血の匂い
「珍しいじゃない、あなたから電話なんて。いつでもどうせ忙しいだろうと思って、こちらからはできるだけかけないようにしていたのよ」
『うん、わかってた。今度はいつまでこっちにいられるの』
広い公園の中ほどにあるカフェの窓際で、若芽の芽吹き始めた公園の複雑な色合いを見ながら、奈津子は今しがたまで見ていたメモ帳を開いた。
「来週にはロスに帰るんだけど、何か急用?」
目の前でガレットにナイフを入れている夫に向かい、空中にS、Yと続けて字を書いて見せる。三文字目で了解した夫の正臣は、多少迷惑そうだった表情を笑顔に変えた。
『急用っていうか、少し聞きたいことがあるんだ。今、いい?』
「うーん、後でいいならそのほうがゆっくり話せるけど……」
興味深そうにしていた正臣は、手をひらひらと横に振ると、オッケーサインを出して見せた。昼下がりのカフェには、離れた席に一人座る老人のほかは客もいなかった。
「いえ、いいわ。少しなら聞くわよ。なに?」
『日本に来て、誰かと会った?』
「そんなざっくり言われても。誰かって?」
『なんていうか、俺の知り合いというか、俺の名前を出して呼び出した人というか。女性で』
奈津子ははっと脳裏に浮かんだ記憶と、おそらくSYOUの尋ねたいことが一致しているのを瞬時に察し、その上で詩織から、会った事実そのものを口止めされている現実との間に挟まって、言葉を失った。
「……あの」
『会ったんだね。だれと、とは聞かない。ひとつだけ答えてほしいんだ。ピアスのことが話題に出た?』
奈津子は動揺した。これに答えれば、詩織との約束を破ることになるだろうか。だが、ピアスに関しては自分の口から尋ねたいこともあった。えいと決意して、奈津子は口を開いた。
「呼び出されたんじゃなく、話しかけられたわ。あなたのファンの女の子に。落とすのが怖くて、めったにしないピアスをその日はつけてたのよ。そしたら、すみません、その片耳ピアス、SYOUのと同じですよねって」
『……』
するすると作り話が出てくる自分の口が、どこかで淀まないように細心の注意を払いながら、奈津子は綱渡りのような気分で続けた。
「同じかしら、似てはいるわよね、でも違うのって答えたら、最近SYOUがそれなくしたらしいって噂になってるんですって言ってたわ。ちょっとよく見せてくださいって。以前インタビューで一番の宝物って答えてたからって。なくしたって、ほんとなの?」
SYOUは答えない。怪しまれないように、奈津子は何気なさを装って語り続けた。
「あなたももしかしてファンなんですかっていうから、ええ、わたしも気になってたのって答えたの。だから似たのを買ったのよ、って、適当に相槌打っといたわ。会話はそれだけ。晶太、今ピアスは手元にある? ただ、つけてないだけ?」
テーブルを挟んで口元に紅茶を運んでいた正臣の手が止まって、緊張した目つきでこちらを見ていた。
『……実は、なくした』淡々と、SYOUは言った。
「やっぱり、そうなの。落としたの?」
酷いことを聞いていると思いながら、こちらから言いだしたいことへ近づけるための手順だと、奈津子は自分に言い聞かせた。
『わからない。いつの間にか、なくしたんだ』
「晶太」
ひと呼吸おいて、奈津子はゆっくりとした口調で呼びかけた。
「ね。大丈夫? あれがどんなにあなたにとって大事だったか、わたしは知ってる。もしいま、あれが精神的にどうしても必要なら、わたしのところにあるあの……」
『いいよ。それはそれだ、奈津子さんのものだから』
「貸してもいいのよ」
『そこまで切羽詰まってないよ』
「ならいいんだけど、もしあれが本当にあなたにとって蓋な……」
そこまで言って思わず口を抑えた。電話の向こうの空気が一瞬凍ったのが、瞬時に伝わった。
ややあって、沈黙の向こうから、SYOUの落ち着いた声が聞こえた。
『……ごめんね。いろいろ、面倒掛けて』
「……」
『俺別に怒らないし、大した問題じゃないから、ただこのさい、作り話じゃなく本当のことを言ってほしいんだ。こちらから名前は出さない。その<ファンの子>は、わりと世間に顔を知られている女性だよね?』
「……」
『で、そのピアスのいわれについて、少しは話をしたんだ』
「……晶太。もう、いじめないで」
奈津子はため息交じりに笑ってみせた。
「あなたのことを心から心配している人がいるのはいいことよ。少なくとも、わたしにとっては嬉しい話だわ」
『心配してる。そういう会話があった、ととっていい?』
乾いた口調に、奈津子は焦りを覚えながら答えた。
「その前に、いっとくわ。わたしは熱心なファンの話をしているだけよ、わかってる?」
『わかってる。いましているのは、街中で偶然会った熱心なファンについての話だ』
「じゃあ、いうわ。わたし探しますって、出てくるまであきらめないって。貸してくれって言われたけど、断ったわ。見たことのない顔じゃない。これでいい?」
『……』
双方気まずい沈黙を挿んだのち、SYOUは一言付け加えた。
『ありがとう。最後にひとつ頼みたいんだけど。もしまた同じ、熱心なファンから“偶然話しかけられる”ことがあっても、もう口をきかないでほしい』
「……わかったわ」
唐突に電話は切れた。
奈津子は茫然と、手元の携帯に視線を落とした。
「どうしたの。大丈夫? 何かもめたの?」
正臣が心配そうに聞いてきた。奈津子は、冷えたガレットの乗っている皿を眺めながら答えた。
「……やっちゃった。わたし、……」
そのまま額に両手を当てると、奈津子はテーブルに肘をついた。
「あの子にだけは嘘をつけないの。ああ、まいった……」
奈津子のティーカップに、白い紅茶ポットからダージリンを注ぎながら、正臣は言った。
「彼がいる限り、きみの人生は退屈とは無縁そうだね」
呑気な夫の一言に、奈津子は顔を上げ、ふっと笑みを返した。
「お疲れでーす」
「はい、お疲れ様―」
グラビアの仕事を終え、ハウススタジオを出ると、街はもう群青に沈んでいた。
「どうする詩織ちゃん。たまには寿司でも食いますか」
マネジャーの裕二にそう言われて、詩織は携帯を覗いた。近くにあるテレビ局での次の仕事まで、夕食を挿んで三時間。中途半端な時間だ。おしゃべり好きで大食いの裕二とあまり長時間付き合いたい気分でもなかった。
「最近よく携帯覗いてるよね、何か待ってんの」
「あのさ。わたし、ちょっとあいたい友だちがいるんでいったん放牧して。いいでしょ、きちんと連絡するし時間通りに局入りするから」
無神経な裕二の物言いに、自分もストレートな物言いで返し、あ、別にいいけど携帯にはちゃんと出て。という返事を背にして、詩織はサングラスをかけると大股で表通りに歩み出た。
あいたい相手などいなかった、ただ人ごみに紛れて流れたかった。足速に人をかき分ければ、多少知られた顔でも振り向く人はあまりいない。都会のいいところだ。最近できた雑貨店でも覗こうかと、ひと気のない路地を曲がったその時、いきなり誰かに肩を掴まれた。
ぎょっとして振り向いたその先に、光を通さないサングラスをかけてフードをかぶった、見慣れた顔があった。
中高な顔、高い鼻と紅を塗ったようなかたちのいい唇。
「しょ……」
開きかけた詩織の唇に人差し指を当てると、SYOUはそのまま詩織の腕を掴んで、ビルの裏の自動販売機の陰に強引に引っ張っていった。
口もきけないでいる詩織の顔の横に手をついて、SYOUは低い声で言った。
「待ち伏せみたいな真似はしたくなかったんだけど。とりあえず、怪我、もう大丈夫か」
「う、うん」
「そうか、よかった。車が近くに止めてある。中で話さないか」
「……」
少し間隔を置いて歩き、立体パーキングに止めてあるSYOUの愛車、コルベットの助手席に滑り込む。 車オタクの詩織の友人から彼が中古で買ったものだった。
少し前まで、自分の定位置だった場所。
SYOUは喋らない。黙って前を見たまま、サングラスもかけたまま。
あれほど待ち望んだ瞬間がいきなりやってきても、自分から口を開くことができない。ただ突然のことに苦しいほど鼓動を高鳴らせながら、膠着状態ををほどいてくれるSYOUのひと言を、息を詰めて待つしかなかった。
ああ、それにしても。なんて、胸が痛くなるくらい美しい横顔なんだろう。この座席がどれだけ贅沢だったか、今更ながらに詩織は確認していた。
「なぜあの人と会った」
切なさがはち切れて心の膜を破りそうになった頃、SYOUはぼそりと言った。
「あの人……」
「この件に関しては、絶対叔母にかかわってほしくない。一切引き入れたくないんだ。今だって、もう十分にあの人を困らせてる。俺が一番したくなかったことだ。人生の節目節目で、どれだけ世話になってきたかわからない人なんだ」
「………」
「今回の件がどれだけきな臭い話か、きみだって少しはわかってるだろう。二度とあの人と会わないでくれ。俺自身、きみと接触すること自体厳重に禁じられてるのに、禁を破ってこうして会って頼んでるんだ、ペナルティ覚悟で。結構打たれ強い自分でも正直、二度とあんな目にはあいたくない。察してくれ」
詩織は数秒考えると、用心深く口を開いた。
「ペナルティって、罰金?」
間抜けな質問に、SYOUは思わず呆れ声を出した。
「おやじさんと、……話はしてないのか。いや、知らなくていいけど……」
「父とはまともに話をしてないの、わたしの話なんかろくに聞いてくれないし。
あんな目って、どんな目?」
「……もういい、そっちは」
「父はただ、メンツをつぶされれば倍にして返すのが仕事だから、それなりの代償は払ってもらった、といってただけ。とにかく二度と会うなって。ピアスの事情に関してだけは、間接的に、澪…… いえ、聞かせてくれた人がいて。
悪いのはわたしのほうだわ。あなたと会えたら、まずまっ先にそれを言いたかった。謝りたくて、今日まで、謝りたくてそればかり考えてた。知らなかったの。あのピアスがあなたの……」
「それはもういい、きみは知らなかった。俺が何も言わなかったから。暴力をふるった俺は最低だ、謝るならこっちだ。けどもう済んだことだし、お互いその話はやめよう」
「じゃあ、わたしの話を聞いてくれる? 質問に答えてくれるの? そのために会ってくれたの?」
「こっちから聞きたいことがあるから来たんだ。きみが電話で言った、ピアスを持っている人っていうのは、あの人…… 奈津子さんのことじゃないね?」
「違う」
性急な質問に、押されるようにして詩織は答えた。
SYOUはそこでいったん黙り、口元に握り拳を当てた。
違うというなら、あとはひとりしかいない。……この先を、どうあっても聞かねばならない。自らなじった詩織に、頭を下げてでも。
「……わたしから、話していい?」
黙ったままのSYOUに、そっと囁く。返事はない。その沈黙を肯定と受け取って、詩織は勝手に語り始めた。
「わたしが言った人なら、……きれいな人。髪の長い、なんか現実離れした、見たところ、十六から十八あたりの……」
ハンドルに置いたままのSYOUの左手が、ぴくりと動いた。
「発音になまりがあったから、たぶん日本人じゃない、と思う」
「どこで会った」
「どこって、道端よ。大学のMキャンパスの近くの」
「道? 外で?」
「タクシーから二人連れで降りてきたわ、男の人と」
「どんな」
「そっちも、普通じゃない人。父の事務所に出入りしてる連中と同じ匂いがする、隙のない人。背が高くて、頬に傷のある……」
「……」
「はっきり言うと、女性のほうも同じ。わたしは嗅覚が鋭い方なの。あの人からは、なんだか、血の匂いがした」
いきなりばんと、SYOUは握り拳で窓をたたいた。黙れという合図なのか激情なのか、とにかく詩織はびくりと体を震わせて黙った。SYOUの全身から、見えない火花が散っているようだった。
やはり、……知ってる人なんだ。
詩織の中で、猜疑は、確信に変わった。