罠
「なかなか順調に進んでるようじゃないか、例の撮影」
哲夫は二杯目のビールを口元に傾けながら言った。
「現場での勘も戻ってきたみたいだし、監督からの受けもいいし。どうだ、仕事楽しいか」
「そんなこと言われても」
まともに答えようとして、哲夫の言葉に込められたかすかな皮肉の色合いが気になる。行きつけのアイリッシュパブはその夜、客もまばらで、蓄音機や古い電話のディスプレイ棚の影のいつもの二人席はフロアから切り離されたような風情があった。
「まあ、楽しくなるように仕事してるから。自分のためにも、まわりのためにも」
「お前最近いやにまともだよな」
「社長の受け売り」
哲夫は口の中でケッというような音を出した。
「事務所のために律儀に銭を貢いでるお前って、本当に健気だと思うよ。いつかそれがお前のためになるときが来ればいいけどな」
「貢ぐって。来る仕事のひとつひとつを宝だと思って大事にしろって言ってたの哲っちゃんだろう」
「今は、な。先のことだよ。この先、自分の意思でしたい仕事ってあるか」頬から耳まで酒に染めて、哲夫が尋ねる。
「自分の意思? ……」
少し考えて、SYOUは言った。
「ドラマや映画もいいけど、バラエティで番宣しなきゃならないのが嫌だ。昨日収録の奴はしゃれにならなかった」
「Wボギーのヒロが司会のやつか。うまくやってたじゃないか」
「ここひと月ふた月で、一番恐ろしかった体験を上げてくれってのがあったろ」
「ああ」
「ありすぎて答えられない」
哲夫は苦笑した。
「正直言って、お前が何を言うかハラハラしてたよ」
「腹を下した後のトイレの個室にすぐに次の客が入った時、て答えてヒロさんに叱られた」
「イケメン俳優が答える内容じゃないってな。あれウソだろ」
「ウソだよ」
「ヒロは俺の学生時代の後輩でもあるんだぞ。うちの俳優が下品で済まん、と俺から謝っといたよ」
一緒に笑ってから、SYOUは真顔になって言った。
「ほんというとさ。心理的にものすごく怖かった瞬間は、結構意外なところにあったんだ」
「意外?」
「哲っちゃんと一緒にいたときだと、どこだと思う」
哲夫は自分のコップにビールを注ぎながら首をかしげた。
「俺とか。マンションに呼ばれたときと、いや、あの瞬間は一緒じゃないか。一緒……。
ああ、クラブで組長に睨みつけられてるときはヤバかったな。背中がびっしょりになった」
「そう。そのとき」
「そのときって、ちっとも意外じゃないぞ。お前どっちかというとおれより落ち着いてたよな」
「顔を上げて、あいつの顔見て、直感で思ったんだ」
SYOUは白い皿からカシューナッツとア―モンドを取り、掌で転がした。
「ああ、本来俺がいるべきはあっちかもしれない。俺が将来座ることになるのは、あの椅子かもしれない。瞬間、その自分の姿さえ見えた。派手なスーツを着て、あの椅子に座ってる自分。まるで未来を透視するみたいに」
「……」
「それを見たら、今までの自分に対する違和感が、いきなり俺の中ですんなり消滅した。直後にすごい恐怖感が湧いてきた」
哲夫は手元のコップをテーブルに置いてうんざりした顔で言った。
「冗談としては面白いけどな。……お前、いちどヤクザの役でもやって面倒くさい憑き物を落としとくか?」
「冗談だよ」
「そんな繰り言ばかり言うなら、ほんとにその蓋とやらがどこかから出てきてくれることを切に望むしかないな」
哲夫はポケットから取り出した煙草の空の紙箱を握りしめると、ジャケットの内と外をせわしなく探り、ポケットの中のものをひとつひとつ乱暴に机の上に放り投げ始めた。ライター、携帯、ハンカチ……
「何やってんの」
「煙草が切れた」
「俺のでよければ……」
「キャスターは軽くて好みに合わないんだよ」
彼はいつも好んでショートピースを吸っていた。ばさばさと頭を掻くと、椅子を後ろに蹴飛ばすようにして立ち上がった。
「カウンターで買うついでに、小便してくるわ」
多少ふらついている哲夫の後姿を目で追い、SYOUは掌のアーモンドを二、三粒口に放り込むとがりがりと噛み砕いだ。
そのとき、テーブルを震わせて哲夫の携帯が鳴った。画面に表示された名前は、HIRO。
噂をすれば、か。
SYOUはトイレのほうを見やり、受信を押して、ヒロ相手の時の哲夫のいつもの口調をそっくり真似て言った。
「はい、あなたの心のオアシス、哲っちゃんでございます」
『哲っちゃん。実はオレな、むっちゃ恐ろしい女に今拉致されてるねん。命の瀬戸際や』
「ほう。どんなだ」
『今代わるわ、頼むから要求聞いたってや』
何事だ?
ややあって、女の声が響いた。
『哲っちゃん…… 哲夫さん? 初めまして。わたし、伊藤詩織です』
「……!」
SYOUは思わず携帯を耳から遠ざけた。
『待って、お願い、切らないで。こんな形でしか連絡が取れなくて、騙したみたいでごめんなさい。返事しなくていいから、わたしの話を聞いてください。そして、SYOUに伝えて』
左手で口を押え、離した携帯を見る。恐怖とも苛立ちともつかない感情が、墨をあてられた硯の底から立ち上がる黒い渦のように胸に広がっていった。
『ピアスが、見つかったんです。いえ、今わたしの手元にはないけれど、ある人が持っていたんです。その人は多分、SYOUを知っている人…… SYOUの知っている女の人。わたしの勘だけど。その件について、わたしから聞きたいことがあるの。あれを手に入れるために、必要なことなの。本当にそれだけの用事だから、あと一度、一度だけわたしと会って。どうか連絡をください。蓋を取り戻すために。そう伝えて、お願い』
……なにを、思いついたようにぺらぺらと。
こんな内容を、あのヒロの前でしゃべっているのか? SYOUはぎりっと奥歯を噛んだ。そして、喉の奥で押しつぶしたような声を出した。
「二度とかけて来ないでくれ」
「誰と話してるんだ?」
振り向いて、いつの間にか背後に立っていた哲夫に気づいたその瞬間、携帯を切っていた。
「おい!」
SYOUは携帯を哲夫に戻しながら言った。
「詩織からだった」
「え……」
哲夫は着信履歴を確かめると、言った。
「ヒロからじゃないか」
「ヒロさんからの電話に、詩織が出た。切るなとか俺に話を伝えろとかいろいろ言ってたけど、結局会わせろって話だった。哲っちゃんのふりして切っといたけど。
ヒロさんに、悪いけどあいつに携帯渡さないように言っといて。どうほだされたのかわからないけど」
あきれ顔で、哲夫は言った。
「まじか。……詩織ちゃんも、そうとうだな。もうストーカーの域じゃないか。ヒロにはよく頼んどくよ。苦労するな、お前」
「いいよ。もう出よう」
SYOUは傍らのコート掛けから自分のジャケットを乱暴にはぎ取った。
冷静を装いながらも、あたまの中で鳴り続ける言葉が自分の胸にうがつ衝撃に、足元がかすかによろめいていた。
ピアスが見つかった。たぶん、SYOUの知っている女の人。蓋を取り戻すために、必要……
“きっと叶うわ”というリンのささやきが、同時に頭のなかでリフレインする。
俺の知っている女……
この筋書きのどこまでが真実で、どこからが罠なんだ。
並んで乗ったタクシーで、SYOUは呟くように哲夫に話しかけた。
「さっきさ、自分の意思で選びたい仕事、って話があったよね」
「ああ?」
「坊さんがいいかな」
「なんだ。坊主の役がやりたいのか」
「じゃなくて、役者もヤクザも駄目なら出家しようかなって話。頭丸めて、俗世を離れて、瀬戸内寂聴みたいにさ」
哲夫は声をあげて笑った。
「今までお前が言った冗談の中で一番おもしろかった、今の」
「話すんだんか」
会話の間詩織から遠ざかっていたヒロが、公園の遊具のあたりから戻ってきて、ねむの木の下に立つ詩織に聞いた。
小雨の降る深夜の公園には、人っ子ひとりいなかった。
「ええ。ありがとう」
無表情に携帯を返す詩織に、ヒロは粘ついた声で言った。
「あれでよかったんか。じゃあ、マジなら約束のほうは……」
金網に囲まれた配電設備の裏にヒロを誘うと、詩織は下から、灰色のフードをかぶった眼鏡面のヒロの顔を見上げた。 そして右手で股間を掴み、左手で首筋に手を回して、その唇に吸い付いた。頭の上で葉を渡る夜風がざわざわと鳴り、離れた池の鴨の鳴き声が聞こえた。
……SYOUが出た。
間違いない、あれは彼だった。内容を聞いたなら、そしてわたしがカマをかけた女性像に心当たりがあるなら、きっと接触してくる。自分の番号は覚えている、削除しても頭にあるはず。
かけてくる、きっと。
わたしはあの女と会わねばならない。
あの、血の匂いのする美しく禍々しいひとと。
絶対に、もう一度。