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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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胡蝶の夢

 ……嘘だ。

 いや、嘘じゃない。彼女の話は、少なくとも作り話じゃない。

 SYOUは渦を巻いて混乱し始めた頭を整理しようと、ひとつ深く呼吸をした。

 ……わたしにはもう家も家族もない。国籍もない。この世界から出られない。

 いいの。わたしは、いいの。ここでいいの。なにもつらくないの……


 嘘は、こっちか?

 どこから出られないって?

 やはり、違うのか。自分が見ている姿と、本当の彼女の姿は……


「ピアスを持っているというのは……」

 下を向いたまま、SYOUは独り言のように言った。

「タクシーから降りたとき、落したの。それをわたしが拾って、渡した」

「本当に俺のだった?」

「わたしはあなたと一年暮らして、奈津子さんに触らせてもらって写真まで撮ったのよ。間違いないわ」

「……そうか」

 再び黙り込んだSYOUの横顔を、息を詰めて詩織は見つめた。低い声で、SYOUは続けた。

「落としたピアスを渡して、……それで終わり?」

「わたしの歌が好きだと言って、わたしが時々チャペルで歌っていた讃美歌を聞かせてくれた」

「讃美歌?」

 詩織は小声で歌い始めた。


  ……まぼろしの影を追いて 憂き世にさまよい

  うつろう花にさそわれゆく 汝が身のはかなさ

  春は軒の雨 秋は庭の露

  母はなみだ乾く間なく 祈ると知らずや


  おさなくて罪を知らず むねにまくらして

  むずかりては手にゆられし むかしわすれしか

  春は軒の雨 秋は庭の露

  母はなみだ乾く間なく 祈ると知らずや……


 SYOUは胸にひとすじ、食い込むような痛みを覚えた。

 眠れなくて酒ばかり飲んでいた夜、枕元で戯れに詩織が歌ってくれた讃美歌。

 そのときも、おなじ痛みと切なさに襲われて、やめてくれと途中で遮った。


「おかしいと思うでしょう。大学のチャペル以外で、公の場で歌ったことはないのよ。そして最後に、こう言ったの。ニープダワンギュリマ?」

「なに?」

「あとで調べたら、意味はこう。中国語で、〝もう、テニスはやらないの?″」

「……」

「確かに、一時は通っていたあのキャンパスのテニスコートに、最近は行ってなかった。いつの間にか、どこかからじっと観察されてたようで、ぞっとしたわ。

 SYOU、知っている人なの? わたしにはどうしてもわからない。なぜあれが、突然現れたあの人の手にあるのか。SYOUには見当がつく?」

「……全然わからない」

 呆然と呟くように、SYOUは答えた。

「怒られるかもしれないけど、もう一度言っておくね。直感だけど、あの人は普通の人じゃない。普通の世界に住んでる人じゃないと思う」

「もういい」

 俯くと、SYOUはサングラスを取った。

 長い睫を見ながら、詩織の胸の中に渦巻く思いは、ただ、焼け付くような焦りだった。

 もう、これ以上の質問は許してもらえないんだ。

 じゃあ、これで終わり?

 せっかく会えたのに、これでもう終わり?

 やっと謝れた、見たこともあったことも話した。 彼がこれ以上質問をしないなら、今さよならと言われたら、もうわたしたちは会えないの?

 詩織は懸命に言葉を探した。彼につながる言葉。自分につながる言葉。

「……SYOU。あの、ね。あなたが歌をいきなりやめたこと、わたし何の説明も受けてないけど、もしかしたら今度のことと関係がある? わたしのほうは急にレコード会社が積極的に動き始めて、なんだか……」

「そんなこといちいち気にしなくていい。こういう世界で生きるなら、きっかけもチャンスも運も遠慮なく生かしたらいい。俺だったらそうする」

「うん。……ありがと」

 ふたたび、沈黙が訪れた。詩織はSYOUの閉じた表情に向かって、懸命に言葉を繋いだ。

「約束は、守るわ」

「うん」

「奈津子さんて、いい人ね」

「うん」

「勝手に会って、ごめん。あの人は悪くない、こっちから勝手に呼び出したの。

 片耳ピアスをペアで持っているって耳にして、フェイクを作ってでも、SYOUに返したかったの。でも、それは止められた。

 SYOUのことを他人からきくのは初めてで、もっといろんなことを知っていれば、あなたともっとちゃんとした話ができたんじゃないかって思ったわ」

「……」

「ピアスのいわれと、猫ちゃんの話を聞かせてくれたの。わたしも猫好きだから、猫の恋話は切なかった。シャラちゃんとブラック・ソルジャーとか」

「ブラックソルジャー?」

 SYOUは怪訝そうに顔を上げてこっちを見た。視線にすがるように、詩織は語りかけた。

「シャラちゃんに恋してたっていう、スレンダーでケンカの強い黒猫のこと。庭によく来てたって。覚えてない?」

「……あいつ狙いの猫はいろいろ出入りしてたから。黒猫なら、そういやちょくちょく見たかな……」

「喧嘩ばかりするから、飼い主さんが捕まえて去勢しちゃったって。それでも、やっぱりシャラちゃんのことが好きだったって。顔にむこう傷のある、プラトニックラブの猫」

 ふいに、SYOUははっとしたような視線を宙に彷徨わせた。無意識に上げた手で、口元を押さえ、え、と小さくつぶやくと、そのまま視線を宙に固定させた。

 何度かせわしなく瞬きし、そして視線を自分の膝に落とす、その様子を、詩織は不審そうに見つめた。

「SYOU。どうかした? 大丈夫?」

 一点を見つめたまま、SYOUは呟いた。

「そんな……」

「そんな、なに?」

「……」

 黙り込んだSYOUに向かって、詩織は畳み掛けた。

「お願い、話をして。なんでもいい、今までできなかったような話をして。この車から出たら、わたしたちはもう会えないんでしょう。もし何かであなたを怒らせたなら、ごめんなさい。だから、いまだけでいいから、他愛ない話でも思い出でもなんでもいいから……」


 喋りつづける詩織の声は、なにか遠い音楽のようだった。

 SYOUは茫然と、膝に置かれた自分の手を見ながら、知らない霧の中に置き去りにされた子供のような気分でいた。


 ……これは、なんだ?

 なんの符合なんだろう?


 今自分が考えている仮定が、もし現実に起こっているのなら、そのものがたりは、誰の手によるものなんだ。

 たとえばあのナメクジ女? あいつ作の、いけ好かないフェアリーテイル?

 ……そこでは何もかもが可能で、誰も何の責任も取る必要がないの。偶然と必然はすべて繋がり、どんな奇跡も思いのまま。出会うべき人々はみな出逢い、愛しあうべきものは愛しあい、死ぬべきものは死ぬ。……


 捉えた鳥を咥えて帰ってきたシャラ。

 血の匂いのする美しい猫。

 美しい猫に恋していた、傷のある黒い猫。

 神に仕える、奴隷。

 ですから、わたしは安全なのです……


 シャラ。お前の隠し部屋に、ぼくは住んだ。追い出したかったのは、きっとお前の方だっただろう。 だが、お前はぼくを許した。

 お前の優しい和毛の手触りを、ぼくは覚えている。つややかですべらかな、あの高貴な感触。ぼくのすべてを受け止めた、お前の背中。うっとりと閉じられた瞳。


 ……あのね、ひとつだけ、おねがいがあるの。

 背中を撫でてください。

 それが、たったひとつの夢でした……



「昔、……さ」

 視線を前に向けたまま、SYOUは独り語りのようにつぶやいた。

「うん、昔?」

「親子三人で離島で暮らしていたころ、家から小さな保育園までの道が、すごく綺麗で、絵本みたいで」

「……三歳か四歳ぐらいの話ね?」

「風景としての最初の記憶かもしれない。一面の緑の草原の中を、母のこぐ自転車で走るんだ。ハンドルの手前に小さな椅子がある、ぼくの席だ。その椅子にもハンドルがあって、ぼくはそれを握る」

 詩の朗読でもしているようなSYOUの横顔を、詩織はじっと見つめた。口調がどこか幼く、一人称はぼくへと変わっていた。

「草原の向こうには小さな赤い鳥居が見えた。そして森に入る。ある日、入ったとたんに、蝶々が天から降るように舞い降りてきた。同じ模様の、橙色の蝶々。あれはどういう現象だったんだろう、目の前がいきなり花びらでいっぱいになったみたいだった」

「……」

「いきなりすべてが現実感を失った。ぼくはわあ、と声を上げたけれど、母はなにもいわない。黙ってペダルをこいでいる。そして森を抜け、深いエメラルドグリーンが広がる海辺の道に出た。何もかもがあまりに美しすぎる気がした。この世界は本物だろうか、誰かが用意した舞台じゃないのか。ああ、胸が痛いぐらい、自分は幸せで軽く薄い、まるで蝶の羽のように。

 走り続ける自転車の上で風を受けながら、無意識に言葉が口から出てた。

 ……ママ。ねえ、ママ。

 これ、夢なの?」


 語り部のようによどみなく言葉を繰り出すSYOUの目は、いままで見たことのない、透明な未知の光に満たされている気がした。

 落花流水。

 あの字を見たときの戦慄が、別のかたちで詩織の内に広がり、細かく胸を震わせた。


「ええ、そうよ、晶太。

 ママの見ている夢よ。目が覚めるまで、このまま走り続けましょう。

 あのとき、そう母親は答えた。

 ううん、夢じゃないのよ。そう言ってくれたら夢から覚めることができたのに。

 ……ときどき、ああ、この世界はあのときの夢の続きなんだと思う。母は死んでしまったから、もう否定してもらえない。夢の入り口が、見えない。そして、出口も。

 今もそうだ。ぼくは永遠に、実体のない世界に閉じ込められてるんじゃないか。もう出ることができなくなってるんじゃないか。そう思うことがある。そうすると、自分が呼吸してるのかどうかすらわからなくなる。

 ……始まりも終わりもない、薄い白昼夢のような光のなかで」


 語りながらSYOUの脳裏には、一つの映像が浮かんでいた。自分の肩に顔を埋め、子どものようにしがみつく、サマードレスの若い女性。指を開いて、幼子を守るようにその全身をしっかりと抱きしめる自分。

 頬に痣のある白い横顔は、あの男に蹂躙されていたころの、若い母のものだった。

 ……いや。抱いているのは、ほんとうに自分?

 それとも自分によく似たあの男?




 詩織は、もう一度その唇が開いてくれるのを待ちながら、かすかに先の震える長い睫を、いつまでもただじっと見つめていた。


 そのさきは、なかった。



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