40.最初のマスタ
大陸中央南部の国『サウスコンティ』の首都『カーレイディ』は、別名『水の都』と呼ばれる、多くの水路が張り巡らされた街であり、降水量は決して多くはないこの大陸に於いて唯一、水不足とは完全に無縁の街だ。
その水源は、この大陸で初めて観測された神器である『聖杯』であり、それは、マスタであるマリア・タカツキの死後もなお、彼女の眠る墓の側で、この街に清浄な水を潤沢に供給し続けている――。
サラから聞いたそんな話を、信じていなかったわけではない万友莉だったが、それを実際に目にすると、どこか夢を見ているような、逆にそれが現実だと信じられないような気持ちにさせられた。それくらい、万友莉にとって、その光景は非現実的――というよりは、幻想的だと感じられた。
ダンジョン周辺の地形はどこも似たようなものらしく、ダンジョンの入り口は小さな山の麓に開いている。その小さな山の中腹には『神殿』があり、緩やかな坂道を上って頂上へと至る。クェズラントでは『アビス』の存在したその頂上に、この幻想的な湖は存在した。
湖と言っても、外周を一回り歩くのに今の万友莉なら三分もかからないだろう程度のもので、外縁部から中心部の台座に鎮座する『聖杯』までの距離は、万友莉の目算で二十五メートル前後といったところ。直径で言えばアビスより大きく、アビス同様きれいな円形をしている。その湖から、きっちり九十度ずつの四方へ、三メートルもないだろう幅の水路が山を下るように延びている。ここに来るまでに見た水路は下るにつれて幅が広がったり枝分かれをしているが、どこも常に適切な水位を保っていた。今『聖杯』から溢れる水は、静かにその表面を撫でるように伝い零れているだけで、とても全ての水路が適度な水位を保ち続けるだけの水量を排出し続けているようには見えない。そんな印象もこの光景を幻想的と思わせる一因なのかも知れない、と万友莉は思うが、それだけではない、上手く言葉で言い表せない“雰囲気”がそこにはあると、万友莉には感じられた。
湖の畔に、小さな、だけど立派な、純白で石造りの小屋があった。開け放たれた扉の奥に、上部をアーチ状にした長方形の、飾り気のない石版が立っていて、その鈍色の表面に、たった三行、文字が刻まれていた。
『ザ・セイント マリア・タカツキ 永遠の祈りの中で』
そのような意味がアルファベットで刻まれたそれは、この石版が、この大陸に初めて現れたマスタ、マリア・タカツキの墓標であることを示していた。
タカツキ、という姓から、万友莉は『高槻』や『高月』という漢字を連想した。だからだろうか、百年も前にこの世界に召喚された日本人がいた、ということを事実として疑わなかった。
そして、その同胞であろう人物がこの世界で人生を全うし、こうして丁重に祀られていることに、万友莉は、理屈抜きに、何か胸に迫るものを感じて、自然と頭が下がり、瞑目した。
「ザ・セイント……『聖者』と言うよりは『聖女』かな、彼女は死の間際、神器がこの地に恵みをもたらし続けることを祈った、と伝えられてるの。事実、神器は今も実際に水を供給し続けている。この文言は、そんな彼女への敬意と、神器の恵みが永遠であることを願う想いが込められているのかもね」
サラの声に、万友莉は閉じていた目を開き、頭を上げた。
「サウスコンティは、単純な面積では大陸内でリズトリア、アウツウェルスに次いで三番目に狭い国土だけど、主に国の北部、北西部の砂漠地帯が国土の大半を覆っていて、有効活用できる土地の面積は一番狭い国なの。しかも、その砂漠は徐々に広がり続けているとも言われていた。そんな貧しい国に、無限に水を生む神器と共に召喚されたことに、彼女は強い使命感を持っていたと言われてる。彼女がパーティの支援に入るだけでダンジョン攻略は一気に進んだそうだけど、それ以外にも砂漠にオアシスを生んだり、この国にとっては正に聖女と呼ぶに相応しい活躍をした。そんな人だから、死後もなお、この国のために、というのは誇張ではないんだろうね……」
「タカツキ、って苗字は、やっぱり日本人なんだよね?」
万友莉はサラにそう尋ねたが、それは疑問と言うよりは確認だった。
「うん、そうみたいだね。彼女の手記が残っているそうだけれど、それを直接見た事のあるシゲさんが綺麗な日本語で書いてあったって教えてくれた」
「そっか……やっぱり、意味があってのことなのかな……」
「意味?」
「私が知る限り、マスタってみんな日本人だから。そこに、意味、理由、原因……何かしらがあるのかなって」
「……うーん。私のことを考慮すると、日本人、というよりは、日本に住んでいた人、なのかも。しかも、近い時代に。少なくとも、私と万友莉は、向こうで生きてた時代が結構近かったよね」
「でも、向こうとこっちで時間にズレがあるんだっけ?」
「そう、だからシゲさんもたぶん、この世界での私との年の差よりは向こうで生きていた年代は近いはず」
「……ある一定の時期に日本で生きていた人だけが、この世界に召喚される?」
「それは……。ああ、悠真ともそういう話をしていたら、もう少し確証に近づいたかも知れないけど……。今の時点ではサンプルが限定的でなんとも言えないね。でも、もしそうなら、確かに偶然じゃなくて何かしらの関係はありそうって思えるね……」
だけど、それが正しいと解ったところで、自分たちに何ができるわけでもない――万友莉はそう思ったが、口にするのは思いとどまった。ネガティヴなことを思うのは仕方ないにしても、少なくともサラの前では、それをわざわざ口にするのは控えたい、万友莉の中にあるそんな想いが、そうさせた。
「……召喚されたことに意味や理由が有っても無くても、こうやって、この世界で生きたことに意味があるなら、それは、良いことだよね……」
代わりに万友莉の口から漏れたのは、そんな言葉だった。
「……うん。それはきっと……、ううん、絶対に、そうだよ」
そのサラの言葉には、やはり“シゲさん”への想いが籠もっていると万友莉には感じられた。シゲハルやマチルダに受け容れられたことは、サラにとって、この世界で生きる意思の源泉になっているのかも知れない、万友莉はふとそう思う。
万友莉がこの世界で生きると決めたのは、いわば消去法だ。そもそも戻れる可能性が極めて低そうだというのもあるが、あの、暗く冷たい、牢獄のようにも思える自室に戻るくらいなら、この世界に対して未だ消せない恐怖や不安があっても、何とかここで生きていく方がずっとマシだと万友莉は思うからだ。
だけど、今は、サラの存在が縁となって、この世界で生きていくことに前向きになれている――万友莉はそんな自分の気持ちに気付く。大袈裟に言えば、“救われている”、そんな気持ちだった。
だからだろう、今の万友莉は元の世界に未練を感じていない。
だけど、サラはどうなんだろう? ――ふと、万友莉の内に、サラは帰りたいと思っているのか、そう聞いてみたい気持ちが生まれた。
だが、その質問が万友莉の口から発せられることはなかった。万友莉がそれを躊躇したのは、恐いような気持ちがあったからだ。
万友莉にその自覚はあった。しかし、その躊躇が、サラのためなのか、万友莉自身のためなのか、万友莉には判断することができなかった。




