39.また、旅の途上
目頭に少し沁みるような痛みを感じて、万友莉は長くテクスト・ブックに落としていた視線を上げた。
思わず鼻の付け根を揉もうとした指が兜に跳ね返されて、万友莉は苦笑する。物事に集中できるのは悪いことではないのだろうが、アヴァタであることを忘れるほどに集中してしまうのは、少し恐い。
テクストを脇に置いて伸びをする万友莉に、サラが話しかける。
「どう? もし説明が必要なら、遠慮無く私を頼ってね」
万友莉が読んでいたのは、サラがこちらで通った学校で使っていたというジオグラフィの教科書だ。万友莉がこの世界を理解する助けになればと、一週間以上になる列車の旅の暇つぶしも兼ねて、サラが万友莉のためにわざわざ引っ張り出してくれたものだった。
「うん、とりあえず、話し言葉の理解がいかに……魔素“とか”のおかげで助けられてるか、よく分かった」
「ああ、印字だもんね、それ」
サラによれば、手書き文字であればまた事情が違うらしいのだが、機械的に印刷されたのだろう文字からは、声からはなんとなく感じられるような、そこに籠められた(あるいは籠もってしまった)意志や想いが、全く伝わっては来ない。この世界で目覚めてからのこの三ヶ月ほどで、万友莉はかなり英語でのやりとりに慣れた気になっていたが、それが魔素があるおかげやマスタであるおかげであることを改めて実感していた。
「地理は図解も多いから、他よりは分かるところもあるけど」
「大変なら、無理に読まなくても良いんだよ? 私に気を遣ってない?」
「大丈夫、してないよ。不思議だなぁ、って思うし、……インタレスティング、ではあるよ」
「それなら良かった」
「でも、私はオーストラリアのことも全然知らないから……。この『国境』が、“あっち”の『州境』とほとんど一致するんだよね?」
万友莉がテクスト冒頭の地図を開いて指さすと、サラがそれを覗き込んで答える。
「そうそう。正確にはNTは州じゃないけど。あと、こっちにはタスマニアとACTは無いね。ACTはアウツウェルスにそういう区分が無いだけだけど、タスマニアは島自体がもう存在しないみたい」
NTやACTと言われてもピンとこない万友莉も、さすがにタスマニア島は知っていた。とはいえ、正確な形や位置まではとても答えられないが。それでも、こちらの地図にそれが表記されていないことは分かる。
「……それは、存在が確認されていない、じゃなくて、無いことが確認されている、ということ?」
「その通り。他の大陸まで行けるような船は無いけど、外での漁業もあるわけだし、大陸付近を航行できる程度の船はあるから」
万友莉はまだ見たことが無いが、ダンジョン内には魚が住まう川や湖があるセクタも存在するらしい。不思議と、そこに住む魚は魔物化はしておらず、また、場所によって淡水魚も海水魚も存在するという。サラが“外での”と言ったのはそれと区別するためだろう。
そういえばサラが以前、向こうでは陸地だったところが大きな“湾”になっている、というようなことを言っていた、と万友莉は思い出す。地図を見れば、クェズラント、アウツウェルス、リズトリア、サウスコンティに跨がり、そしてノーゼリアの国境南東部が接する広域の湾状地形がある。万友莉のうろ覚えの知識でも、オーストラリアにこんなものは無かったと判るから、もしサラが言っていたようにここが未来の地球であるなら、それほど大きな地形変動が起こるような重大な“何か”が起こったのだ。それならば、タスマニア島が無くなってしまったというのも、具体的な想像まではできないが、あり得るのだろうとは思える。もしかしたら、何万年、何億年を掛けて起こった地殻変動かも知れないが、そうならばもう万友莉には全く実感も想像もできない。
そこで万友莉の脳裡にふと、オーストラリアのすぐ北に島があるヴィジョンが浮かび、少し考えて万友莉はそれがニューギニアだったはずだと思い出した。手元の地図にはそれも、その周囲にあったはずの島も、記載されていない。
これも無いことが確認されているのだろうか、万友莉がそれをサラに尋ねようとした瞬間、窓から射し込む光の“色”が変わって、万友莉は思わず視線を車窓の向こうへと向けた。
――海だ。
ベインジンからカーレイディへ向かう列車は、ここしばらくは進行方向左手の車窓に、立ち並ぶ木々ばかりを映していた。今、それが開け、その向こうにあったのは、海だった。少なくともそれは、万友莉には、海としか見えない光景だった。
「万友莉、見てみて」
サラがどこか楽しそうに万友莉に声を掛ける。
「あれ、あの、向こうに見えるおっきなトンネルみたいなの、あれが、スペース・エレベータの残骸……だと思われるもの」
言われて、万友莉は、それが空の色の中に溶けて見えるほど遠くに、山のように巨大な“トンネルみたいなもの”があるのを、確かに認識した。窓の向こうの景色は、緩く下る草原の切れ目の上にキラキラと光を瞬かせる海が広がり、その海と空の境に浮かび上がるように、それはある。
「……なんか、変な感じ……」
遥か遠くの山影を見るようなのに、その、幾何学的な筒状のものが、海から顔を覗かせているのが見て取れる、その現実に、頭では、それだけ巨大なものなのだろう、とは思うのだが、その大きさは、海の上ということもあって比較対象が無いために、とても想像が難しい。それがまるで、自分の遠近感、のみならず、常識までが不確かなものになってしまったように感じられて、万友莉は少し落ち着かない気持ちになった。
「なんて言うか、少し……『バグる』よね、感覚が」
「うん……」
相槌を打ちながら、万友莉は、あれがかつて本当に宇宙まで続いていたのなら、そんなものが倒壊すれば陸地が海になったり島が一つ消えるくらいはあり得るのかも知れない、と、先ほど頭で考えるだけでは感じなかった“実感”を、今は漠然とではあるが感じていた。
「……え、じゃあ、この海が……湾?」
遅れて、万友莉の中に驚きが湧き上がり、そんな言葉が口を衝いて出た。
「そう。これがあるから列車でもカーレイディまで一週間以上掛かっちゃうんだろうね」
サラがなんてことないように答えたのを見て、万友莉は自分が思い違いをしていたことに気付いた。
万友莉の中で、『湾』といってまず想像されるのは東京湾だった。だが、目の前にあるのは対岸を視認できるようなスケールのものとは到底思えない。
当然だ、東京湾は英語で言えば『トーキョー・ベイ』だった。そして、目の前にあるのは万友莉自身で口にしたように『ガルフ』だ。どちらも日本語にすれば『湾』で、万友莉はなまじそれを感覚的に日本語のように理解してしまえたせいで、言葉が示す明確な区別を見落として東京湾を思い浮かべてしまっていた。自分の中に驚きが生まれたのはそのせいなのだ、と、万友莉は今更にして気付いた。
「そっか……」
マスタであることに甘えて、きちんと理解しようという意志を失ってしまえば、いつか、何か大事なことを取り落とすことになるかも知れない、万友莉はそう自分を戒めた。
そして、その戒めを己に刻みつけるかのように、暫しの間、窓の向こうの非現実的な現実を、目に焼き付けるように眺め続けていた。




