騎兵戦線「懐刀」
華やかとは言えないが、適度な装飾を施された通路を案内された。奥へ行くにつれ、静けさが押し寄せてきた。しかし人の気配は随所にある。
宮中であった。
案内の小姓がいなければ、各所に配された兵士に捕縛されるだろう。いや、入ってくることもできなかったはずだ。
綺麗に掃除された一室の前に着くと、控えていた別の小姓が鈴を鳴らした。
「入れ」
男の声が招き入れた。
「葉俊だな」
ゆったりとした衣を纏った四十代の男が、落ち着いた眼差しを向けてきた。秀でた額は文官の様相である。
葉俊は軽く腰を屈め、礼をした。口は開かない。急な呼出に対する、ささやかな抵抗を試みた。
「三騎兵」
それには構わず、男の視線は強く射抜いてくるものだった。
三騎兵とは、彼らの国では大きな意味を持っている。
草原の国である央は、馬と親しい。軍の主力は騎兵だ。その中でも優れた騎兵に与えられる称号であった。武力はもちろんのこと、知力、胆力を併せ持った者だけに下賜されるものである。現在、央には三人の名が知られていた。ゆえに、三騎兵と呼ばれている。その一人が葉俊であった。
「遅参いたしました」
葉俊はやんわりと返事を返した。剣を受け流すのと同じだ。真っ向から立ち向かう必要はない。相手の意気を削ぎ、自身は揺らがない。
物怖じしない葉俊に、男は唇の端をあげた。
「暗部」
揺らめく。
葉俊の手がわずかばかり動いた。常ならば、背にある太刀に向かう。今は、そこに鉄の重みはない。宮廷の入口で、小姓に預けていた。
「いや、すまぬ。そのことを知る人間は、ほとんどいるまい。私もあらかじめ聞いていなければ、結びつけられなかった」
男が礼を失したことを詫びた。
国という枠組みは、一面だけで成り立ってはいない。政治や治安を司る組織が屋台骨ならば、人知れず暗躍する集団は柱と柱を繋ぐかすがいか。外から見えることはないが、確実に存在している。特に、濃い色合いを持つのが暗部だった。特異な任務を受け持ち、秘として扱われる部署である。
「私は三騎兵です。司隷校尉殿のご興味がいずこにあるか、わかりかねます」
司隷校尉とは、治安を維持する組織の長である。葉俊を呼び寄せた男は、文官に見えようとも、軍部に次ぐ武の組織の長であった。
「君に興味がある。が、それはまたの機会にしよう。今日、来てもらったのは、協力を願いたい事態が発生しているためなのだ」
「司隷校尉殿のお力で、治安に不備があるとはとても思えませんが」
わずかな皮肉を滲ませた。
「民衆に不安はない。不穏なのは、ある高官なのだ」
皮肉には動じなかった。最後の言葉にだけ、憂いが含まれていた。
「我らが介入するのは難しい。かといって、司空殿にはかっていては時がない。その程度ですむ話でもない」
司空という役職は、官吏の不正を調査する組織の長だった。
「お待ちください。重大事であることは理解できますが、司隷校尉が関わる話ではないと考えますが」
高官の動向を知ったとしても、通報する先はやはり司空が適当だった。警察権を有する組織が、官吏に手を出すことは、後に遺恨を残すことが多い。関わり合いになりたくないというのが実情だろう。
「そう考えるのが妥当だろうな」
「さらに、私にこの話をする理由が見あたりません。たとえ軍に関することでも」
わざわざ葉俊に話をすること自体が異例だ。軍組織の中で、三騎兵は特殊な位置づけであり、平時には兵権も与えられていない。現在のような戦時であれば、部下をつけられることもあるが、外に向けての軍事行動を起こす場合が常だ。治安とは縁遠いはずなのである。
「この件は、殿下にお力添えを願った」
葉俊は瞼を閉じた。三騎兵は王家の直属である。意向に従う他はなかった。
「従兄という立場を利用したことになるがな。しかし、早急に対応する必要があるのだ」
「伺いましょう」
葉俊は、居ずまいを正した。
月に雲がかかる頃を見計らい、潜入を開始した。
動くときは、雲と共に。屋根の上を音もなく走り、静かに移動した。身軽さは仲間内でも定評があった。
月が顔を出した。
葉俊は屋根に伏せ、外套で身を隠した。屋根の色合いは調べていた。夜に埋没する色を探し出すのは難しくない。
屋敷の庭には、巡回する兵士がいた。取り立てて厳重な警戒ではない。見つからないよう、冷たい瓦に頬を寄せ、耐える。
しばらくして、味方の雲が光を遮った。そっと身を起こし、這い進んだ。
男と女の笑い声が風に乗って聞こえてきた。
宴が開かれていた。中庭には人の手が加わった池があり、小さな橋がかかっていた。宴席の扉は大きく開け放たれ、庭と月を見ながら風情を楽しんでいるようだ。
葉俊は背中の太刀に触れた。いつでも抜ける状態にあることを確認する。外套で隠していることもあり、若干抜きづらくはあったが、脇の下から抜く動作ができるように工夫を施していた。
厠へ行く男が一人出てきた。それに付き従う護衛が二人いた。
鈎のついた縄を垂らした。脱出用である。
月が陰に入った。
音もなく飛び降り、太刀に体を乗せた。護衛の首筋から侵入した刃が鎧をえぐり、あばらを断ち切った。その勢いは止まらず、前を歩く標的の男の腱に到達した。
計算どおりだった。これで逃げられはしない。
男の悲鳴が上がる前に、床に縫いつけられた太刀を手放した。抜いた刀子を護衛の喉に差し込んでから、悲鳴が出た。護衛は倒れる。
葉俊は足を押さえてうずくまる男の襟をつかんだ。引き倒すと、王宮で見たことのある高官が、顔を醜く引きつらせていた。
「お、お主は三騎――」
「お静かに」
刀子を喉に突き立てた。わずかばかり、刃が消えると、声も消えた。
「内通」
その言葉で男の顔色が色を失った。
「死罪です」
隣国の華に、情報を売り渡していたという。指揮官の人事や家族構成など、それほど重要な情報ではなかったが、背任行為を行ったことは許されない。ましてや、治安を預かる司隷校尉の義弟なのだ。
葉俊はめり込んだ太刀に体重をかけて引き抜いた。力があるほうではない。落下する勢いを利用しなければ、鎧を斬り通すことなど彼には無理だ。三騎兵では、彼が一番非力だった。
生暖かい液体を垂れ流しながら大臣は這いつくばった。まだ、息はある。
「何事か!」
悲鳴を聞きつけた兵士が駆けつけようとしていた。
葉俊は勢いをつけて振り返った。太刀が大きな弧を描いて血を吸った。汚れを拭い、背に収める。
小便の中で男の首が舌を出していた。
残虐な仕打ちであった。
屋敷の外壁に辿り着くと、愛馬が空身で歩いてきた。
「ちょうどよい頃合いです」
壁から身軽に飛び降り、鞍の上に着地した。屋敷が騒がしくなるのもどこ吹く風で、葉俊は空を見上げた。
「よい月ですね」
いつの間にか雲が晴れていた。月明かりが往来を照らし出す。通りに人は見えない。隣国との戦が始まっており、治安を守るためにも、夜間に出歩くことは禁じられていた。
「葉俊様」
不意に声をかけられた。
「何です」
馬の歩みを止め、暗がりから現れた男に視線を落とした。驚くことではなかった。少し前から気配は漂っていた。あえて消していなかったのだ。
「暗殺の任は、我々が担います。御自ら手を下す必要はないのではありませんか」
「任務を与えられたのは私ですよ。あなた方ではありません」
柔和な言葉にも強い意志がこもっていた。反論を許す余地はない。
「しかし、頭首の仕事では」
「今の私は、三騎兵です。わかりましたね」
葉俊の笑みは、かつて従えていた部下の背筋を冷やした。
「はっ」
頭を垂れ、服従の意思を表した。それ以外のことはできなかった。
「何かあれば、手伝ってもらいます。それまで、大人しくしていなさい」
あなたたちのことは忘れていませんから、と付け加えた。
忘れて欲しいのは、自分たちのことを知る人間だった。
葉俊の胸には、新しい顔が刻まれていた。その顔が今夜の成果を聞いたとき、どのような顔になるだろうか。安堵するか、あるいは、ほくそ笑むか。
想像の真実を知る必要はない。今しばらくは、便利な道具でいる。それでよかった。
月の下で、蹄が心地良い音を立てていた。