60.ツボの中から異世界へ
「魔物が……?」
泣き止んで落ち着いたサラに、万友莉はレーダが魔物を捉えたことを伝えた。
「マイ、サラにも見えるように表示できる?」
『了解しました』
その返事とほぼ同時、ホログラムのように空間にレーダが表示される。マイはその声をサラにも聞こえるようにしたらしく、サラはレーダよりも声の方にびくりと反応したようだった。ただ、それを追求する場合ではないと判断したのだろう、サラはすぐにレーダに注目していた。
「……この、赤い範囲の中に?」
「魔物の反応は、赤い点で表示されるものなの」
「じゃあこれは……?」
「こんな巨大な魔物が一体とは思えないから、点で表示できないほど密集しているんだろうね」
まださほどの時間は経っていないはずだが、レーダを浸食する赤の面積は、魔物たちが着実に接近している事を示している。
「この表示の縮尺は?」
「先端までがおよそ十キロメートル」
「そこまでが塗りつぶされているってことは、密集した魔物の列が……最低でも五百メートルくらいは続いてるの……? 横の長さも終わりが見えないのに……」
レーダは細長い扇形が車のワイパのように振れておおよそ中心角九十度の範囲を表示している。そこに、少なくとも現時点では、魔物の行列の幅も奥行きも終わりが捉えられてはいない。
「マイ、どれくらいの数がいるか推測できる?」
『現時点でも五千程度は確実、上限は未知数です』
「最悪の想定では?」
『ウェスターン・ダンジョンがクェズラント・ダンジョンと類似していると想定し、その全ての魔物がこの侵攻に加わっているとすれば、百万を優に超える大群が押し寄せます。ただし、クェズラント・ダンジョンでもその全容を把握したわけではないため、更に上振れる可能性もあります』
「…………」
その、文字通り桁違いの数字に、万友莉もサラも声を失った。
だが、それは同時に、万友莉の決意を後押しするものでもあった。
「……マイ、後どれくらいの時間で接触する?」
『このままの速度を維持し、かつ、全ての魔物が今のまま足並みを揃えるなら、およそ一時間四十五分ほどです』
「……分かった」
「ちょっと! 万友莉、何する気!? ……まさか、死にはしないだろうからって、一人で突っ込むなんて言わないよね!?」
万友莉の声音に悲壮なものを嗅ぎ取ったのか、サラが慌てた様子で声を上げる。
「大丈夫、そんなことしないよ。それに、もし最悪の推測が当たってたら、そんなやり方じゃ、誰も助けられないもの……」
「……でも、何かするつもりなんだよね? 危険じゃないの?」
「全く危険が無いとは言わないけど……。でも、大丈夫。この神器の力をもっと引き出して、それを使うつもりなだけだから」
「力を引き出すって……、それは……マンガみたいに修行とか試練とか、覚醒イベントみたいなもの?」
「えっと……、詳しくは説明してなかったけど、簡単に言えば……倒した魔物の魔素をいくらかポイントとしてストックしてあって、そのポイントを使って機能の拡張とかができるの。サラにあげた寝袋とか肌着とかもポイントで交換した物だし」
「……ゲームシステムみたいな仕組みなんだね……。ホント、万友莉の“それ”って特殊だね……。ああ、無制限に出せる物じゃない、って言ってたのはだからなんだ」
「そう。それで、今から私、少し動かなくなるけど、心配しないで。声は届くはずだから、その間に何かあったら……」
「オゥカイ。任せておいて!」
「うん、お願い」
サラの力強い返事を心強く思いつつ、万友莉は意識を生身へ戻した。
トレーシング・システムから出た万友莉は、早速カタログを表示し、目当ての機能を口頭で検索する。
「……『ツボ魔法』」
絶望的な状況を打破するために、万友莉が思いついたのは、この機能を使うことだ。
最初に認識したのはもうずいぶん前で、それ以来も万友莉の意識に上ることはなかったが、常識では太刀打ちできない、現状をそう捉えた万友莉の脳裡に、非常識を実現する可能性として、この機能のことが俄に思い出された。
理を超越した魔法――改めてその説明文を見て、万友莉は、それが自分の望むものであってほしい、と思う。
そして万友莉は『決定』を押そうと指を上げて、その指が、いや、指だけでなく、全身が、震えていることに気付いた。
万友莉は、これが武者震いというものだろうか、と不思議に思う。少なくとも万友莉の意識では恐怖を感じているわけではなかったからだ。
だが、そんな万友莉の意識とは関係なく、指は、ただ震えるばかりでなく、『決定』を押すことを、拒んでいた。
その心身が一致しない感覚に、万友莉は、自分はやはり何かを恐れている、と感じた。だが、思考は、その“何か”を上手く見い出せない。
万友莉はその感覚を気持ち悪く思いながらも、迷っている時間は無い、そう強く思う意思で自分の指を従わせ、『決定』を押した。
次の瞬間、万友莉の脳裡に、まるで既に知っていたそれを鮮明に思い出したかのように、『ツボ魔法』の使い方が理解された。
世界を滅ぼすことさえできる――いつかのマイの言葉が、嘘ではないと、万友莉は理解した。
この世界の理を超越する、それはすなわち、この世界の“禁忌”すら無視できる。それは、万友莉が望んでいた以上の、あの魔物の大群を、やりようでは一瞬で滅ぼすことさえできる力だった。
使い方を誤れば、味方すら危うくする力。私はこれを無意識に恐れていた? ――万友莉はそう思うが、それが正しくないことは感覚的に知れた。
大きな力を行使してみせることで、自分を利用しようとする人間が現れることや、人から恐れられること、敬遠されることを、恐れた? ――そんな推測も、正しいとは感じられない。
当然だ。それらは、ツボ魔法の全容を理解したことで思いついた後付けの可能性にすぎない。そもそも、体はそれ以前から無意識の恐れを示していた。だから、それはただ、既に知っているはずの答えを迂回しようとする無意識が思いつかせただけのものだ。
そう気付けばもう、万友莉は、それを見ない振りはできなかった。ツボ魔法の存在に思い至ったとき、それをどう認識していたか。
理を超越する魔法、そして、それを使うためには――ツボの中から、外へ出る必要がある。
それこそを恐れている! ――万友莉はそれを、理屈でなく、感覚で理解する。
息苦しい。いつかのような、酸素が足りない息苦しさではない。胸元を強く圧迫され、呼吸すること自体が難しいような、息苦しさ。
動悸がする。強い拍動が全身へ血液を送り出しているはずなのに、指先は氷のように冷たく、悪寒に全身が震える。
強い衝動が襲う。全てに目を閉じてしまいたい、耳を塞いでしまいたい、――逃げ出してしまいたい!
それは、強く苛むようであり、同時に、甘美な誘惑のようでもあった。
引きこもってから、少しずつ、少しずつ積み重ねてきた自分自身への理解など、解ったつもりになって仮初めの安心を得るためだけの、ひどくちっぽけなものだったのではないか。この世界で幾度も心に刻んだはずの決意や覚悟だって、自分を安全な場所に置いていたからこそできた、張りぼてのようなものではないか。この世界でのことも、ずっと自分の領域に隠れたままで、結局はそれ以前と何も変われていないのではないか――万友莉の内に、弱気ばかりが湧き上がり、それが質量をもって圧し潰そうとしてくるように感じられた。
屈してしまえば、逃げてしまえば、楽になれるのではないか――弱気は、そんな思いをも連れて来る。
だが、万友莉は知っていた。逃げた先にあるものを。その暗闇に潜むものを。自責、悔恨、焦燥、鬱憤、絶望、そんなものばかりを心に澱ませる日々の空虚さを。
そこに、決して、救いはない。
そして、万友莉は理解した。
それでもそこから抜け出せなかったのは――希望を失ってしまうことを恐れたからだ。
自分が嫌いで、自分を信じられない。だから、他者からの評価や悪意を恐れ、自分の他者への信頼が裏切られることに怯えた。
だけどそれはつまるところ、現実が“そうであってほしくなかった”からだ。
“世界は、優しいものであってほしい”――万友莉が漠然と恐れていたのは、その願いが裏切られることだった。今、それを、ようやく言語化して、自覚できた。
冷徹な現実に“答え”を突きつけられることを恐れて、その現実から逃げ出した。
結論を観測しなければ、自分にも、他者にも、社会にも、世界にも、失望せずにいられる気がした。希望は失われることなく有り続けると、夢見ていられた。
「だけど……、いいかげん、目を覚まさなくちゃ……」
あの、暗澹たる日々の中、その暗闇は、やりたいこと、やれること、やるべきことすら見えなくしていた。
だけど、少なくとも今この時、万友莉には、やれることがある。やるべきだと思えることがある。それをやりたいという意志がある。
だから万友莉は、歯を食いしばり、膝に力を入れ、背筋を伸ばし、蹲ってしまいそうな自分に抗った。
「……マイ、外に出るには、どうするの?」
「大丈夫ですか? まだ万友莉のメンタルは完全に安定していません」
「やっぱり分かるんだ。でも、大丈夫……じゃないかも知れないけど、やるって、決めたから」
「了解しました。ハブ・ルームに外への出口を構成します――」
『――サラ、少しだけ離れて頂けますか? 今から変形しますが、驚かないでください』
『オゥカ……ハァ? 変……? えっ、ちょっ、ええっ!?』
外の音声が万友莉の耳にも届いて、そのサラの驚きように、万友莉の肩の力が少しだけ抜けた。
万友莉がドアを開くと、ハブ・ルームの真ん中にはスロープができていて、その先には万友莉がちょうどくぐり抜けられそうな“光の穴”とでもいうものが宙に存在していた。
「ありがとう、マイ」
「私の役割は、万友莉を補助することであって、甘やかすことではありませんので」
手厳しくも思えるマイの返事に、万友莉は、敵わないな、と思い、自分の口角が少し上がるのを知覚した。万友莉が「ありがとう」に込めた全ての想いを、マイはちゃんと理解しているのだと分かったからだ。
そして、そんな、自分の全てを見透かすような存在が、今、余計な口出しをせずに見守ってくれようとしていることを、頼もしく思う。
万友莉は、一歩を踏み出した。
マイの言ったとおり、万友莉は自分の精神が不安定だという自覚はある。
この世界で出会った人たちに嫌われることを恐れるのは、今、その人たちを犠牲にしたくはない、と強く思うくらいには、気を許しているからだ。
その、不安と勇気は表裏一体で、ほんの僅かなきっかけでどちらにでも振れてしまいそうなバランスだ。
今まで散々悩んできた不安や恐怖だって、その輪郭を捉えたところで、消え去ってくれたわけではない。
それでも万友莉が足を前に進めることができるのは、紛い物の体を通してのものであっても、この世界での体験が、サラと一緒に歩いてきた日々が、万友莉にとって、それだけ大きなものだったからだ。偽りだらけの万友莉を、それでも受け容れてくれた人たちが、掛けてくれた言葉、向けてくれた優しさ、それらひとつひとつが、それぞれに、別の勇気をくれるからだ。
それは、万友莉が勝手に想像して怯えていた、“顔のない人たち”から向けられる悪意などよりも、ずっと強い。
そして、自分のために進むことは難しくても、大切だと思える人たちのためなら、万友莉は進むことができた。
宙に開いた“光の穴”の、その向こうはただ白く、見通せない。
あるいはそれは、白い“闇”なのかも知れない。その先に待つものは、決して希望ではないのかも知れない。
それでも万友莉は踏み出した。
斜度十度にも満たないだろうスロープは、大きな勇気を以てしてもなお、両足だけで上るのが難しい急斜面のように万友莉には感じられる。
それでも、もう、その足を止めることはなかった。這ってでもその先へ進む、決意があった。
そして――ツボの中から、異世界へ。
万友莉は、光の向こうに、その一歩を踏み出した。




