「母の祈り」
「おれさ。サラリーマンになって、家族を持って、小鳥を飼うのが夢だったんだ」
「へんなの。どうして小鳥なの?」
「籠の中に、空を閉じ込めてる気がするだろ」
「ぜいたくで、人でなしな夢ね」
「で、大事なひとの顔を思い浮かべて、夜の花屋で花を買う」
「お誕生日に?」
「なんでもない、仕事帰りの夜の花屋で、ふっと思いつく。
なんでもない日、そこが大事」
「ロマンチストね。じゃあそうして、花束を持って家に帰って、妻の靴の横に男物の靴があったら?」
「……嫌なこと言うなよ」
「記念日じゃないのなら、なんでも起きるのが夜よ」
「そしたら、花束を抱えている分、不幸は倍になるな。いや、倍どころじゃない。だから、花を買うのは怖いことなんだ。めったに買っちゃいけない」
「あなたって、ほんとは臆病なのよね」
「だって怖いだろ。だれか、何かを信じきって、その相手に大事なものも大事でないものもみんなさらけ出して、その挙句に裏切られたら、どうやって生きていける?」
「わたしに約束してほしいの? 裏切らないでくれって」
「そんなこときみに頼まないよ。簡単に約束されて嘘をつかれたら、その方が恐ろしい。きみだったら、どう?」
「わたし、花なんて買わないもの。誰も信用しないもの。もらっても造花だって思えばいいもの」
「そうだろうね。きみ自身が造花みたいなものだからな」
「……ねえ、もうやめよう。どうしていつもそうなるの?」
「はいカット!」
貸切のカフェの店内に監督の声が響き、エキストラが雑談の振りをやめて二人を見た。SYOUはいからせていた肩から力を抜き、テーブルの上に出していた拳を引っ込めた。相手役のアイドル出身の女優、乾里奈は、ふうっと息の聞こえるようなため息をついて、首を回すと上を向いた。
「よかったよ、ショウちゃん。先週とは段違いだ」
監督は満足そうに丸めた台本で自分の肩をぽんぽんしながら声をかけた。
SYOUは口の中でまだ台詞をブツブツ繰り返していた。花を買うのが怖くない? ほんの少しも……あれ?
「俺、台詞ちょっと違ってませんでしたっけ」
「ああ、なんか足してたな。ほんの少しも、だっけ、まあ自然に出た言葉だし、流れからいってあれでいいよ」
「監督、わたし間違いませんでしたよね」
得意そうな里奈に向かい、監督は言った。
「間違ってはいないけど。SYOUが結構難しい台詞をきちんと咀嚼して言ってんのに、きみはただ流してるだけの平坦な印象だ。感情を受け切れてないんだよ。このままだと一方通行だ、キャッチボールになってない」
「……」里奈は不服そうに口をとがらせた。
「先週はきみのほうがまだましに見えてたんだがな。ショウちゃんがハードル上げてきちゃったから、そっちにも頑張ってもらわないと」
監督の声は満足そうだった。だがSYOUの胸の深部では、小さな池に石を投げ込んだ時のように、複雑な波紋が開いたり閉じたりして止まらなかった。
……だれか、何かを信じきって、その相手に大事なものも大事でないものもみんなさらけ出して、その挙句に裏切られたら、どうやって生きていける?
あの日から、天空に開けたような庭園を思い出すたびに、胸の奥に、喜びとともに抗いがたいざわめきが広がるようになった。
あの豪奢な空間。花々とビオトープ。リンが自分を見送る時、自分にではなくリンに対して、ごく自然にそしてかすかに頭を下げていたヤオ・シャン。
わたしには国籍がない。ここからも出られない。
わたし、あなたにあいたかった。あえればもう、なんでもよかった。
あなたが願うなら、きっとかなうわ。
信じたい、今度こそ信じたいという思いの先に、いくつもの疑問が壁のように立ち上がってくる。
囚われの姫君にしては、彼女の待遇はよすぎないか?
どうしてあの空間を自由にさせてもらっている?
ヤオが言う「神」とはなんだ?
彼女はどこのどういう組織によってあそこに幽閉されているんだ。一度会ったきりで、その思い出だけで後の人生を生きられるって、本当に自分に会うためだけにあそこにいるのならその覚悟は潔すぎやしないか。
だいいち、次に会えるのはいつなのか、見当もつかない。あの最上階へ至るカードキーを持った誰かのご招待がない限り、自分はリンに近づけないのだ。こんなかたちの恋愛があるだろうか。自分の状況は、第三者から見れば遊郭の女に、好きなのは主さんだけよ、と言われてのぼせ上っている馬鹿な客とほとんどかわらないのだ。そのぐらいの判断は自分にもできる。
この先、何をどうすることができるというのだろう。自分は彼女をあそこから自由にするだけの力がない。それに、ここは安全、とちらりといっていた彼女の言葉も引っかかる。
リンがわからない。わからないでいる今も、彼女はあそこを訪れる客、平等にその全員のものなのだ。……
「ショウちゃん、珍しいな。モニターチェックはしないのか」
「ああ、はい」
監督に呼ばれて、SYOUはモニター画面の前に近づいた。
スーツ姿で恋人の前に座る、不安だらけで自分を包み隠すことをしない、知らない男がいた。
この姿が、世間が受け取る俳優、SYOUなのだ。
自分はこの場で、最善を尽くすしかない。今迷わずにできることはそれだけだ。そう言い聞かせて自分のなかの猜疑心を調伏させようとするSYOUの脳裏に、あの女の声が駄目押しのように響いた。
……馬鹿な坊やに乾杯。
チャペルから出ると、空はすでに茜色に染まっていた。詩織は讃美歌集を折りたたんで鞄に入れると、今しがた歌ったばかりの歌を口ずさんだ。
「馬鹿に熱心ね」隣で、久しぶりに顔を合わせるテニスサークル仲間の有紀が言った。
「日曜礼拝に出て来るなんて、いつも忙しい詩織さんにしちゃ珍しいじゃない。なにか、心を洗いたくなることでもあった?」
「そりゃ、宝船とゴミ船が一緒に流れてるような川に住んでますからね。カトリック系の女子大に通わせていただいてるんだから、たまにはこういうところで身を清めないと」
そう軽口をたたいたあと、
「院はキャンパスが離れてるから、なかなかここに来る機会もなくなっちゃって。正直言えば、この建物と、あの尖塔が好きなだけ」
そういうと、紅色に染まったいわし雲にシルエットになって聳えるチャペルの十字架を見上げた。
「このキャンパスにいたころは、この空間が好きで、よく寄ってたんだけどね。用もないのに」
「テニスサークルのほうは懐かしくないの?」
「今体を酷使するのはきついのよ。いろいろ忙しくて。みんな元気でやってる?」
「院に進んだ連中はほとんど来なくなっちゃったし、四年制組は卒業しちゃったしで、あたしみたいな二浪の年増が大きな顔してるってわけですよ」
「あんまり後輩苛めないでね」
「ね、詩織。例の彼とはうまくやってる? 最近、話聞かないじゃない」
詩織は両手で耳をぱんぱんやると、あーあーと平坦な声を出した。
「どうしたんでしょう、電波が乱れたようです。あー。何も聞こえません」
「はいはい」
裏口で友人と別れると、鉄の門を出て、七割かた散り落ちた桜の並木を歩いた。
出て来ない。
どんなに探しても、出て来ない。
立ち寄った場所、病院にホテル、自宅、事務所、カフェ、JRの遺失物係にも電話した。そしてこのチャペル。どこにもない。万策尽きた。
もうこれで、SYOUにつながるすべてが終わるのだろうか。
詩織の傍らにタクシーが止まり、中から若い男女のカップルが下りてきた。それを目の端でちらりと見やった次の瞬間、きらりと光るものが視界を落下した気がした。路上を見ると、小さな薄青い光が、夕暮れのささやかな光を受け止めてころりと転がっていた。
背をかがめて、腕を伸ばす。手の先に触れた小さな石を拾い上げる。
タクシーが傍らを走り去る。
ピアス。
……ピアス?
あ、という声がして、詩織の十歩ほど先で、カップルの女性のほうが耳に手をやって振り向いていた。 顔を上げた詩織と、自然に目が合う。
真っ白なワンピースに身を包んだ、長い黒髪の、何かの花の精のようなはかなげな少女。
夕闇の中、白い顔がぼうと霞んで幽かに微笑んでいた。
「ありがとうございます。それ、返していただけますか」
その衝撃は、痛みに近いものだった。
このピアスはSYOUのものだ、間違いない。この掌が、覚えている。
詩織はピアスを手にゆっくりと立ち上がった。
心臓が内側から体を叩くようにして波打つ。
運命が、何かの意思を持って歯車を回している、詩織にはそうとしか思えなかった。そうでなければ、こんな偶然が天から降って来るわけがない。
……どうして。どうしてこれが今、ここにあるの?
とにかく、……時間を稼がなくては。なにか、話をしなくては。
「……素敵なピアスですね」
「ありがとう」
ゆっくりと差し出したピアスを、少女は白い掌で受け取った。長いまっすぐな睫毛が、少し茶色がかった瞳に深い影を落としている。
「J・Dのデザインですか? 似たようなのを見たことがあるので。そのモデル、もう終了しちゃったんですよね。どうしてもほしかったんだけど」適当なブランド名でカマをかけてみる。
「さあ、……ひとにもらったので」
日本人じゃない。その発音を聞いて、そう詩織は思った。そして、知る限りの女優とモデルのなかにこの顔はなかったかと瞬間ざっと記憶のファイルを探った。それぐらい、浮世離れした美しさだった。
そして、黒っぽい服の、連れの男。服の上からでもわかる、鍛え上げた体と隙のない風情。自分が親しんできた類の人種と、同じ匂いがする。数秒の間に素早く頭を巡らせ、平静を装って言った。
「そうですか。絶対高いですよね。彼氏からのプレゼントとか、ですか?」
少女は濡れたような瞳を上げると、詩織の瞳をまっすぐに見た。
何かの意思、何かの感情が奥底に宿っているのが見て取れるけれど、深くて、読めない。詩織はそれを、一応世間に顔を知られている自分への一般的な反応と解釈した。少女は小さく微笑むと、言った。
「女優さん…… ですよね」
「ええ」
短く答えて、笑ってみせる。
「最近歌も歌ってますよね」
「ええ、まあ。歌はほんとにこれからですけど」
「いえ、お上手だわ。わたし、あの歌好きです」
「ほんとう? どの歌?」
少女は少し首をかしげると、小声で歌った。
……まぼろしの影を追いて うき世にさまよい
うつろう花にさそわれゆく 汝が身のはかなさ
春は軒の雨 秋は庭の露
母はなみだ乾く間なく 祈ると知らずや
「………!」
詩織は言葉を失ったまま立ち尽くした。少女はそのまま続けた。
おさなくて罪を知らず むねにまくらして
むずかりては手にゆられし むかしわすれしか
春は軒の雨 秋は庭の露
母はなみだ乾く間なく 祈ると知らずや
汝がためにいのる母の いつまで世にあらん
とわに悔ゆる日のこぬまに とく神にかえれ
春は軒の雨 秋は庭の露
母はなみだ乾く間なく 祈ると知らずや……
「行きましょう」
背後の背の高い男が少女に声をかけた。
少女は詩織の目を見返すと、そのまま背を向けた。
「待って!」
思わず知らず、大きな声が出ていた。この背中を見送れば、次はない。
「どこかでお会いしました? いえ、あの、わたしを…… ご存じ?」
テレビとかじゃなく、と言い添えようとした詩織の前で、少女の髪がふわりと風に吹き上げられ、白いうなじを晒した。そのまま、白い頬がゆっくりとこちらを向く。
目の前にいるのに、何かの幻を見ているかのような錯覚が、背中を戦慄になって走った。つややかな黒髪の流れの中の、澄んだ瞳の中に冷たく凝った氷のような感情が、一瞬矢のように詩織を射抜いた。
「你不打网球了吗?」(*)
声を聞いたと思った次の瞬間、ざっと一塊の風が吹いて詩織の軽いトートバッグを腕から奪った。
桜並木が激しく揺れて波のような花びらが視界を覆う。顔にかかる前髪をかき分けながら、転がってゆくバッグを拾い、顔を上げる。
薄紅色の渦の中にもう、ふたりの姿はなかった。
(*)「你不打网球了吗?」 ……もうテニスはやらないの?