空中庭園
「いらっしゃいませ」
ドアを開けて、まるでなじみの客を迎えるホテルのドアマンのように、傷の男、ヤオ・シャンは頭を下げてSYOUを迎えた。
細身の鋼のような体を、相変らず黒一色の服に包んでいる。
「運転手があんたじゃないから、どこへ拉致されるかと思った」
「あなたが選んでいらっしゃるのですから、私が自らお迎えする必要もありません」軽口をたたくSYOUに、男は表情を変えずにそう答えた。
SYOUは無言のままポケットから手を出すと、いきなり拳をしゅっと一直線に彼の顔前に繰り出した。と、ほぼ同時にヤオの大きな掌がひらりと翳され、ばしっと音を立ててSYOUの拳を包み込んだ。咄嗟に左足を引いて、体はSYOUに対して斜めに開かれている。
「……なるほどね」
眉を上げて自分を見るSYOUの静かな口調に、ヤオはゆっくりと掌を開いて拳を開放した。
「漫画のような真似をすると怪我をしますよ」
「管理人兼ボディガード。そんなところかな」
「人手が足りませんのでね」
SYOUはちらりと寝室のドアを見やりながら言った。
「君の言った通り、一度の訪問ではすまなかった客になりさがったわけだけど、それは君の手柄になるのか」
「私の仕事はお客を安全にお迎えし、安全にお返しすることだけです」
「完璧に拉致して次につなげる、の間違いだろ」
SYOUは続けて、皮肉混じりに問いかけた。
「君はここに来て長いのか。彼女が麻薬なら、耐性でもあるのかな。二十四時間一緒にいても傾かないだけの」
ヤオはゆったりと微笑んだ。
「宦官、をご存知ですね」
「知ってるけど。去勢された中国の官史だろ」
「ですから、私は安全なのです」
「……え?」
あまりに意外な返事に、SYOUは一瞬言葉を失った。
「……きみ……」
ヤオは指の長い大きな手を目の前で優雅に動かしながら、空中に字を書いた。
「宦官という呼称のもともとのいわれをご存知でしょうか。宀は廟屋、臣は神の奴隷としてつかえるものを意味します。 つまり、それの会意である「宦」は神に仕える奴隷という意味なのです」
「……」
SYOUは改めてヤオの全身をあからさまな視線でたどった。
神だって?
奴隷?
……誰が誰の?
ヤオは掌をひらりと廊下の奥に向けると、言った。
「リンが朝からお待ちしています。どうぞ奥へお通りください」
寝室にリンの姿はなかった。白いベッドはきっちりとメイクされ、誰かが身を横たえた形跡もない。壁にはレースのカーテン越しにサンキャッチャーの光が揺れ、壁には美しい色合いの絵がかかっている。この絵は前来た時もあっただろうか? 崩れ落ちる美少年を抱える輝くような美青年。二人とも全裸だ。
……これは昔見たことがある、あの、髭男のマンションで。たしか、『ヒュアキントスの死』。
お前をヒュアキントスにみたてて写真を撮る、とか息巻いてたけど、アポロンが見つからないとかで立ち消えになったんだっけ。
こうして見ると高級ホテルの一室のように無機質な部屋だ。彼女の住まいはほかにあるのだろうか。などとつらつらと考えていると、背後でがちゃんという音がした。
振り返ると、空中庭園に続くガラスドアを開けて、リンが花束を持って立っていた。
長い黒髪を後ろに流し、抱えているのは桜の枝、旭葉蘭と、ラッパ水仙。体の線がほとんど透けて見える、薄い白い絹のガウンをまとっている。
「ここの庭園には桜もあるの?」
微笑みながら尋ねると、
「桜は買ってきてもらったの。あと、あうお花を探していたの」
小さな声でそう答えて、頬を染めながら困ったように目線を落とした。
「あなたのために活けようと思ったのに、間に合わなかった」
「かまわないから、ゆっくり活けて。僕はここで見てるから」
「SYOUは先にバスルームを使ってください」
「必要ないだろう、僕はきみと話をしに来た」
「……」
「きみと話ができる。目隠しも耳栓もなしで。そう思うだけで眠れなかったよ」
それを聞いた途端、リンの陶器のような頬一杯にぱっと喜びの表情があふれ、プリズムのように輝いた。
「……嬉しい」
それから小半時、SYOUはベッドに腰掛けたまま、ガラステーブルの前で花を切っては活けるリンを見ていた。今がどういう状況で、自分がなぜどこにいるのか、まるで何も考えていなかった。妙なことに、まるで異空間に投げ出されたように頭は真空に近く、心は穏やかに静まっていた。
「それ、どこかで習ったの」
「自分で、したいようにしているだけ」
細い腕を伸ばしてうねる桜の枝と、その根元に屹立する旭葉蘭、そして可憐に顔を覗かせる水仙が、静謐な小宇宙を形作っていく。SYOUは素直に感動した。
「……きみはアーティストだ。仕事にできるよ」
「お花ならたくさんあるから、時間が潰せるの」
そういうと、リンは青磁の花器に活けた花をベッドサイドに置いた。
「また会えると思わなかった。もう来ないと感じてたから、夢みたい」
「なぜ来ないと?」
「だって、あなたは……」
SYOUは声をひそめてそのあとを受けた。
「……なにもしなかった、そのことできみが責められたりしなかっただろうか。実はそれが一番気になってた。ここの様子は、いちいち記録されているんだろう」
リンは明らかにうろたえて辺りを見やると、口ごもった。
「これは僕の勝手な推測だ。きみは何も言ってない。だけど……」
リンの瞳が窓からの日差しに鳶色に透けている。見とれそうになる自分に、SYOUは先を促した。
「僕には見当がつかないんだ、どこまでの会話なら許されるのか。ここでこの先を話すのはまずいだろうか」
リンはしばらく考え、庭園に通じるドアのほうを向くと、口調を変えて、言った。
「外に出ましょう」
「外?」
「本当は誰も入れないの。でもあなたは別。わたしの作ったお庭を見て」
四月の陽光を浴びて、ビルの屋上庭園は春の花々の香りに優しく満ちていた。
サンゴジュ、キンカン、オリーブが木陰を作り、ハイビャクシンが地を這い、そのわきに水仙、フリージア、バラ、小手毬……
欲望の渦巻く薄汚れた牢獄にふさわしくない、都会の中のオアシスのような不思議な空間に、SYOUは一種のめまいを覚えていた。ゆるやかに水路が巡り、ビオトープにはヒメダカやシュリンプ、金魚の姿が見えた。
「餌やりとかもきみが?」
「水草もあるし光合成で養分は足りるし、プランクトンもいるから餌やりの必要はほとんどないの」
「植物の世話は……」
「種や苗は陳やイーリン……ここのお手伝いさんが買ってきてくれて、わたしは配置して、土を作って、栄養をやるだけ」
「誰にでもできることじゃないだろう、こんなきれいな庭は見たことがない」
「昔、故郷の家もこんな風だったから……」
花々に囲まれたガーデンチェアに座ると、どこからともなくヤオが現れて、二人の前にジャスミンティーのカップを置いた。リンの背後には、ひと群れの真っ赤な野イバラが咲きほこっていた。
「特別待遇過ぎないかな。僕は無事帰れるんだろうか」
からかうようにSYOUが言うと、ヤオは答えずに微笑みだけを返し、背を向けた。後姿が屋内に消えると、SYOUは尋ねた。
「故郷の家って言ったね。きみは裕福な家の出なのか」
「日本人は不思議」
リンは答えずに話題を変えてきた。
「自分の呼び方がいくつもある。SYOU、テレビで聞くとバラバラ。おれというときもあるけれど、わたしの前では、ぼく。」
「いけないかな?」
「わたしは感じる。距離を置くとき、相手が目上の時、あなたはそれを使う。わたしには、なぜ?」
SYOUは少し息を吸うと、口を開いた。
「きみはどこか他人と思えないところがある。自分を等身大にして、大事なことを大事な人にちゃんと伝えようとするとき、一人称がこうなるんだ。大人になってから、そうなった。
話したいことがいろいろ、ある。特別待遇なら、それに甘えよう。君だから話す。ちょっと長いけど、聞いてくれる?」
リンは黙って頷いた。
背後のバラに飛んできたメジロが赤い花をついばんで、ぽたりとひとつ、花房を落とした。
「これから話すのは僕のこれまでのことだ。
僕はいろいろ薄汚い目にあってきた。それこそ物心つくかつかないうちに、家庭は崩壊していた。
僕の母親は施設出身で、いつも誰かに守られていないと不安なタイプだった。で、男に依存した生活をしているうちに、最悪のヤクザにつかまったんだ。そいつは母を手に入れるために、自分の子を妊娠している内縁の妻に切りつけて流産させるような人間の屑だった。それが多分僕の父親だ。
暴力で支配された母に自由はなかった。薬漬け寸前で逃げ出した母の通報で男は逮捕され、母は親切にしてくれた医者と結婚した。僕の戸籍上の父だ。
でも不仲になって結局別居した。生まれてきた息子が自分に似ていない、粗暴で反抗的で手におえない、多分前の男の種だ。それが原因だったらしい。いろいろおやじにはいやなことも言われてたから、僕は母との暮らしのほうがいいと思った。
でも帰った故郷で僕らはあの男に見つかった。そして昔通りの幽閉生活が始まった。今度は脅しの種は僕だった。母が自分に反抗したり逃げようとするとあいつは僕を殴った」
「……」
鮮やかなオレンジのベニシジミが頭上を舞って、花影に消えた。リンは静かに尋ねてきた。
「お母さんは、どうだったの。見ていただけ? 守ってはくれなかったの?」
「まあそりゃいろいろあったけど、あの人なりに懸命に守ってくれようとしていたよ。気分屋で、泣かれたり怒鳴られたり当時は恨みもしたけど、どれだけ母が壮絶な目にあっていたか、あとで分かった。母は不特定多数の客を取らされていた。自分と同じように僕が金づるとして利用されないように必死だったんだ」
「そう。……いいお母さんだったのね」
「だからこそ、実は言えなかったこともあるけどね」
「……?」
「そのあたりでされたことをたまに思い出すんだけど、なぜか思い出すたびに眠くなるんだ。一種の自己防衛本能かな」
リンは言葉を選びながら、何か用心深そうに聞いてきた。
「わたしが他人と思えないっていうのは、お母さんと重ねてるの? それとも……」
SYOUはチェアに身を預けて上を向いた。
「十二歳の頃かな、あのヤクザ男が母を連れ回して、小旅行だのなんだので三日四日家を空けることも珍しくなかった。あるとき、留守中の世話を頼まれたとか言って大柄な髭面の男が上がり込んできた。まずは食事をしようと言って僕を連れ出した。外食は久しぶりなんで野良犬みたいに食ったよ。そのあと家に連れて行かれた。マンションで一人暮らししてて、壁じゅう本だらけだった。画集とか映画の本とか、あとあらゆるジャンルの映画のDVDがずらずらあって、なんでも見ていいと言うから本を見てたら、急にキスされた」
「SYOU 、かわいかったんでしょうね。いまがそれだから」
「呑気な感想だなあ。こっちはそれどころじゃなかったよ」SYOUは苦笑した。
「そのあとは、男子が一生お世話になる自己処理の仕方を教えてもらったり、実演を見せられたり、手伝わされたり、まあ、いろいろ……
とにかく一日中こっちの写真ばかり撮ってた。それこそ風呂の中にまでついてきてね。寝ようと思っても布団の中にはいってくるし、とにかくプライベートな時間がない。自分の体にすら、自分だけの部分がなくなった。あんな異様な経験はなかった。そこにはそのとき四日いたんだけど、途中から飯が食えなくなった」
「めしがくえない…… 食事ができないってこと?」
「何が起きてるのかよくわからない混乱状態だったんだけど、自分はこの先どうなっていくのかと考えたら、結局母親と同じ人生になるような気がした。そうしたらもう胸が詰まって、その家の中では何も食べられなくなったんだ。帰っても あのヤクザ男に脅されてて母親には何も言えないしで、感情がすり減ってくっていうか。
それからも同じだ、僕は自分が安心していられる場所でないとものが食べられなくなった。
僕がおかしくなってくのを見て、それからは髭男は加減してくれた。何度か同じように母にわからないようにそいつに預けられたんだけど、あまりこっちには触れずに、ただ写真やビデオを撮るだけになった。僕の食いそうな手料理をがんばって作ってくれたりね。まあ、今考えれば、そう悪い人でもなかったよ。
お前は頭がいいから本を読め、いい映画をたくさん見ろと言って、そこにあるものは何でも自由に見させてくれた。だからたくさん本を読んだし、名作映画も観たよ。いろいろ解説もしてもらったから勉強にはなった。まあ、そっち系のとんでもないビデオもあったけどね。世の中にはいい年してえらい目にあってる成人男子もいるんだなあと思ってみてたら、ちゃんと勉強しないとこの阿呆連中みたいになるぞって脅された。自分がしてることはなんなんだよって思ったね」
「SYOU、可哀想な話のはずなのに、なんだか、おかしい」リンは笑った。
「何か、映像関係の仕事をしてるみたいだったけど、本名も身分も明かしてくれなかった。で、そいつに送られて帰った ある時、悪いことに、旅先から帰ってきた母親とヤクザ男と鉢合わせたんだ」
「……お母さんは、知らないことだったのよね?」
「僕を自分と同じにさせないように必死になってたからね。結局息子をどっかの男に貸し出して金を稼いでいたと知って、珍しくあの男と大喧嘩になった。いつも殴られっぱなしの母親にしては、すごい勢いで立ち向かってたね。でもこのままじゃ母親が殺されると思ったから、必死で割って入って、初めてあいつを殴ったんだ。こっちも身長だけはあったからね。あいつは激怒して、刃物を持ち出して、……気が付いたら腕をざっくり切られてた。母親がかばってくれなかったら、殺されてたと思う」
「………」
「でも、あんたさえいなければとか、余計なことしないでとかついでに言われたんで、母親への感謝もなにも、なんだかむなしさだけに代わってたな。それで、もう考えるのをやめて、その日も自分で包帯巻いて押し入れに入って寝ちゃったんだ。これで死んでも、もうどうでもいいやって。
次に目が覚めたら、誰かに申し訳ないと思ったり、誰かを守ろうとしたりするのは一切やめようと決めたんだ」
SYOUはひと区切りつけるように、卓上の冷めたジャスミンティーを飲んだ。ふと目を上げると、リンの長い睫毛が涙に浸されていた。
「……なんで、泣くの」
「SYOU、可哀想」
「昔の話だよ、今はこんなに頑丈だから」
SYOUは指を伸ばして、リンの細い手に大きな掌を乗せた。
リンは下からその指を握りながら、まっすぐな声で言った。
「わたし、そのとき傍にいてあげたかった。押し入れになんて、ひとりでSYOUを入れさせない。
わたしがそばにいたら、そいつにとびかかってひっかいて噛みついて……」
「それじゃ、猫だ」SYOUは笑いながら口を挿んだ。
「傷をなめて、消毒して包帯巻いて、抱きしめて、大丈夫よって言ってあげて、それから頭を抱いて、それから、……」
荒くなってきた息を抑えるようにひと息つくと、済んだ瞳が吸い付くようにSYOUを捉えた。
「いい子ねって言って、背中を撫でてあげる。何度も、何度も撫でてあげる。あなたが安心して眠れるまで、抱きしめて、傍にいてあげる。
傍にいてあげたかった。ひとりぼっちのあなたの、傍にいたかった」
少女はそのまま、SYOUの手に濡れた頬を擦り付けるようにして、次に唇をつけ、祈るようにその上に顔を伏せた。
そのとき、SYOUの背中に知らない疼きが走った。
確かに、すべらかな指が広がって、自分の背中を撫でるのだ。あの、ロゼワインで頬を染めて紫煙を吐き出していた澪子の言葉がまるで自動再生のように脳裏によみがえった。
……それは、恋?
また信じるのか、この花束を。
そしてこの手に抱くのか。
それでもいい、美しい花を美しいと思えないような人生なら、生きている価値もない。
失って怖いものなんてもう何もない、この世にそれほどの価値もない。どうせこの世はあの女の言った通り、誰かの酔い心地の中の酔迷宮なのだから。
SYOUは祈るように目を閉じると、自分の掌に頭を伏せている少女の小さな頭に、そっと口づけした。