5.遠い昨日
「これは……?」
万友莉は、マイに言われるがままに開いた冷蔵庫らしき箱の中に用意されていた食材を前に、つい、そう口にした。そこには、いつどうやってここに? 何の素材? 食べられるものなの? 調理方法は? などなど、様々な疑問がひとまとめに含まれていたが、万友莉自身、まず何を気にするべきかの整理は付かないままの言葉だった。
「栄養価を考慮して、現状ではベストと思われる一食分の食材を用意しました」
マイからの返事に、万友莉は、そういうことを聞きたかったわけじゃないんだけどな、と思いつつも、色々と説明されたとしても、自分がそれを理解や納得をできるか、と考えれば、あまり自信はない。それならば、自分を助けるために存在するというマイを信じてみる方が色々と話が早いだろう、と思い、少なくとも今は、ただマイに従ってみようという気になった。
万友莉は取り出した食材を調理台の上に並べてみる。肉、豆、葉物野菜。既に切り分けられている肉はほぼ赤身のみで百五十グラム前後といったところだろうか。見た目は大豆に似た豆も万友莉の両手に収まりそうな程度の量で、万友莉の知るものの中ではほうれん草が近い葉物も、量はたった一握りといったところ。一食分としては控えめな量に見える。
「えっと、これだけ?」
「解析の結果、ダンジョン深層の植物およびドラゴンの肉の栄養価は非常に高く、一日を安静状態で過ごすなら、これ二食で万友莉の健康は維持できる計算になります」
「ドラゴン肉……いや、竜肉かな……」
ニワトリ肉とはあまり言わないもんね、などと思いつつ、万友莉はマイの言葉でまず気になった、その艶やかな深いピンクの肉に改めて目が引き寄せられた。サシもほとんど見受けられないその赤身肉に、やはりドラゴンなんてものは筋肉の塊なのだろうか、なんて考えが浮かぶ。そして、こんな状況なのに暢気な、と、好奇心を発揮する自分をまた嫌悪する方向に考えが向かいそうになって、万友莉は無理矢理に気持ちを切り替えようとする。
「……マイ、これはどうやって食べるの?」
「いずれも無毒であることを確認の上、細菌や微生物は取り除いてありますので、生食も可能ですが、肉は軽く火を通して、豆は煮込み、野菜は軽く茹でることを提案します。調理台下部の引き出し二段目に、現状で調達できた調味料を用意しておきました」
言われた引き出しを開けてみれば、先ほどは空だったところに、小瓶が二つだけ増えていた。中身はそれぞれ白と黒の微粒。万友莉の目には、それは塩と胡椒に見える。
「白い方は塩で、当階層を流れる微量の塩分を含んだ水から抽出したものです。また、万友莉に有益と思われるミネラル分も除去せず含んでいます。黒い方は当広間に生育していた小粒の果実を粉砕したもので、胡椒や山椒と同様の辛み成分を含んでいますので、香辛料としてご利用ください。当然、いずれも人体に有害な物質は含まれていないことを確認済みです。また、他にミントのような爽味を含む植物も確保してありますので、ご所望の時はお申し付けください」
本当に、至れり尽くせりだ、と複雑な思いで考えながら、万友莉はシンク下の扉を開く。コンロは二口しかないが、先ほど見間違えていなければ問題無いはずだ、そう思いつつ見れば、やはりそこには七輪があった。
「あ……。マイ、炭って用意できる?」
「適した植物の炭化に少々時間が掛かりますが、可能です。すぐに取り掛かりますか?」
「お願い」
先ほどからのマイの話を聞く限りでは、全てこのダンジョン内で調達しているらしいけど、本当だろうか? ――あまりの用意周到さに、万友莉はついそう思わずにはいられなかった。とはいえ、その事実を知る方法もない。万友莉は、今は余計なことを考えず、便利な現状にただ感謝することにした。
使うであろう調理器具を手元に揃え、大小の鍋を取り出した。万友莉は慣れた感覚のまま道具を水洗しようとして、ふと思いとどまる。
「衛生面は……問題無いんだよね?」
「その通りです、万友莉」
先ほどからのマイの発言を考えれば、これらの道具はおろか、この場所自体が自分にとって極めてクリーンなのでは、と万友莉は考えたのだが、それは正しい認識だった。
それでも万友莉は一応自らの手は洗ってから、やや大きい方の鍋にはたっぷりと、小さな鍋には目分量ではあるが豆の量に合わせて水を入れる。シングルレバー式の蛇口は万友莉の知るとおりの操作で、水もお湯も問題無く使えた。水は万友莉の舌に馴染む軟水のようで、しかも不思議と知るものより美味しいと感じる。
「お湯はガスで沸かしてるの?」
「水の加熱をはじめ、コンロの火なども全て魔法的に実現します」
そこは魔法なんだ、と万友莉は思い、その原理が気にはなったが、それをマイに問うことはなかった。聞いたところで理解できるはずもない、という思いもあったが、それ以上に、無意識に心理的な余裕がなくなっていたためだ。コンロの操作は電子制御式と同様に行えた。大きい鍋を火に掛け、小さい鍋は豆と塩を投入した後に点火する。そういった一つ一つを必要以上に慎重に行っている自分に気付き、万友莉はそこでようやく自分が緊張していることを自覚した。
短大の二年間で必要な単位を修得し、栄養士の資格を得た。座学にせよ調理の手際にせよ、人並みかそれ以上にはできた。しかし、校外実習課程で自らのコミュニケーション能力の欠如を強く認識して、自信を失った。それでも資格があれば何らかの仕事は得られると思っていたが、結果は散々だった。引きこもってしばらくして、せめて三食はちゃんと摂ろうと決めて、だがそこで、自分で調理を行うことはできなかった。調理をするという意志を持って台所に立てば動悸がして、包丁を握れば手が震えた。だから、母が作ってくれる料理の他は、インスタント食品やレトルト食品、菓子パンなどで済ませた。栄養価に問題があることは理解していたが、まずは生活のリズムだけでも普通に近づけるのが先だ、と考えた。
身体の調子がある程度は戻ってからも、台所に立つことはしていなかった。だからずいぶん久しぶりのことだ、と万友莉は思い返す。自分で調理をしなくなって一年も経っていないはずなのに、それよりもずいぶん昔のことのように感じる。それは、昨日の記憶を昨日のこととして感じられないのに似ていて、自分の身に起きたことは、場所のみならず時間的にも何らかの飛躍があったのではないか、と考えた。だが当然、考えたところで事実が判明するような事柄ではない。
火を扱っていることを思い出し、万友莉は意識を目の前に集中し直した。
肉をまな板の上に乗せ、包丁を取り出す。身体に緊張はあるが、あの時のような強い拒絶反応ではない。実際がどうであれ、昨日を遠いと感じる、多くの時間が過ぎたような体感が、今は助けになっているのかもしれない、と万友莉は思った。
肉はそのまま焼けばステーキとして食べられそうではあったが、先に一口大に切り分けることにした。まとめて焼いてしまえば取り返しがつかないからだ。どんな肉質か判らない以上、それは避けたかったし、単純に焼き加減による味わいの変化にも興味があった。
包丁を乗せると、引くまでもなくスッと刃が肉に沈んだ。咄嗟にまな板を確かめるが、そちらには傷一つ無い。指で触った感じ、その赤身の肉は引き締まった感じで、そんな簡単に切れるものだとも思えない。万友莉は包丁の切れ味がすさまじいのだと判じて、より気を引き締めた。
二百グラムに満たない肉を手早く切り分け、煮立ち始めた豆の鍋から灰汁を掬い、弱火に変え、平皿を取り出し、肉を盛り付ける。七輪と平皿を背後のテーブルに運び、煮立ち始めた大きな方の鍋に塩を投入、葉物野菜の茎を先に湯につけ、三十を数えて葉も沈める。深皿とボウルを取り出し、菜箸で野菜を返し、ボウルに冷たい水を入れて、その水で鍋から取り出した野菜の熱を取る。野菜を絞り、一口大に切り分けて深皿に盛る――やるべきことが浮かび上がるように見えてきて、身体は自然と反応する。無心で調理に没頭するうち、緊張は自然と解け、万友莉には調理に関する以前の感覚が戻ってきていた。そして一段落ついて、ようやく万友莉は昂揚している自分に気付く。
もとより、好きで飛び込んだ世界だ。内外様々な現実に傷ついて、それを全て失ってしまったような気がしていたが、今、そんなことはなかった、と思えた。万友莉は自分の中に、まだその“好き”が残っていることが、嬉しかった。あの、心身共に酷い状態から、自分がちゃんと回復している、と思えることも、万友莉に嬉しさと安心感を与えている。そういた喜びが、心に昂揚感を呼び起こしているのだと判った。同時に、こんなものは今だけのものだ、どうせまた心は簡単に傷つくのだ、そんなネガティヴな気持ちにも万友莉自身気付いているが、そうやって自分の内面を多少なりとも客観視できているのなら、それも進歩ではないか、と思えた。たとえ牛歩でも前に進めている、そう思えるなら、これからも何とか藻掻いていける気がした。
さらに十分ほどが経過した頃、豆を煮る鍋から少し甘いような匂いが漂い始めた。キッチンタイマはわずか百ツボポイントで交換できた。大豆との比較で煮込み時間がまだ短いかも知れないと考えたが、菜箸で突いてみれば、豆は十分柔らかくなっていて、良い具合と見えた。万友莉はその、自分の感覚的な判断に従うことにして火を止めた。水を含んだ豆はかさを増していて、ヒヨコ豆のように丸々としている。茶碗に盛るとちょうど良い塩梅に収まった。万友莉は大豆のようだと判断していたので炭水化物のバランスが気になっていたが、意外と主食に向く豆なのかも知れない、と思い直す。なにせマイが、栄養価を考慮した、と言っていたのだから、きっとそうなのだろう。
「生成完了した炭を七輪内に設置します。点火もしておきますか?」
「……お願い」
野菜を盛った深皿と豆を盛った茶碗をテーブルに運ぶついでに七輪を覗くと、本当に先ほどまではなかった炭がそこにあり、赤く光を発し始めていた。
本来はもっと手間や時間が掛かるであろう事がこうも簡単に済んでいることに、本当にこれに甘えきりにならないようにしないといけない、と万友莉は心から思いながら、鍋を軽く水ですすいでから食洗機に収めた。




