう退屈なニュースがテレビから流れていた。

 早口の中国語を聞きながら、SYOUは手元の白い封筒を眺め、眺めたまま封を破れずにいた。


 帰宅して、いましがた、ポストから取り出してきたばかりの手紙。

 差出人の名前は、ない。

 だが、香りがする。

 あの部屋の。

 あの白い部屋にだけ漂っていた、花のような香料のような水のような切ない香り。

 手に持って振ると、小さなものが中で揺れる感触があった。


 あなたが望むなら、きっと叶うわ……


 これと対面したら、新たな現実と、いや、新たな夢と立ち向かうことになる。その予感に、体の奥からよくわからない震えが湧き上がっていた。

 あれほど望んだのではなかったか? あいつがこの手に戻ることを。それがこんなに恐ろしい瞬間なるなんて。

 最後にリンと会ってから、もう三週間。

 澪子からもヤオからも、組のほうからも、もう何の呼出しもない。自分の仕事は終わったのか。

売る側と、買う側。それだけのつながりだった、リンと自分。だが、一縷の望みをリンの最後の言葉につないでいたのは否めなかった。詩織が、ピアスの件を最後の頼みの綱としてSYOUを呼び出したように、自分にとっての細い糸はその言葉だけだったのだ。


 あれから何となくひっかかって、傷の男、ヤオ・シャンのその名前の意味を、読みから調べてみた。

 咬傷(ヤオ・シャン)

 できすぎている。まるで、冗談のようだ。

 お前はよく戦ったんだな、勝ち抜くために。その挙句に去勢されたか、そして彼女は、お前にとっての女神になった。


 ……彼女を憐れにお思いになるなら、どうぞ、また当ガーデンにお越しください。

 なんの慰めもない人生に、あなたの存在だけが光になるでしょう。


 ブラック・ソルジャー。彼女の幸せを望んだのか?

 あそこに閉じ込めて、花盛りの庭を与えて、その先にあるのはなんだ?


 自分はきっと頭がおかしいんだ。SYOUは両手で顔を覆った。昔からそうだ、

 いまに始まったことじゃない。シャラが死んで、八年。十代後半のリンが猫の生まれ変わりだとでも? そうじゃない、ただこの嫌味なぐらいの符合が何の企みなのか、何を意味するのか、誰かに解いてほしい。誰か、正気の誰かに……



 玄関のチャイムに、おーいっ、と低い声で答えて、哲夫は金魚の餌を持ったままモニターを覗いた。

 グレーのパーカーを着てサングラスをかけたSYOUが、俯き加減に立っている。

 たまの休みに、わざわざここに?

 ドアを開けると、SYOUはサングラスを少しおろして、遠慮がちに言った。

「はいっていい?」

「……いいけど。なんだ、驚いたな、急に」

 アパートの裏手は雑木林の公園で、明るさを増してきた緑が大きな窓を満たしていた。

「……相変らず、気持ちのいい部屋だね」

「ぼろい部屋だけどこれだけが取柄でね。借景にて、存分に楽しまれるがよい。散らかってるけど、好きなとこに座ってくれ」

 哲夫は残りの餌を、琉金と出目金の上にぱらぱらと撒いて、ぱんぱんと手をはたいた。SYOUはガラステーブルの前の大きなビーズクッションに腰を沈めた。

「休みの日にうちに来るなんて、お前と会ってから三回目ぐらいか。よほど暇なのか、それとも重大な打ち明け話でもあるのかな」

「いっしょに見てほしいものがあるんだ」

 SYOUは質素なガラステーブルの前に座ると、リーバイスのラウンドショルダーを開け、白い封筒を取り出してばさりと置いた。

「これ、切って」

「なんだ? 自分じゃ切れないのか?」

「うん」

「うんって、お前」

 首をかしげながら、哲夫は引き出しから鋏を取り出した。ひっくり返して、差出人の名前がないことを確かめる。

「……不審物が入ってるらしいから、爆死の道連れがほしいとかいうんじゃないだろうな」

「……よくわかったね」

 SYOUは部屋の隅にそろそろと後ずさると、フードを深くかぶり、膝を抱えた。

「いい歳してよくそんな小芝居ができるな。ガキか、お前」

 呆れ声で言って、哲夫は無造作に封筒の端を細く切り落とした。

 中を覗く。

「便箋が二枚と。あと、何か入ってるぞ、ビニールに入ったちっちゃいもんが」

 封筒を逆さにすると、三センチ四方ぐらいの小さなビニール袋がぽとりと落ちた。中に、薄青いささやかな光がきらきらと反射している。

「あれ、これは……」

 哲夫は注意深く、中からピアスを取り出した。

 振り向いて見たSYOUは、フードを深くかぶったまま黙っている。

「おい! お前が探してたものじゃないか。ピアスだぞ。バカやってないで、こっちに来てみろよ。よかったな。詩織ちゃんからだろ、これ?」

 SYOUはフードの間から目をのぞかせた。

「……本物?」

「当たり前だろ、長年の付き合いの俺だぞ。見間違えるもんか。この爪の特徴、お前のオリジナルデザインだよな」

 SYOUは茫然と哲夫の手元を見ている。

「何でこっちに来ないんだ。嬉しくないのか?」

「……」

 まるで怯えた子供のようなSYOUを見て、哲夫は肩をすくめると、今度は便箋を取り出した。

「これも読んでいいのか。読めばだれかわかるよな? ……なんか、平仮名ばかりだけど、子どもか?」

 SYOUは立ち上がると、フードを外し、つかつかと歩み寄って哲夫の手から手紙を奪い取った。

「哲っちゃん」

 呆れ顔の哲夫に向かって静かな声でSYOUは言った。

「なんだよ」

「一人じゃ判断できなくて、でも相談しちゃいけないことがあった場合、どうやって折り合いをつける」

「俺の場合か?」

「そう」

 首をかしげて少し考えると、哲夫は言った。

「相手と、相談内容の深刻さによるな。信用できる相手ならなおさら、誰にも秘密にしてほしいと約束させることで重荷を負わせることになるし。でも」

 意味ありげに笑うと、先を続けた。

「相手が十分秘密を守れるぐらい大人で、どんなことでも面白がれる好奇心を持っていて、何でも引き受けると答えるなら、すべてを打ち明けるだろう」

 SYOUは哲夫を見たまま、なんだか子供のような心もとない表情をしていた。

「で、そもそもなんで俺があけなきゃならなかったんだ。立ち会う必要のある手紙なのか」

「これを手に取って、読んでいる俺が、現実にここにいると、誰かに確認してほしかったから」

 妙な顔をして黙った後、哲夫は言った。

「……SYOU」

「うん」

「とにかく、俺は、引き受けるぞ」

 答えはなかった。哲夫はSYOUに背を向けるとキッチンに立ち、イエローのケトルにミネラルウォーターを満たして火にかけ、コーヒーミルでがりがりと豆を砕き始めた。

 SYOUはそのまま、クッションの上に腰を下ろした。



 ……ショウ。

 書くのはへたなので、よみにくい手紙になるとおもいます。

 あなたのピアスを手にいれました。どこからどうして、とはきかずに、うけとってください。喜んでくれると、うれしいです。

 大事なことを、お話しします。

 わたしはもう、あなたとあえません。あなたの役目は、おわりました。

 わたしには、わたしの役目がまだあります。

 いろいろ言えなかったことがたくさんあります。

 あなたの話ばかりきいて、わたしのことを話せなかった。ごめんなさい。

 でも、うそはいわなかった。あなたとあうために、それだけを楽しみに、生きてきました。それは、信じて。


 ほんとうはあなたは、危なかったの。

 あそこでわたし相手になにかしていたら、今無事でいられなかったかもしれない。

 でも、あなたは助かった。

 それは、あなたが、あなただったから。


 芸能人として、俳優として、がんばってください。

 わたしは、忘れない。あえてうれしかった。

 夢みたいだった。今でも、いっしょにいた時間が、信じられません。

 いつまでも、だいすきです。

 背中をなでてくれてありがとう。

 いい子って言ってくれて、ありがとう。

 ずっと覚えています。あなたの、なにもかも。

 たった三回しか、あなたにあわなかった。みじかい時間だったから、すべてを思い出せる。

 ひとつだけ約束して。

 あそこの場所がもし世間で明るみに出て、いろいろしらべられることになっても、あなたはいかなかった。それで通して。あなたの足跡はのこしません。ぜったいに、誰にも話さないで。わたしのことも、ヤオのことも、誰にも。

 それならあなたは、最後までだいじょうぶ。

 かならず守ってね。

 わたしを追わないで。

 もう、あいに来ないでください。


 もう何も怖くない。

 わたしは、幸せでした。


 さよなら


              リン



 部屋中にコーヒーの香ばしい香りが広がっていた。

 丁寧にドリップで入れたコーヒーをふたつ、哲夫はそろそろとガラステーブルに運んだ。

 SYOUは二枚の便箋を見つめたまま、黙り込んでいる。

「せっかく戻ったんだから、ピアスつけろよ。ってか、そうか、今度落としたら次はないもんな。大事にしろよ」

ピアスをぎゅっと掌に握り込むと、SYOUは唇を噛んだ。

「さて。こっちは準備オッケーだぞ。打ち明ける気になったか?」

 SYOUは二つの拳を並べると、その上に額を落とし、絞り出すような声で言った。


「……駄目だ」

「駄目?」


 口元に持って行ったコーヒーをそこで止め、哲夫は顔を覆ったままのSYOUを無言で見つめた。


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