52.魔の氾濫
アレクスがM.P.(ミューテイテッド・ペレンティー)と呼称することを決めた大型の魔物を駆除した一行は、その後さらに一週間ほどを掛けて六十六階層の調査を進め、セーフ・セクタ発見数が四十に迫ったところで帰途に就くことを決定した。
六十六階層の調査に約二週間を掛けるのは予定通りだが、セーフ・セクタの数から推測される調査の進捗は想定以上だった。いくつかの植物や鉱物についてはサンプルの回収が行われているため、決して調査がおざなりになったわけではないのだろうが、魔獣素材の新たな可能性が示唆されてからは、どことなく急ぎ足になったように万友莉には感じられた。
その、万友莉に竜骨の剣を授けた“サムワン”についての追求は、結局、早々に棚上げにされた。
なにせ、万友莉が伝えたのは“声を聞いたのみでその姿を見たことは無い”ということ、加えて“声は女性的に聞こえたが、必ずしも性別を特定する材料とは言い切れない”という“事実”だけだ。そして、その万友莉の言葉に嘘が無いことは、伝えられた皆が感覚的に理解した。万友莉が“サムバディ”でなく“サムワン”と表現したのは、マイが事実肉体を持たないがゆえに万友莉が感覚的に無意識で行ったことだが、そういった些細な面も万友莉の言葉から嘘の“におい”を遠ざけた。
ともあれ、“予想外の収穫”を得たこともあり、マークとジェシカは共に一次調査としては十分な収穫と判断し、帰還を決定したのだった。
六十六階層の調査の中では上階へ続く道も新たに二つ発見していたが、それは元より次回以降の調査項目であるため、帰路もまた聖流に沿っての行軍だった。
持ち帰るサンプルは、種類こそ多くないものの、やはり“M.P.”の素材がかなり嵩張った。肉は特に腐敗のおそれもあり、ごく一部を冷凍して持ち帰るのみだが、それでも、ポータ(運び人)を本職とするステファンとオリヴィアだけに任せるには文字通り荷が勝つほどだ。
――余談ではあるが、M.P.の肉は、毒のおそれのある部位を除いて試食され、非常に美味であることが確認された。“それ以上”を知る万友莉とサラですら驚くほどの美味さは、他のメンバの中には涙を流す者すら存在するほどだった。そのため、全て持ち帰るべきだという意見もあったが、トン単位になりかねない荷物を持っての帰還は現実的では無く、泣く泣く諦められたのだった。
ともあれ、それだけの大荷物を抱え、なおかつ、帰路ではボブスレイの使用は不可能であることも考慮すれば、地上まで二十日前後は掛かることが想定された(それも調査を引き延ばさない決断の一因だった)。
だが、想定に反して、一行は二週間きっかりで地上へと帰り着いた。途中、五十階層で待機しているはずのエディが何らかの事情で地上へ戻ったことを知らされて、多少急ぐ気持ちがあったのは事実だ。しかし、それを可能にしたのは気持ちよりも肉体面に依るところが大きい。それは、ダンジョン下層、延いては高濃度魔素下における活動が身体能力の向上に及ぼす影響を裏付けるものと思われ、特にステファンが、研究すべきテーマが多すぎる、と嬉しい悲鳴を上げていた。
何にせよ、約一月半に及ぶ調査探索は、犠牲者を出すことも無く、無事に終わった。
――だが、ユニオンで待っていた知らせは、一行に安息の時を許さなかった。
「ディーモンズ・フラッド!?」
エディから伝えられた言葉が、図らずも異口同音に繰り返された。
「……ジョークではないんだな?」
マークが念を押すと、エディは深刻そうな表情のまま頷く。
「クェズラントで起こったスタンピードの続き?」
サラが尋ねると、エディはそれを否定する。
「無関係だと考えられている。氾濫が起こったのはウェスターンだ。『マスタ・オブ・ハンマ』ツチヤが現地で対応したが、状況は悪い」
「………………」
エディの言葉に、場の空気が一気に重くなる。マスタがいても対処しきれない、その事態の重さが万友莉にも肌で感じられるようだった。
「ユニオンのホットラインはまだ生きている。だが、ウェスターン壊滅は時間の問題だと思われる。皆には悪いが今後に備えて待機してもらう。……が、今すぐ出動というわけでもない。これから報告を聞く。手早く済ませて、少しでも身体を休ませてくれ」
そうして、重苦しい空気の中、調査の報告は行われた。
「待ってほしい、マユリ!」
報告も済み、形式ばかりの解散の挨拶を終えて、サラと共にその場を去ろうとしていた万友莉に、マークの引き留める声が掛けられた。
万友莉が足を止め振り返ると、マークは一人、万友莉の前まで歩いてくる。
「これを伝えれば、あなたは迷惑に思うだろうとは考えた。こんな事態下では尚更、言うべきではないとも。しかし、それでもやはり、私はあなたに伝えたい」
そういうなり、マークは膝を折り、そして万友莉を見上げて、言った。
「私は、あなたを愛している」
「………………」
その、突然のマークの言葉に、驚きと、困惑と、混乱に襲われ、万友莉は言葉を失った。顔が兜に覆われていなければ、間抜けな表情を晒していただろう。周囲の皆も驚いているような雰囲気は感じられたが、万友莉にそれを確認する余裕は無かった。
「……分かりません。何故……? だって、私はあなたに、素顔すら見せたこともないのに……」
ようやく絞り出した万友莉の返答に、マークは立ち上がり、心外だ、とばかりに大袈裟に肩をすくめてみせる。
「そんなことは問題ではないのです。私があなたに惹かれたのは、あなたの精神性の美しさにある。その輝きの前には、どのような見た目の美醜も、ただ影としか映らない」
マークの物言いはどこか大仰に聞こえる。だが、そこには虚飾も欺瞞もなく、彼の心の真実の響きのみが込められていることは、万友莉にも感じられた。
「なら、なおさら分かりません。私は、私の精神に美しさなど見いだせない……」
本音を言えば、自分の心は醜くすらある、と万友莉は思う。だが、それは口に出さない。この世界で過ごして、以前よりはずっと、己の弱さや醜さを認めて、そして、せめて卑屈には堕さないようにありたい、そう思えるようにはなった。
しかし、だからといって、手のひらを返すようにすぐに自分の全てを肯定できるはずもない。だから万友莉は、マークの言葉が心からのものだと理解できても、それを嬉しいとは欠片さえ思えない。万友莉は、それを申し訳ないと思うし、そんな自分をまだ嫌悪してしまうことに自覚もあった。
「その謙虚さもそうだ。そして、ダンジョンで自ら最前列に立ち、囮になることも厭わないあなたの献身。そのようなあなたの心根が美しくないというのならば、この世に人の心の美徳など、幾許が残るものか!」
だがマークは、相変わらず大仰に、本心を真っ直ぐ万友莉にぶつける。そこに邪心はなく、万友莉もそれは解るから、その言葉を真正面から受け止めるしかなく、だけど心はそれを受け容れられずに、万友莉の困惑は深まるばかりだった。
「……こんな姿なら、醜さを隠すためとは思わないの? 私が女である確証だってないでしょう? どうしてあなたは、そこまで言えるの?」
「言ったはずです。私は、あなたの精神性に惹かれたのであって、そこには外側の美醜も、性別さえも問題ではない。確かに、人が命を繋いでゆく営みは一つの愛の形ではあるでしょう。だが、感受性を持って生まれ、理性と知性を育てることのできる我々人間には、野性的な愛に勝る真実の愛を見出すことが叶う。そして私は、あなたにそれを見出した、それだけのことです」
「……あなたにとっての『愛』とは、なんですか?」
「私にとってそれは、人の心に巣くうあらゆる感情の中で、最も美しく輝くものです。だからそれは何より尊く、動物的な本能などよりもずっと尊重せずにはいられないものなのです」
「…………」
そう語るマークの言葉には、強い“芯”のようなものがあると万友莉には感じられて、自分はそんな想いを向けられるのに相応しくない、と否定しようとする心が万友莉に吐かせようとした言葉は、喉元で押しとどめられた。
「あなたの行動は、私たちへの愛でした。その愛に、私の心は震えたのです。あなたは、あなた自身をあまり愛してはいないようだ。だけど、そんなあなたを、あなたの愛を、尊く美しいと、とても愛おしいと、思う男がここにいる。それを、私はどうしてもあなたに伝えたいと思ってしまったのです」
その言葉は、そして、その言葉を発した彼の想いは、強く、真っ直ぐで、万友莉には心に少し痛いようにすら感じられた。だがその強さは同時に、信じられる、と、理屈で無く、ただそうと万友莉に感じさせもした。その言葉を、信じてもいいのかも知れない、そう思うことができた。
自分ではなく、誰かに、肯定されたかった――マークの言葉は、万友莉の中にずっとあり続けたそんな気持ちを明確にした。
万友莉の脳裡に、学生時代、バイトの時に、自分が何かに追い立てられるかのように無駄に思えるほどがんばりすぎて、心身共に消耗していたことが思い出された。その根底にあったものに、今ようやく心当たった。
――ただ認められたかったのだ。だから否定されることが“とても”恐かったのだ。
しかし、今、実際に認められても、まだ万友莉の感情は、簡単にはそれを受け容れることができない。
それでも、万友莉の悲観的な面すら多少なりとも理解した上で、それでも愛していると、嘘偽りなく述べられたマークの言葉。それを、信じてもいいのかも知れない、と思えたことは、万友莉に少しだけ、嬉しいと思うことを許した。
「……ありがとう。そう言ってもらえたこと、たぶん私は嬉しいと思っている。……だけど――」
そこでマークは、万友莉の言葉を遮るように、万友莉の眼前に手をかざした。
「私の想いに応えてくれとはいいません。ましてや、私を愛して欲しいなどと。だけど、私があなたを愛することを、この想いが私の中でだけでも生き続けることを、あなたはただそれだけを、許しては頂けませんか?」
「それは……、あなたの気持ちは、私が許可するべきことではありませんから……」
「否定しないだけで充分です。ありがとう、マユリ」
マークの、それだけの感謝の言葉は、彼の屈託のない笑みと共に、万友莉に届けられた。
万友莉は自分の気持ちを上手く整理することができなかったが、少なくともそこに、小さな罪悪感のような気持ちの他に、強く感謝したいような気持ちがあることも、確かに感じられた。




