きっと叶う
「探しているものがあるんだ」
場所を変えて腰かけた白い木のベンチで、肩に頭をもたせかけるリンの髪を撫でながら、SYOUは訥々と語った。
「あったことすべてを話すとそこまで行き着けない。でもきみには僕のほんとのことを知ってほしい。うまくいえるかどうかわからないけど」
「時間はたくさんあるわ、SYOU。聞かせて」
SYOUは頷くと、ふっと息を吐いた。
「母とヤクザ男が出て行った夜、僕は二人の背中を布団の中から見てた。声をかける気もなかった、ただ、来る時が来たなと思った。組の金を使い込んでもう高跳びするしかないと話しているのを聞いていたからね。これでもう誰のところにも行かされずに済む、殴られることも母の泣き声を聞くこともない。
ある程度の現金と、それからささやかな隠し預金のカードを、母はこっそり置いてってくれてた。
カップラーメンばかり食って三日目かな、北九州の叔母さんが電話をくれた。母から僕を頼むとひとことだけ連絡を受けた父は、離島の診療所を預かっていてすぐにはこっちには来られないという話だった。
ひと月、叔母さんの家で過ごした。父親の妹にあたる人だ。十七歳の娘と三人家族だった。
で、……結局ひと月でその家を追い出された」
「つめたい人たちだったの? それとも、SYOU、何かしたの?」
「両方だな」
SYOUは自嘲めいた笑いを浮かべた。
「いろいろあったけど、まあそこんちのいとこが、つまらない策略で僕を下着泥棒に仕立てた挙句、疑いを晴らしてあげる代わりにと言って、体ごと迫ってきたんだよ。やけくそで結局やっちゃったんだけど、うまいこと乗せられたのに腹が立ってつい、ぶん殴ったんだ。彼女は僕にレイプされたと騒ぎ立てた。で結局、僕は泥棒の上暴行魔ということになった」
「……」
「自分の出自をはっきり自覚したのはそのときだ。
親父さんは真っ赤になって怒鳴った。お前のほんとうの父親はお前の母親を連れ出したヤクザだ、妊娠中の内縁の妻を刺して、自分の子どもを殺すような人でなしだ。親戚はみんな知ってるのに口に出さないだけだ、ほのか……僕の母親だけど……は賢治さんみたいないいひとを捨ててお前のような子供を親戚に押し付けて、そのうち罰が当たる。お前は父親そっくりだ、お前の行くところなんかどこにもない」
「……それ、全部、ほんとうにいわれたの?」
「真実を教えていただいたお礼に、おっさんの愛車をぶっ壊して、それで追い出された」
「……」
「次に、書道家で独身の若い叔母に預けられた。ていうか、何があって放り出したかほとんど説明せずに押しつけたらしい」
「言ったら、断られてたでしょうね」
数秒、SYOUは黙った。
「そこでのことは、あまり詳しく言いたくない。
いい人だったよ。心から、真剣に向かい合ってくれた。ものすごく困って、真剣に怒って、真剣に泣いて、心から笑って。見よう見真似でやった書がすごくいいとかいって、有名な書道の大家に会わせてくれた。ひとに褒められて、ひとに認められることで心があったまる、初めての経験をした。
僕はあの人のおかげで、もう一度人を信じてもいいかもしれないと思った。いろいろ、……忘れられないことがあった。
今でも感謝してる」
SYOUはそこまで言うと、傍らの小手毬を指でもてあそんだ。
「……でも。
一番申し訳ないと思ってるのは、そこの家の猫を死なせたことなんだ」
言葉を切ったSYOUの横顔を、リンは黙って見つめた。
「白黒ぶちの、細いかわいい猫で、どういうわけか最初から僕によくなついてくれた。気が付くと傍にいて、怪我して帰っても熱が出ても、喧嘩した後でも気分が荒れてても、すっと寄り添って傍で丸くなるんだ。で、あの子の背中を撫でてると、いやなこともみんな消えていく気がした。かわいいというより、神秘的っていうか、ああ、言葉がいらないって、こんなにいいもんなんだなって思った。あ、それと」
SYOUは半ば笑いながら付け加えた。
「あそこんちに行った翌朝、あいつ鳥を捕まえて帰ってきて、俺の寝室に持ち込んで、生きたままぼりぼり食っちまったんだ。びっくりしたけど、どうやら俺の寝室が、獲物を隠すあいつの秘密部屋だったらしい。おかげで布団の周りが血だらけになった。でもなんていうか、あのとき俺、あいつを好きになったのかもしれない。せいせいしたような顔でごろんと横になって、丁寧に口の周りをなめて、それから体をなめるあいつを、すごく美しいと思った」
黙り込んだリンを見て、あわててSYOUは言った。
「ごめん。ちょっと残酷だったね」
「SYOU、おれっていってる」
「あ、そう?しゃべってるうちに昔の自分バージョンになってたからかな」
「それでいい。そのままで続けて」
「そう?」
ひと息つくと、SYOUは先を続けた。
「叔母さんは、あの子を室内に閉じ込めようとしてた。鳥を狩るなんて残酷だって。でも俺、それは猫の当然の権利だと思ったんだ。だから、専用出入り口のロックを壊してまで、あいつを自由にし続けた。でも……」
SYOUは言いよどんだ。
「……母親が。出て行った母親が、電話をかけてきたんだ。これで最後になるかもしれないからって、いままでごめんねって。俺は勘で分かった、これは死ぬつもりだ。ヤクザ野郎は手配がかかって海外逃亡は無理だった。たぶんやけくそで母親を道連れにしようとしている。
でそのとき、家の前に止まってるタクシーの中にいるのが母親だって直感で分かった。最後に俺の姿を、一人で見に来てたんだ。
夢中で家を飛び出して、発進したタクシーを追いかけた。あいつ……シャラも、家を飛び出して俺の後を追ったらしい。何か異様なものを感じたんだと思う。
タクシーには振り切られたけど、俺は同じ会社のタクシーの無線を利用して、そのタクシーの行先を突き止めてもらった。で、男と母親の泊まってるホテル前で待ち伏せして、……」
そのままSYOUは苦しそうに言葉を切った。黙って聞いていたリンは、励ますように小さな声を出した。
「だいじょうぶ。ゆっくり、ゆっくりでいいから、しゃべって」
SYOUは決心したように先を続けた。
「駐車場から車が出てきたとき、フロントガラスに石をぶつけて、ボンネットに飛び乗ってしがみついて、進行を妨害した。男が出てきたら石で殴り殺してたかもしれない。窓の中であいつがこっちに銃を向けてるのがわかった。母親がその手から銃をもぎ取るのも。車は蛇行して俺は交差点で振り落された、その直後銃声がして、車は対向車とぶつかって大破した」
「………」
「俺は奇跡的にかすり傷程度、母は一か月の怪我、そして男は死んだ。そして、俺を追って飛び出したシャラも、家の近くの幹線道路で車にはねられて大けがをした。夏の終わり、俺の胸の中で、シャラは息を引き取った。起きたことは、これで全部」
長い話の最後は、急いたように駆け足だった。リンは何も言わなかった。話し終えたSYOUは、下唇を噛むようにすると、しばらく荒い息をしていた。手を上げると、口を押え、
……そしてその手で目のあたりを覆った。
「自分でもバカだと思う。ひとの死を思い出してもなんともないのに、自分の父親を死なせたことを悔いなければならないのに、猫のことを思い出すだけで、いつでも涙が出る。俺が戸を開けなければ、飛び出さなければ、自分のことだけを考えていなければ、あいつは今でも生きて俺のそばにいたかもしれない。そればかり考える。
家の中にいるのが可哀想だからと、外に出そうと躍起になったのも俺だ。いや、俺とあわなければ、懐かなければ、あいつは俺を追って大通りまで出ることもなかったんだ。俺があの家に行かなければ。俺が……」
「SYOU、もうやめて」
「俺は頭がおかしいんだ。あいつの息子だから。血縁上の父親が死んだってちっとも悲しくない。母親は、俺の手を取って、これは夢じゃないわよね、自由よ晶太、っていった。俺達はほんとにうれしかったんだ、あいつが死んで。
俺だって、死んだら涙が止まらなくなるような父親がほしかった。でも現実はこれだ。シャラのことばかり考える。生き返ってほしい。生き返って、俺をまともにしてほしい」
覆った手の下から、初めて見るショウの涙が零れ落ちていた。リンは両手を広げてSYOUの大きな体を抱え込んだ。SYOUと呼応するように、その瞳からも涙が零れては落ちた。ただ、何かの意思が、火がついたようにその澄んだ瞳の内側に燃え盛っていた。SYOUの背中に頬をつけながら、リンは震える声で言った。
「SYOU、聞いて。
あなたはまともよ、どこをなおす必要があるの。あなたは正しいわ。猫を自由にしたのも、その男の死が悲しくないのも、お母さんを守ったのも、全部正しいじゃないの。どうしてそんなやつが死んだことをさんざん苦しめられたあなたが悲しまなきゃいけないの」
「……」
SYOUは下を向いたまま、濡れた瞳を開いた。
「まっとうな勇気も怒りもない、まわりの常識に従うだけの、ほかのふつうの人みたいになることを治るっていうのなら、わたしはあなたになおってなんてほしくない。
そんなことで泣かないで。そのまま、ちゃんと胸を張って生きて」
「リン……」
二人はそっと体を離した。SYOUは恥ずかしそうに掌で涙を耳の方向に拭き取った。
「……泣くつもりはなかった。自分で自分にびっくりだ。目の前がきみで、油断した」
「取り戻したいっていうのは、猫のこと?」
「いや。
……あいつの骨で作ったダイヤモンドのピアスだ。お守りみたいにして身につけてた。本当にきれいな、少し青味がかったラウンドカットのダイヤモンドだった。合成ダイヤではあるけれど、僕には世界でただ一つの宝だったんだ」
「それを、なくしたのね?」
「最近別れた彼女が、慰謝料がわりにもらうとか言って寝てる間に耳から盗った、それで喧嘩になった。我を忘れて殴りつけたらしい、よく覚えてないんだ。
彼女は入院して、あれこれごたついている間に、ピアスは行方不明になった。
ことを表沙汰にしない代償として、相手方にいろいろなことを要求された。ここもそのひとつだ」
「ここが?」
「地獄とか天国とか言われたんだけど、妖精が一人住んでるとは思わなかった」
「……」
リンは少し頬を染めると、声を落として尋ねてきた。
「いろいろなことっていうのは、……ほかにも、なにか……」
「例を挙げれば、歌手の仕事を取り上げられたとか、サド男三人の餌にされたとか、まあそれがそんなに侮辱的だったわけでもない。何されたってこっちは男だし、昔の延長線上みたいなもんだし、思い出さなきゃいいだけだ。とにかく、ここで君とあえた」
「……」
「みっともないところを見せちゃったな。でも、なんていうか、すごく元気をもらえたよ」
こちらをまっすぐに見るリンの長い髪が、春先の風に揺られて一瞬ふわりと舞い上がった。片手で髪を抑えながら、リンは言った。
「わたしから見たら、SYOUは逆の意味ですごく変。
自分がされたひどいことは当たり前みたいに受け止めて簡単に許して、自分がしたこと、できなかったことばかり繰り返し思い出しては自分を責めてる」
「………」
何か言おうとして開いた口を、不器用な様子でSYOUは閉じた。
「ピアスって、いつも左耳にあったピアスね。テレビで見て、わたし、覚えてる」
「もういいんだ」
「それを、取り戻したいのね?」
「いいんだ。シャラと同じだ。もう、どこにもない」
そして、小さくため息をついた。
「あんなもの、作らなければよかったんだ。二度、あいつを失った」
リンはしばらく、遠くに視線を投げるSYOUを見つめていた。そしていきなり手を伸ばすと、SYOUの頬を両手で挿み、自分のほうを向かせると、桜色の唇を重ねた。SYOUは驚いたように手を上げて、そのまま固まった。リンの体温が一気に上がり、頬がばら色に染まり、何か生々しい甘い香りがSYOUの中に流れ込んでくるようだった。いのちの、血潮の、ときめきの、思いの塊のような香りが。
まるで生き物のようにリンの舌がSYOUの口内に滑り込み、あのとき自分の指に下から触れた小動物のような感触が、口内全体を波打つように探っていた。SYOUは自分の舌をそれに絡めながら、ああ、初めてだ、と思った。初めて、生まれて初めて、心を先に置いてキスをしている。こころと、くちびるがひとつになっている。
背中の感触をすべての指に受け止めてぐっと両手で抱きしめると、細いリンの中の鼓動が、指から腕を通してSYOUの全身に流れ込んできた。
いったん唇を離すと、リンはかすかな声で言った。
「……あなたが望むなら、きっとかなうわ」