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ツボの中から異世界 ~A step towards a new world~  作者: みたよーき


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58.フラッシュバック

 目が覚めて、最初に感じたのは、漠然とした身体の不調だった。

 首だけを巡らせた。いつもの、自分の部屋。しかし、寝る前に閉じたはずのドアが、開いていることに気付いた。

 ベッドを降りようとして、ふらついた。なんとなく身体が重く、鼻が詰まっているようでもないのに少し息がしづらいように感じる。

 だが、いつもと違うと感じるのは、自分のことだけではない。

 何かが、おかしい。ただ漠然とそう思うが、開いていたドアの他に部屋には目に見えておかしな所は無い。

 その正体を確かめるために、壁についた手を支えに歩き、部屋を出た。電気は付いていないが、暗がりの中でも玄関の扉と洗面所への扉は閉じているのが確認できた。ただ、ダイニングへの扉は開け放たれたままだった。

 その場からでも、ダイニングとリビングの間仕切りの向こうに、ぼんやりとした光源があることが判った。大きな明かりとは見えないが、電化製品の稼働状況を示すランプにしては明るい。

 ふらつきながらダイニングに踏み入ると、違和感を覚えた。

 ――音?

 そう思って耳を澄ませると、夜の静寂の中に、遠くで遮断機が鳴り始めるのが聞こえた。だが結局、違和感の正体は分からない。

 いや、あの明かりの正体を確かめるのが先だ。寝起きのせいか、息苦しさのせいか、ハッキリしない頭でそう考えて、ダイニングを横切る。

 間仕切りの脇からリビングを覗き込むと、ロゥ・テーブルの向こう側に何かが赤白い光を放っているのが見えた。ただ、テーブルの陰になってその正体は判らない。それとは別に、室内にも漠然とした違和感を覚えたが、その正体を探る前に、視線はテーブルの手前に浮かび上がる一つの影に引き寄せられた。

 テーブルに遮られた明かりは、その顔までを照らして見せてはくれない。だが、そのシルエットが、うつ伏せに倒れる母だと、すぐに分かった。

 反射的に駆け寄ろうとして、足がもつれた。母の手前に倒れ込みながら、両手で自分の身体を支えた。

 母に近い右手の先に、冷たい感触。同時に、鼻の奥に鉄っぽい匂いを知覚した。

 血だ――匂いは、そう直感させた。

 反射的に身を引いた。その時、左手の指先に、硬質な何かが触れた。画面は消灯しているが、母のものだろうスマートフォンだと判った。

 母さん、そう声を出そうとしたが、上手く声が出ない。息苦しさが増している気がする。それだけではない。視界が揺らぐ感覚に、軽い吐き気を覚える。不調の悪化を自覚するが、それよりも目の前のことの方が重要だった。

 母の肩をゆっくり、次いで強く揺するが、全く反応が無い。

 救急車を呼ばなくては、そう思って立ち上がろうとして、手元に母のスマートフォンがあることを思い出した。

 スマホの表面に触れる。点灯したバックライトが、右手指先の赤を照らし出し、視線がそこに引きつけられる。それは想像していたことのはずなのに、喉の奥で、悲鳴になりそこなった掠れた音がした。

 歯を食いしばってスマホに視線を戻す。モニタには検索窓と検索履歴が表示されていた。

 ――引きこもり自立カウンセリング精神科対人障害原因家庭環境愛着障害親責任心中中毒ガス練炭――

 文字を読もうとするとひどく頭が痛んで、そこにあった全てを見ることはできなかった。だが、目に入ったいくらかの文字の中から、漠然と現状を理解した。

 腹が立った。

 こんな手段を選んだ母に。母をここまで追い詰めた自分に。そしてそれ以上に、父に対してだ。

 父親と言っても、それはただ関係性を表すだけの言葉だ。幼い頃からずっと、父は、平日はいつも夜遅くに赤ら顔で帰ってきて、土日もゴルフだ釣りだとろくに家に居なかった。そんな人間に、どんな“親子”という感情を持てば良いのか、分かるはずもない。

 ただ関係性が希薄というだけではない。

 なれるわけないだろう――幼い娘が、大活躍するスポーツ選手を見て「私もあんな人になりたい」そんなことを口にした時、鼻で笑うように、嘲るように、娘に対してもそんな言葉を放つ。父はそういう人間だ。

 遊びに来てくれた友人と少し騒がしくしたら、うるせえ、と大声で怒鳴りつける。してやっただろう、家族へも向けられるそんな物言い。理屈ではなく自身の感情を根拠にしているとしか思えない、勝手な決めつけによる他者への批難。もっと細かいことでいえば、ゴミの分別をきちんとしないとか、人のものを無断で使うとか、あまつさえ元に戻さないとか。そういった父の行動には、他者への思い遣りというものが著しく欠如していると感じる。その自己中心的な、尊大で傲慢とも映るふるまいは、父の、他者への無関心からくるものだと感じられてならない。そして、その“他者”には、家族すら含まれている。

 それが客観的に正しい評価かどうかは意味が無い。自分にとってはそれが、この上なく説得力のある、事実だった。

 その理解は、苛立ちや怒りよりも、ただ深い納得と、悲しさと、そして、大きな虚しさをもたらした。

 虚しさは、父に何かを期待することをやめよう、そんな決意をさせた。

 だから、何も理解しようともせずにただ、働け、仕事を探せと口にすることも、そしてそのうち何も言わなくなったことも、もはやどうでもいいと思えることだ。

 だが、どうして母だけが、ここまで気に病まなければならないのか――そう思えば、強い怒りや悔しさが、心の奥から湧き上がってきた。

 その激情が、朦朧としつつあった意識を少しだけハッキリとさせ、やるべきことを思いつかせた。

 通話に切り替え、僅か三つの数字を入力する。ただそれだけのことが、もう、ひどく難しい。それでも、やり遂げた。

 声が聞こえた。だけど、その内容が、上手く聞き取れない。それは、遥か遠くから聞こえてくるようだった。

 聞き返す余裕はない。だから、こちらから一方的に声を出す。苗字やマンション名を口にしたはずだが、ちゃんと口が回っていたかも分からない。相手から返事があったかも、もう分からない。

 いつの間にか、上体を起こしていることもできていない。額が床についていることは判るが、体がどんな態勢でいるかはあやふやだ。

 ――このまま、死ぬのか。

 こんな理不尽な形で。何一つ誇れることを為せぬ、無意味な人生のまま!

 悲しい。怖い。……悔しい! …………ふざけるな!!

 湧き上がる感情のままに、大声でわめき散らしたかった。暴れ回りたかった。

 けれど、その強い衝動を以てしても、声は上手く出ないし、体も思うようには動かない。

 ただ涙だけが、意思と無関係に溢れ出して、目尻を伝って流れ落ちた。

 落ちた涙を、カーペットが受けとめた音だけが、やけに鮮明に聞こえた。


「――万友莉! どうしたの、万友莉!!」

 声が聞こえる、そう万友莉は認識した。一瞬の後に、それが、サラの声だ、と理解されると、万友莉の意識は一気に現実に引き戻された。

 砂の海が照り返す日光が目に入り、その眩しさは、あの暗闇の光景を一瞬で塗りつぶした。

 万友莉は、いつの間にか、片膝を突いて蹲っている。サラが、驚くような、不安そうな表情で、万友莉を覗き込む。

「……『大丈夫』。……私は大丈夫だよ、サラ」

「ああ! 『良かった』……!」

 万友莉が声を掛けると、サラは心の底から安心したように声を上げた。万友莉の日本語は先ほど蘇った記憶に引きずられて出てしまったものだったが、サラの日本語は安心のあまり素で出てしまったようだ。

「マユリ、大丈夫か? どこか悪いのか?」

 立ち上がった万友莉に、近づいてきたジェシカがそう声を掛けた。他のメンバは持ち場こそ離れていないが、心配そうに万友莉の方を窺っていた。そしてサラも、万友莉がとても申し訳なく思ってしまうくらい、心配や不安の中に別の感情をない交ぜにしたような複雑な表情で、万友莉の方を凝視し続けている。

 さすがにこれは「何でもない」は通用しないだろうな、万友莉はそう思いながら、どう答えるか僅かに逡巡した。しかし、嘘を言っても仕方ない、そう思って、口を開く。

「……突然、フラッシュバックが起こった。私が今まで忘れていた……ほとんど死にかけたときの記憶が。……でも、もう大丈夫。今は意識も明晰だから」

 万友莉は、空元気に見えないように、大袈裟にならないように意識して、なんてことない風を装う。

「それは……。……とにかく、心配しなくて良いんだね?」

「もちろん」

 言葉とは裏腹に未だ心配そうではあるが、ジェシカは万友莉の意思を尊重することにしたようだった。

「分かった。だが、魔物を見つけた後には、あんたたちには最大限に働いてもらわなくちゃならない。だから、それまでは休んでな。オアシスまで下がってもいい。合図を見逃さないようにサラも付いていてあげな」

 敢えてそういう言い方をするジェシカの思い遣りを、万友莉は素直にありがたいと思う。

 だから万友莉は、申し訳ないような、後ろめたいような気持ちを飲み込んで、ジェシカの言葉に甘えた。


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