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酔 迷 宮  作者: pinkmint
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挿絵(By みてみん)



 背すじを伸ばしてデスクチェアに座る。

 雨畑硯に水を落とし、鈴鹿墨を垂直に立ててひとつすっと息を吸う。

 SYOUはゆっくりと墨を磨り始めた。

 両方とも、東北での生活を始める前に、奈津子叔母から送られたものだ。

 半紙に筆を降ろす前の一連の動作は、書の世界、墨と筆の世界に今の自分を引き入れるための儀式であり、それらの香りを初めて嗅いだころの自分、過去の自分に立ち返るための、通いなれた路のようなものだった。

 常日頃自分を覆っている、動じない芸能人、SYOUとしての鎧。

 墨の色が濃くなるごとにアルファベットの名前が溶けて、その下に埋もれていた漢字四文字の名前が浮き出てくる。


 柚木晶太。


 この世で一番思い出したくない男と愛しい猫を同時に失った、十四の夏のあの事件の後。戸籍上の父親は離島から本土に戻り、東北の診療所に自分と母を呼んだ。

 遺伝上の父であるかどうかは別にして、ともかくも「父親らしい父親」になるべく努力してくれた彼、賢治と、口数の少ない微笑みを伴って家庭に戻ってきた母親と、しばらくは平和な毎日が続いた。

 東北の寒村の高校に通い、ごく普通の高校生として暮らした日々。

 けれどその中で、日が経てばいずれ、自分の中の何かが形をなして成るべきものになる。という漠然とした期待は、この山村の風景の中においては何一つ変わらない毎日が続くだけだ。という絶望的な確信にかわっていった。

 鬱憤を紛らわせるように、どうにかこうにか強引に見つけ出したバンド仲間と、ギターをかき鳴らして文化祭で気勢を上げた。そのときから、SYOUの周りにはわらわらと女子の取り巻きができはじめた。それが、男子連中の反感を買うきっかけになったかもしれない。

 知る人のいない土地で不安に駆られた母は、村の小さな教会に出入りするようになった。そこにはイギリスから派遣されたまだ三十代前半の神父がいて、母の相談に親切に乗ってくれていた。

 どこに行っても目立つ容貌の母と、地元の女たちに特に人気のあった、物腰のやわらかな青年神父。ひと目を引くには十分だった。

 懺悔室で過去の苦しみを打ちあけたそのときから、懺悔室を別の用途に使っているとあらぬ噂が立ちのぼり、聞こえるか聞こえないかのところでSYOUはその関係を揶揄され続けた。

 ある日、担任教師が、日ごろから口数の少ない晶太の不遜な態度を荒い言葉でなじったついでに、その噂を口の端に乗せた。気が付けば晶太はポケットに手を突っ込んだまま教師を蹴り倒していた。教師は教卓で後頭部を打ち、一時失神した。鬱憤が爆発したついでに背後であおっていた噂好きの連中と乱闘になり、複数の生徒に相当のダメージを与えた結果、晶太は一か月の停学を言い渡された。

 母を恨むのは間違いだ。どれもこれも、仕方のないことだ。そのぐらいのことは、もう晶太にもわかっていた。

 母親は家事をないがしろにしたわけでもない、おやじを馬鹿にしたわけでもない。従来の寂しがり屋で、よく近所づきあいをし、お年寄りの話し相手になり、村の寄り合いで母に下心を丸出しにする男どもにことさらに冷たくすることもせず、だが大事な話は信用できる神父のところに持って行っただけだ。

 結局どこへ行っても同じなのだ。村の行事で男たちが母をちやほや褒めれば女房たちはへそを曲げ、教会がらみとなれば好奇心も手伝って噂はすぐに行き渡る。そして父親の診療所は女たちの井戸端のいい舞台だ。どっちに転んでも両親がうまくやっていける素地はなかった。

 父はとにかく黙して仕事に打ち込み、晶太はバンド友達の家で遅くまでギターを鳴らした。教会というよりどころも失った母が一人待つ家の中は、ただ静けさばかりが支配していた。

 奈津子叔母が二年ぶりに晶太のもとを訪ねてきたころ、進級できるかどうかぎりぎりという晶太の出席状況にさえ、父親はもうろくに関心を払ってはいなかった。だが母親はさすがにひどく心配して、奈津子に説得を頼んできていた。

 久しぶりに会う奈津子が、自分を駅前の小さな喫茶店に呼び出した日のことを、SYOUは昨日のことのように思い出す。

 蔦の絡まるチャペルで、祈りをささげた日……

 昭和のはやり歌が気怠く流れる店内で、薄いドリップコーヒーを飲みながら諭すような静かな語りかけを聞いていた。

 自分がどう生きたいか、ちゃんと考えて。自分の問題なのよ、親の人生は親の人生よ。もう誰のせいにもしないで、あなたの素質を大事にして。

 晶太、あなたはどう生きたいの。どんな仕事についてどんな大人になりたいの?

「ここから出たい」

 そう答えたのははっきり覚えている。大恩のある叔母を失望させたくないという思いはあったが、胸を焦がすようにしてくすぶる「殻を破って本当の自分として生きたい」という切望が、どっちの方向を指すものか、自分でもよくわからず言葉にするのは怖かったのだ。

 教師を蹴り倒し、級友を殴った時、自分は全く手加減ができなかった。賢治が無料で治療すると申し出たうえ慰謝料をばらまいて、なんとか事なきを得たが、自分はいつでもああなれるという恐怖感が、それからまた晶太自身の新たな傷となっていた。

 だが、たかが幾人かの女の子と付き合っただけで誰それの彼女を盗っただの母親譲りだのと言いたてられるこんな僻地に閉じ込められるのは、もう限界だった。

「高校はちゃんと出る。とにかく出て、東京の大学を受ける」

 顔を上げて、晶太はきっぱりといった。

「本当?」

「ほかに今、俺に道はないと思う。ここから出るために、勉強する」

「うん、それでいいわ。あなたはとびきり頭がいいんだもの、きちんと自分を生かす場を見つけるべきよ。決心ついたのね。よかった」

 奈津子はほっと笑顔を浮かべ、そして、これはわたしのはなしだけどね、と前置きをして語りだした。

「あのね、わたし結婚するの。ほら、覚えてる? 渋谷の警察署」

 言いにくそうにしながらも、その声はあたたかく弾んでいた。軽く言われた二文字には、受け身の用意をしていないのにどんと胸を押されるぐらいの衝撃はあった。

「あなたが外泊した挙句いとこの瑠梨ちゃんを泥酔させて、入院騒ぎを起こしたとき。呼び出された警察署で、わたしがあなたを平手打ちしたことがあったわよね」

「ああ、……あったね」

「実はあのとき、後ろで見ていた刑事さんと、あの秋からお付き合いしてたの。街中で偶然会って、それから、実は一目ぼれです、とか言われて」

「へえ。……へえ、そうなんだ……」

 晶太は心底驚いていた。あの叔母が、そんなきっかけで、しかも結婚に至るまでのつきあいをという、率直な驚きだった。

「あちらは平たく言ってバツイチで、こっちもいろいろあってのことだし。まあ事実婚という形もなんだから籍は入れましょうって、そんな感じ。お式とかはやらないで、二人で旅行に行くぐらい。この縁は、実はあなたのおかげでもあるのよね。お礼言わなくちゃ」

「……そっか」

 おめでとうを言わなければならないのに、何か喉元に引っかかるものがあった。叔母はその空気を呼むかのように、間を空けずすらすらと話した。

「彼、本当はおうちが資産家でたくさんビルを持っていて、お勤めする必要もないぐらいだったんですって。でも、いつか刑事になりたいって夢があって、頑張ってそれをかなえたんだけど、いろいろ子どもにかかわる事件を見てるうち、アメリカに渡って現地の友人がやってる子どものためのNPOに参加したいとか言いだして。お金はそっちに投資したいって。だから、来年からアメリカで生活することになるかもしれないの。実は先月、わたしがあっちで開いた個展が評判よくて、企業のロゴとか実はいろいろ仕事が来てるのよ」

「おめでとう。いろいろ、すごいね。奈津子さんなら、きっと活躍できるよ」

やっとそれだけ言って、言葉にできないちいさな悲しみを、晶太は確認することも拒否してそっと胸にしまった。


 六月の初め、真夏を思わせるかんかん照りの道を買い物から帰ってきた母は、足がふらつくと言って、玄関を入るなり倒れた。買い物の袋が破れ、大粒の無花果と夏みかんが廊下に散らばった。

 晶太はすぐに診療所の父親に連絡を取り、そして救急車を呼んだ。川にかかる大橋が工事中とかで、迂回して道をたどる救急車はなかなか到着しなかった。 

 母は晶太の手を握りながら、歌うように譫言を言いつづけていた。


 晶太、無花果食べて。おとうさん、夏みかん食べて。好きだったでしょう。

 ああうれしい、今日は二人ともおうちにいる。


 ……あなたは大丈夫、あなたは大丈夫。晶太、あなたは大丈夫だから。

 わたしがお祈りするから大丈夫。ずっとお祈りしてたから、きっときいてくれてる。

 林檎とぶどうと無花果、みかん、柿の実は、干して……

 ねえ、蝶々が降って来る道に、また、いこうね……


 救急車が到着すると同時に、晶太が懸命に握りしめていた母の手から力が抜け、瞼を閉じた母の顔がゆっくりと横を向いた。何度その名を叫んでも、もう瞳は開かなかった。背後で、駆け戻ったばかりの父が立ち尽くしていた。

 脳梗塞。

 三十九歳だった。


 施設出身の母、ほのかには、家族以外に身寄りもなかった。宗教色なしで行われた小さな葬儀だったが、その前に青年神父がそっと家を訪れ、母の亡骸を前に祈りの言葉をささげてくれた。そして、わたくしたちはなにひとつ恥じることはしていません、奥様は孤独で優しい人でした。どうか信じてあげてください、と言って、目元を赤くして帰っていった。

 母を送った日の夜、父が布団をかぶって男泣きするくぐもった声を、晶太は聞いた。

 今更信じても、もう遅い。大事なことに気づくのは、いつだって誰だって、少しだけ遅すぎるのだ。

 遺骨は、教会裏の無宗教の墓地に納められた。

 賢治は新たに買ったその墓に自分も納めてもらうつもりだと言い、俺を送るのはお前の仕事だぞと晶太に言って寂しそうに笑った。この小さな村で生涯をすごす決意を新たにした父の背中は、いつの間にかずいぶん縮んだように晶太には思われた。

 やがて巡りきた春、晶太は東京の国立大学に合格し、その大学名で村中を驚かせた。気のしれない余所者が、村始まって以来の秀才に変わった瞬間だった。


 上京の前日、晶太はひとり、母の墓を訪れた。洋形の、横長の石に、 和 と刻まれただけの墓の上には、背の低い八重桜がしだれるように濃いピンクの花房を揺らしていた。跪いて手を合わせると、胸の中でそっと、晶太は語りかけた。

 おれ、東京に行くよ。ここは花もきれいだし、母さん、寂しくないよね。

 あまりに若くして逝った母の、誰もが羨むあの美しさは、今となってはいったい何のためだったのかと晶太は思った。それさえなければ母は平凡で穏やかな人生を送り、誰にでも訪れるささやかな幸せを享受して生きられたかもしれない。自分という人生の重荷を負うこともなく。

 母の背負った業。自分の背負わされた業。少し色合いの似た、同系色の業。人生は公平ではなく、因と果を追いながら、それぞれの色合いで流れつづけ、その行く先はあの夢の川のように霧にかすんでいるのだ。

 雉がどこかで甲高い声で啼いた。頭上の枝が揺れ、墓前に跪く晶太の頭に、ささやくようにぽとりぽとりと花房を落とした。


「永永無窮」

 道に迷うとよく書く字だった。

 永字八法。

 永という字には止めはね払い、習字におけるすべての筆遣いの基本が含まれている。奈津子の書道の師、大森犀雨氏に教わったことだ。

 ゆっくりと半紙に筆をおろし、まず、永 の字を書いてみる。

「あなたの字に、わたしは永遠を見ました」

 あの大家にそう言われた十四の時。

 あれ以来、どういうわけか、あれ以上の字を書けたためしがない。

 そういう瞬間が、きっと人生にはあるのだ。

 永、永、永。

 母は永遠の流れの中に消えた。大森先生の奥さんが行った世界と、シャラが消えた世界と、自分がいずれ行く世界と、そこはどこかでちゃんとつながっているのだろうか。

 書き連ねていくうち、その字の連なりで迷路の森に入り込んでゆくような眩暈を感じて、晶太は筆を置いた。

 目を閉じて、ゆっくりと息をする。

 再び目を開けたとき、自分の漢字の名前に、アルファベットが重なっていた。やがて漢字の下書きは消え、S Y O Uの四文字だけが眼前に残った。


 いま、ここ。自分がいる次元。

 現実での、目下の問題。

 ピアスにかかわる、三人の女性。

 SYOUは携帯を取り出すと、奈津子の番号を打った。


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