4.現実を訴えるもうひとつのもの
人心地ついた万友莉は、改めて自分の身に起きたことについて考えを巡らせた。
設置した部屋は、天井に照明器具などが見当たらないにもかかわらず、ほどよい明るさだった。おかげで、万友莉は自分が見慣れたパジャマ姿であることに気付き、そこから、おそらくは就寝中に、遠くへ運ばれたのか、あるいは、(先ほどの目覚めた直後のことを自らの常識を差し挟まずに判断するなら)何か超常的な力によって召喚されたのだろう、と考える。だが、どれだけ思い出そうとしても、昨夜の就寝直前のことが明確に思い出せなかった。昨日や一昨日の事だと思われる記憶は、明晰とは言えないが、ある。だがその、直近であるはずの記憶が、今と連続しているように感じられない。まるで、遠い昔のことを思い出すように万友莉には感じられた。
現地人だろう人たちが英語で会話をしていたため、地球のどこかではあるのだろう、と万友莉は無意識のうちに判断していた。だが、神器だとかダンジョンだとかドラゴンだとか、およそ日常会話で使われるはずもない単語がこうも聞こえてくれば、その判断を正しいとする方が不自然かも知れない、と万友莉は思う。
一方、もしかしたらこの状況は、私を家から追い出したい両親が色々な方面に手を借りて行っている狂言なのではないか? ――そんな考えも微かな期待を伴って万友莉の脳裡に浮かんだ。だが、この神器が(あるいは『マイ』が)起こした非現実的な現象が、それを体感した自分の感覚までもが、全て自分が生きていた時代のテクノロジィの力によって実現しうるものだとは、万友莉にはとても信じられなかった。だからといって、直ちに現状がファンタジィ世界の中であるなどと、ましてや、自分が神器に選ばれた特別な存在であるなどと、簡単に信じ込めるほど、万友莉はロマンチシストでもオプティミストでもなかったが。
――ぐぅぅ……。
だから、万友莉は現状についての判断を保留することにした。決して空腹に負けたわけではないのだ、と、心の内で無用な言い訳を自分に向けながら。
「万友莉のバイタル・サインから、空腹と判断。まずはキッチンおよびダイニングの設置を提案します」
万友莉の心理を知ってか知らずか、マイはそんな言葉を容赦なく万友莉へ投げかけた。
「ぐ……。でも、そもそも、食べるもの、あるの?」
万友莉は、全てを見透かされているような気恥ずかしさと謎の敗北感を感じながら、当然の疑問を口にする。
「先ほど格納したドラゴンは解体が完了し、可食部はおおよそ七トンが確保されています。また、周囲に自生する植物の内、食用が可能なものをいくつか確認し、既に確保してあります。ちなみに飲料水は、当神器の能力によって大気からの生成が可能です」
「えっと……、七トンって、腐らないの?」
色々と聞きたい気持ちはあったが、まず万友莉の口を衝いて出た疑問はそれだった。
「熟成用のごく一部を除いて、対象に残存していた微生物を排除の上、完全無菌、完全真空の低温空間に保管しており、超長期間の防腐が可能です」
「……そうなんだ……」
万友莉は、ついまた常識で判断してしまったことを反省する。一方、その方法がこう簡単に行われることが十分に非現実的であると理解しつつも、例えば『時間停止』のような、より非現実的な方法ではなかったことに、なんとなく釈然としないような思いを抱いた。そしてその思いは、マイの説明から感じた妙なリアリティがもたらした、やはりこれは現実なのだ、という思いや、現実だと感じていた自分の身体感覚は正常だ、という思い、そしてフィクションの魔法のように何でもできるわけでもないのか、という思い、そういったネガポジ様々な思いがせめぎ合って上手く処理できないせいだろうか、と見当をつけた。
ひとまずそう結論することで万友莉は気持ちを切り替え、周囲を見回した。万友莉としては、それほど広い空間に住みたいという欲求はない。むしろ、必要最小限のスペースで生活が完結するならそちらの方が効率的で良いと考えている。だから、この六畳ほどの空間に小さなキッチン設備とテーブルだけあれば食事には十分という思いもあった。だが、神経質というほどではないが潔癖症的なところのあることに自覚のある万友莉としては、トイレに直接繋がる扉がある部屋で食事をする、という点にはあまり良い気分ではなかった。
万友莉はしばし考えた末、最初の空間を今後拡張するかも知れない様々な目的の部屋にアクセスするためのハブ的な空間にして、ダイニング・キッチンはこの隣にコンパクトに一部屋にまとめて接続することにした。
カタログの説明を読み、マイにも確認を取ったところ、ダイニングにキッチンセットを追加するのと、キッチンにダイニングセットを追加するのでは必要なポイントに変わりはないという。ダイニングとして部屋を作った時に既設となるテーブルや椅子は一人での生活には無駄に大きいようなので、万友莉はキッチンに一人用のテーブルや椅子を追加することに決めた。そうすることでダイニングにキッチンセットを加えるよりも一万ポイントだけ安上がりで済む点も決め手の一つで、万友莉は四十三億近い潤沢なポイントがありながら一万をケチる自らの貧乏性に、ちょっとだけ情けないような切ないような気持ちにもなりつつも、今後ポイントを追加で手に入れる当てがあるわけでない以上、節約するに越したことはない、と自分を納得させた。
万友莉がカタログの[決定]を選択すると、また間を置かず扉が現れる。
開いて覗けば、形状は違うが広さは同じ同じ六畳ほどの部屋の、長辺側の壁に沿ってキッチンセットが設置されていた。水回りの工事など無しにそれが瞬く間に完了してしまうあたりはやはりあまりにも非現実的に思えて、だけどそこにポイントが必要であるという現実的、というよりは俗物的な印象に、万友莉はまた釈然としないような気持ちになる。だがすぐに、そこを深く考えたところで今得るものは無いだろう、という諦念にも似た思いが頭に過ぎり、思考から気を逸らせた。
キッチンセットは、奥からコンロ、調理台、シンクと並び、システムキッチンのように一体となっている。
シンク脇には乾燥台ではなく食洗機と思しき箱が設置されていて、その手前、扉との間に万友莉よりも背の高い大きな箱がある。電源が壁に繋がっている様子は無いが、それは冷蔵庫にしか見えなかった。コンロの上部にはレンジフードも設置されているが、それ以外に上部に棚などはなく、元々天井が高めなこともあって、とても広々とした印象を受ける。コンロの下部は大きな覗き窓付きの一枚戸で、中に設置されたトレイからオーブンだろうと思われた。
調理台の下部は引き出しが並び、一通り開けて見たところ、空の引き出しの他に、既に調理器具や食器が収納されている段もある。シンク下の観音戸を開けば、配水管を挟んだ左右に、いくつかのサイズや材質の鍋やフライパン、その他引き出しには収まらない調理機器などが並べられている。扉の裏側にはホルダが付いていて、包丁のものと思しき取っ手が見えている。不足がないどころか、万友莉には過分と感じられるほど充実したキッチンだった。
この恵まれた状況に、しかし万友莉は危機感を覚えた。それは主に、これだけ至れり尽くせりだと自分がそこに甘えて堕落してしまうのではないか、という不安ではあったが、それを万友莉は危機感と捉えた。
それくらい万友莉は、自分のことを信用していなかった。引きこもってからしばらくして、規則正しい生活や筋トレを始めたのもそれと同じような思いからで、それはたぶん、自らの自己肯定感の低さから来るものだ、ということを、万友莉は身体の調子が良くなってきてからようやく自覚し始めたばかりだった。だが、それに気付いただけでは何の解決にもならない、と万友莉は思っている。それで変われるような自分なら、そもそも引きこもるようなことにはなっていないだろう、と。
では、どうすれば良いのか? ――それを考えようとすると、万友莉の思考は途端にぼやけてしまう。万友莉は、自身の、そこに踏み込むことを躊躇っているような感覚には自覚があって、無理に踏み込もうとすれば、せっかくマシになってきたと思える“心”が、また以前のような、あの、酷く鬱屈とした状態に戻ってしまうのではないか、という、不安というには強すぎる恐怖感がそうさせている、と感じている。そして、その恐怖は決して杞憂ではないだろうという予感もあった。
ともあれ、そんな自覚があってからは、規則正しい生活にせよ、筋トレにせよ、どんな些細なことでも自分で決めたことをやり抜く、ということが、自分を認めるための一歩になるのではないか、と万友莉は考え始めていた。たとえそれが、希望的観測、あるいはただの期待や願望に過ぎないとしても、あの時の万友莉にはそれくらいしか縋れるものはなかった。
(だけど……、今は……)
もしかしたら、いや、この様子ならばきっと、奈落などと呼ばれるこの穴の底で、だが、この神器の力があれば、今までの“普通”とそう変わらない生活ができてしまいそうだ。……だが現状でそれをしたところで、それは自分の決めたことをやり抜くことではなく、ただの現実逃避でしかないだろう、と万友莉は思う。それを危機感と感じるのなら、ここで、これからやるべきことを、改めてしっかり考え、決めなければならない。生き抜くと決めたのだ、そのためにできることを。
そう決意する一方で、万友莉の心には、結局は何かに没頭することで現実から目を逸らそうとしているだけではないか、という不安も頭をもたげてくる。前向きな気持ちを持とうとすると、それを否定するように、あざ笑おうとするかのように、こういった後ろ向きな考えがいつだって纏わり付く。そんな自分を、万友莉は自己嫌悪する。
(こんな自虐的な自分を、いつか変えられるの? ……それとも、そういう自分も認めて受け容れることが、自分を肯定するってこと……?)
ふと思いついたそんな考えは、もしかしたら正しいのかも知れない、と万友莉は思った。しかし、じゃあ変わりましょう、じゃあ受け容れましょうと、スウィッチを切り替えるようにできるはずもない、と、やはり悲観的な思いも現れてくる。
――ぐぅぅ……。
どんな心理状態だろうと、ただ正直な反応を示す自分の身体に、万友莉は苦笑して、ドツボにはまりそうな思考を遮断した。
「ねえ、マイ。食材はすぐに出せるの?」
生き抜くためにまず絶対に必要なことは、食べることだ、と結論して。




