フェイク
ざっと風が吹いて、盛りを過ぎた桜が、頭を振りながら花びらを惜しみなく散らしてゆく。薄桃色の花びらは薄く濃く渦を巻きながら、広い日本庭園のあちこちに散華していった。
平日午後のホテルのラウンジはひと気も少なく、かすかな音楽とまばらな人びとの話し声が水のように混ざって流れている。床から天井まで一面総硝子の向こうの春の庭に目を奪われる詩織に、頭上から声が降ってきた。
「伊藤詩織さん?」
顔を上げると、細身のグレーのスーツに身を包んだ、ショートカットの女性が微笑んでいた。
「柚木奈津子です。少し遅れまして」
詩織はソファから立ち上がると、ぺこりと頭を下げた。
「伊藤です、初めまして。お忙しいところお呼びたてしてしまって、すみませんでした」
目元が少し自分に似ている、と詩織は思った。理知的な顔つき、薄化粧。年齢は多分、四十に少し届かないぐらい……
「お話はこのラウンジカフェでいいのかしら。それとももう少し人目につかないところ?」にこやかに奈津子が尋ねる。
「人目は少ない方がいいですけど、わざわざ移動するのも……」
「じゃあ上のわたしのお部屋でどう? 広めのツインなので余裕はあるわ。眺めも良くて気持ちのいい部屋よ」
並んでエレベーターに乗る。ウインドウは一面ガラス張りで、しだれ桜や松や樫を配置した日本庭園の木々の頭をぐんぐん追い抜いて箱が上昇すると、花曇りの東京の遠景が眼下に広がった。
「ああ、半年離れただけでもうこの色合いが懐かしい」
つぶやくように奈津子が言う。
「普段はアメリカにお住まいなんですよね。日本の春とはやっぱり違いますか」
「文化はその国の自然が生むっていうけど、日本の春はやっぱり日本画の色合いだと思う。この、淡い色が順々に連なっていく優しさがね。あちらは庭園というと原色の花で飾りたがるから」
通されたデラックスツインは部屋の二面に窓が解放され、同じ系列のホテル棟がいくつか庭園越しに見える、ゆったりしたつくりだった。部屋を見回しながら、詩織は聞いた。
「おひとりでここにお泊まりなんですか」
「明日から夫が来るの、仕事の都合でアメリカからこちらに着くのが一日わたしより遅れたのよ。だから今日は独りきり。いつもこんな風に二人で行ったり来たり」
「ご主人も、書道家でいらっしゃるんですか?」
「いえ、彼はアメリカでNPOの理事をしてるの。エンジェルフィールド・USAっていってね、恵まれない子どもたちを保護したり教育の機会を与えたり、募金活動をしたり、孤児院もあちこちに経営してるのよ。まあ、もともと彼が資産家だからできてるところもあるんだけど。仕事上面倒だから名前は夫婦別姓のまま」
部屋に備え付けのドリップコーヒーを奈津子がいれようとすると、詩織は立ち上がった。
「あ、わたし、やります」
湯気を上げるコーヒーを窓際のテーブルに並べる詩織を見ながら、奈津子は言った。
「日本の書道雑誌の編集長さんから、美人女優さんが面会したいとオファーしてきたぞ、と言われたときは、何の冗談かと思ったわ。でも、わたしが“あれ”を持っていること、よくご存じね」
詩織は一瞬返答に詰まった。
「……ペットの骨から宝石を作る業者を片っ端から調べたんです。で、あの人気スターのSYOUさんもデビュー直後に、うちで叔母さまとペアでピアスをお作りになったんですよって教えてくれた会社があって……」
詩織は居住まいを正すと、声を改めた。
「さいしょにお話ししておかなくちゃいけないことがあるんです。ご存知かもしれませんけれど、わたし、彼とお付き合いしてました」
「そうですってね」
奈津子はにっこり微笑んだ。
「どう、苦労してない?」
「え……」
そんなわたしのほうこそ、といいかけて詩織はやめた。そんなありきたりな言葉で返せるほど、自分のしでかしたことは、軽いものではない。
「彼は、昔の名前を封印していますけど、過去のことは、父から聞きました。父は……」
「……有名な方よね」
「わかっていらっしゃるならいいんです。わたしも、彼の本名や過去のことを外に持ち出すつもりは一切ないんです。ただ、個人的に、彼に謝りたくて」
「……うわさでは聞いてるわ。あの子と喧嘩したんですって?」
奈津子は詩織の頬にうっすら残るあざに目をやりながら言った。詩織はそっと指で頬を抑えるようにした。
「全部わたしが悪いんです。とにかく、いきさつをお話しするので、聞いていただけますか」
詩織は奈津子の前で、彼との間にあったことを包み隠さず話した。
最後、彼に投げつけた言葉をもう一度口にするとき、自分への怒りで涙が眼もとににじんだ。
……いつも思ってた、あなたの目はきれいだけど底なしに冷たい、生粋の人でなしの目だわ。わたしがよく知ってるヤクザの目よ。
知らんふりして言わないであげたのに、あなたの秘密。わたし知ってるのよ、
名前を変えて隠してるあなたの過去。言ってあげましょうか。
SYOU、本名、柚木晶太。
たった十四で、母親と共謀して実の父親を殺した……
「酷いこと、言っちゃった。ほんとに。……今思い返しても、到底自分が許せない」
奈津子は冷ややかな目で詩織を見ていた。そして、平坦な口調で言った。
「おそらく、あの子が一番触れられたくなかった傷の全部ね」
ぴしゃりと頬を撃たれた直後の子どものような目をして詩織は黙り込み、そして結んだ時と同じぐらいの固さで唇をこじ開けた。
「知らなかったんです。父に聞くまで、あのピアスが彼にとってどんなに、どんなに大事なものだったか。
本当に、バカだった。あのとき、すべてを終わりにするのがどうしても悔しくて、ほんの小さなことでいいから彼とのつながりを残したかったんです。
でも、どうしてもピアスが出て来ないんです。あの日、鞄に入れてそのまま出ようとしたら彼が目を覚まして、それであんなことになってそのまま入院して、荷物は事務所のスタッフさんとか病院のかたがバラバラに管理して、結局どこへいったか……。父からは接触を禁止されているし、彼のほうも携帯を変えて手紙も受け取ってくれなくて、わたし、謝ることすらできない」
膝の上で長い爪を交差させながらスカートを揉みしだく詩織に、奈津子は静かに尋ねた。
「……わたしのピアスを見たいというお話だったけれど、それでどうするの?」
「本当に図々しいんですけど、できればお借りして、あの、フェイクを作ろうかと……」
「フェイク?」
「同じところにお願いして、写真を見せてオーダーすれば、多分ほとんど違わないものができますよね?」
奈津子はすがるような詩織の目を黙って見つめ返した。詩織はその目に向かって残りの言葉を続けた。
「彼は、あれは俺の蓋だって言ってました。頼むから返してくれって。なんとか、彼に勘づかれないぐらいの複製をつくって、それでどうしても彼に返してあげたいんです。そこまでしないと、わたし、SYOUとのことを終わりにできない」
奈津子は傍らの黒い革の鞄を膝に乗せた。
「詩織さん、手を出して」
詩織が掌を差し出すと、奈津子は鞄を開けて七宝焼きの小物入れを開けた。きらりと小粒なブルーの光が室内の灯りに反射し、次の瞬間、それは詩織の掌にあった。
「気持ちはわかるけど、似たものであっても意味はないのよ。あれは彼にとってシャラそのものだったから。たぶん晶太は見抜くと思うし、そうしたらあなたは彼を二重に失望させることになるわ」
「……」
詩織は掌のピアスを見つめ、右手でそっと撫でた。五本爪のスタッドピアスに、淡いブルーカラーのラウンドカットのダイヤモンド。それぞれ長さが違う爪先を、猫のそれのようにダイヤに向かって湾曲させる、特徴的なかたちをしていた。
「……この子、どんな猫だったんですか。メスですか?」
少し潤んだ詩織の瞳を見ながら、奈津子は答えた。
「白黒のぶちねこで、耳が大きくて目が綺麗で、しなやかな美人さんだったわね。
外が好きで、最初は出入り自由にして飼ってたの。いろんな雄猫が寄ってきたけど、逃げ回ってたわね。あの子が好きだったのはただ一人、晶太だけよ」
「……」
「十四でうちにきたころは晶太も人間不信で、一輪車に乗ってる子どもにわざとボールをぶつけたり、猫の出入り口の鍵を毎日壊しにかかったり、家の中の小型家電をいちいち分解したり、そうとう面倒だったのよ。こっちもうんざりしちゃって、あの子が高熱を出した時も分かってあげられなかった。シャラだけがあの子の額に頭を寄せて、傍に寄り添っていたの」
詩織は睫毛を伏せたまま、何か自分の頭の中に情景を描くように視線を揺らせた。
「……呆れられるでしょうけど、わたしほんとはあの子に一回は子どもを産ませるつもりだったの。
幸いうちは広くてわたしは独り暮らしだったし、生まれた子は育てようと思ってた。あとは引き取り手の予約さえ取ってあったのよ。
なによりもね、わたし自身がある事情で子どもの生めない体だったから、女と生まれて母となる幸せを、あの子に経験させてやりたかったの。そういう不自然な手術をあの子にする決心がなかなかつかなかった。それは、わたし自身の過ちでこの体についた傷でもあったから」
詩織は瞬間事情を勘でくみ取り、さらりと軽い口調で言った。
「そんな美人さんなら、発情期とか大変そう。お庭に雄猫とか集まったりして」
「そうね、春先にはシャラ争奪戦が繰り広げられてたわね。あの子が硝子戸のこちらで眺めてる向こうで、オス同士が死闘を繰り広げてたわ。その中で一番のソルジャーは、スレンダーな黒猫だったわ。こう、ほっぺたに鋭い傷のある、目の細いクールなタイプ」
奈津子はマニキュアも何も塗っていない指で、頬にすっと線を引いた。
「でも、シャラちゃんにはSYOUだけだったんですよね?」
「結局あちらの飼い主さんが、喧嘩ばかりしてうるさくてしょうがないからって、ブラック・ソルジャーを捕まえて去勢手術しちゃったのよ。わたしは子猫が生まれてもよかったんだけどね。
それでも、やっぱりうちの庭に来てシャラを見てたわ。発情と関係ない、プラトニックラブもあるんだなと思ったら、なんだか切なくなっちゃったわね」
いつの間にか窓から入る日差しも斜めになっていた。詩織は冷えたコーヒーを前に、奈津子にぽつりと言った。
「……ピアスは作りません」
「そう」
窓の外から、遠く甲高い烏の声がカワ、カワと聞こえてきた。
「でも、晶太にはやっぱり、いつか謝りたい。絶対謝りたい、ちゃんと」
「じゃあ、手紙の橋渡しでもしてあげましょうか?」
「………」
詩織ははっとしたような表情で奈津子の笑顔を見たが、すぐに首を振った。
「文字は、なんだか、……卑怯だし。
わたしは彼を傷つけたんだから、ちゃんと会って、痛い思いをしてなじられて、……謝るならそれからだと思う。いつになるか、わからないけど」
「なかなか、いい心がけだわ」奈津子は微笑んだ。
「わたしたち、ずっとそうでした。思うことは言葉に出して、ぶつけ合った。ちゃんと謝らせてくれるなら、また殴られてもいい。もう、こっちを見てなんて言わない。ただ、筋を通したいんです」
固い口調で言い切った詩織を見やり、奈津子はつと立ち上がった。トランクから筒のようなものを出して、こっちへきて、と詩織を手招きした。
筒の中から丸めた半紙を引き出すと、テーブルは狭いから、といって、ベッドの上にそれを広げて見せた。
「読める?相当崩し字だけど」
半紙に流れるその四文字は、それ自体が花を乗せて流れる川のように、清冽な美しさと静けさに満ちていた。
「……落花……流水?」
「そう。きれいな字でしょ。落花は流水に従って流れ、流水は落花を浮かべて流れてゆく。男女が自然に互いに慕い合う気持ちを表した言葉よ」
「字というか、本当に、絵みたいにきれいですね。奈津子さんの作品ですか?」
「晶太が書いたのよ」
「SYOUがこれを? うそ、本当に?」思わず詩織は声をあげた。
「きれいな川の夢を見たから、忘れないうちにと思って書いたって、そう短い手紙が添えてあったの。時々気に入った作品ができると、こうしてわたしに送ってくれるのよ」
その四文字から立ち上がる、凛として静謐なSYOUのたたずまいに、詩織は圧倒される思いがした。こんな彼を、自分は知らない。
「外には見せないけれど、あの子はいろいろと才能を持っているのよ。
うちにいたころ、書道教室の手伝いをしながら、暇な時に遊びで書きなぐってたの。それがどれもすごくてね、正直、嫉妬を感じるぐらいだった。
わたしの書道の恩師にも高く評価されていて、大切にあの才能を育ててあげてほしいと言われていたんだけど、結局本人が望まなかったの」
「……でも、奈津子さんに、真っ先に見せたかったのね。晶太を預かってらしたのは、どのぐらいでしたっけ」
「二か月余り、かな」
詩織は小さくため息をついた。
「……それだけで、それほど信頼されるんですね。わたしは一年一緒にいて、こんな有様」
「いろいろ、あったのよ。そうなるまでに、本当にいろいろ。それこそ、心労で倒れるまでね。
……でもいまとなっては、わたし、あの痛みに感謝してる」
そのまま、二人とも言葉を閉じ、沈黙に身を預けたまま向かい合っていた。
ややあって、詩織は言った。
「……一年。
わたし、一年も一緒にいました。
そのうち後半の半年は、SYOUはお付き合いで傍にいてくれた気がするんです。
わたし、わかってて、わからない振りしてた。わたしがそばにいることで彼が幸せかとか、そう考えたことがなかった。だんだん彼の気が離れていくのがわかって、それを取り戻そうとただ躍起になってた。突っかかっては喧嘩ばかりしてました。
今、思うんです。愛されることは必ずしもその人を幸せにしないんじゃないかって。特に、SYOUの場合。
彼が本当の意味で幸せになることがあるなら、それはきっと、SYOUが心から誰かを愛せた時じゃないのかな。その相手になれなかったのが、すごく悔しいけど……」
奈津子はやわらかな微笑みを浮かべて、詩織を見た。
「もし晶太がほんとに愛せる人と出会ったら、詩織さん。あなたは祝福できる?」
「……え」
詩織は一瞬視線を外し、そして、窓のむこうの花霞みの空に目を投げた。
「そう、いえ……
無理ですね。きっと、相手の女性を恨むわ。
駄目だな、愛する人の幸せを許せないとか、最低ですよね。彼のためには祝福する、でも、気持ちの上では泣きつづけると思う」
「あなただけじゃなく、たいていの人がそうよ。そう言えるのはただ、あなたが正直だから」奈津子はベッドの上の半紙をくるくると丸め始めた。
詩織は声に力を込めた。
「きょうは、ありがとうございました。わたし、自分の行動を思い返して、足跡をたどって、もう一度洗い直します。ピアスを見つけて、彼に返したい。彼の一生の一部を。絶対、あきらめません」
奈津子の許可を取って、詩織はカメラを取出し、机の上のピアスの写真を撮った。アップで、何枚も。
返されたピアスを数秒愛しげに眺めると、奈津子は七宝の小物入れに入れてぱちんと蓋を閉じた。そして、呟くように言った。
「しっかり頑張ってると思ったんだけど、あれがなくなったことでそれだけ取り乱すってことは、まだ本質が癒えてないのね」
「……」
「さっきあなたがいった通り、愛されることよりも、愛することの方が、ずっとずっとあの子の心を健康にしてくれる。 ほんとにわたしもそう思うわ。でも、あの子はどこかで、自分自身を畏怖している気がするの。ピアスというお守りがなくなったとたん、恐怖で我を忘れるぐらいにね。そこを乗り越えない限り、自分をさらして誰かを求めることってできないんじゃないかしら」
「畏怖って、あの、父親の遺伝がどうこうとか、そういう……」
「たぶん」
詩織は目の前の空間を探るように視線をさまよわせた。それなら、立場は自分とそう違わないのだ。実際に父親の命を奪うことになった彼の闇のほうが深いにしても。でも、そういった話をする機会が一度もないまま、自分は彼を失った。
「ほんというと、わたしまだSYOUのことが心配なんです。わたしのせいで今苦しんでる彼に対して言う言葉じゃないけど、もうちょっと傍にいてあげたかった。そういう境遇とか不安についてなら、わたしでもいっぱい話せることはあったのに。
……もう一度会ってもらえるなら、恋人じゃなくても友達でも知り合いでもなんでもいいんです。恋人でいるために黙っていた、話題に乗せなかったすべてのことを、今なら話せるし、話したい。でもきっと、もう二度と選んではもらえない。
今更友達になるなんて、きっと、ピアスを見つけるより難しいんだわ」
「それでも、わたしはあなたに、彼のそばにいてほしいわ」
詩織は驚いたように顔を上げた。頬の染まった表情が、春の日差しを浴びたようにぱっと輝いていた。
「本当ですか? ほんとに、そう思います?」
奈津子は頷いた。
「あなたは自分の一番嫌な面を見せて、彼の激情の犠牲になって、それでも筋を通そうと頑張ってる。
恋愛は錯覚だったり衝動だったりするけど、あなたは正気で誠実だもの。恋人よりもいい友達のほうが、人生にはよほど必要だと個人的には思うわ。
これからも、ちゃんとあの子を見ていてやってね」
柔らかな人懐こさが、最初会った時とは別の空気で、穏やかな笑顔となってこちらへ向かっていた。
詩織は両手で口元を覆うと頭を下げ、そのまま深くひと呼吸した。
そして顔を上げ、手を離してひとこと口の中で、
「よし!」と言った。