38.無垢な想いに
「外に出てくる人がいる!」
目的の反応とは別の、向かう先にあった人の反応が、建物の中から外へと移動するのを見て、万友莉は思わず声を上げた。
そのすぐ側には魔物の反応は無い。目指す子供らしき反応はそこから遠ざかる動きだ。しかし、切迫する状況で、更に別の問題が発生するかも知れない、そんな焦りも万友莉に声を上げさせた一因だった。
均された土の広い道の向こうに、その建物は既に見えている。万友莉がダンジョン深層で鍛えられた身体能力の中には視力も含まれるようで、建物の庭先で周囲を窺う女性の姿も――アヴァタではあるが万友莉の感覚では――肉眼で捉えた。
超一流アスリートの如きスピードで走る万友莉たちは、間もなくその女性の上げる声まで聞き取れる範囲に入った。風を切る音の中に、誰かを呼ぶその声を聞いて、追われているのはやはり子供で、彼女はその母親ではないか、万友莉はそう判断する。
万友莉がサラを見ると、サラも万友莉に視線を向けたところだった。サラは一つ頷くと、全力疾走に切り替えて先行する。
サラが真っ直ぐ女性の方へ向かうのを見て、同じ状況判断をしたのだと万友莉は理解して、魔物の反応へ直線的に向かうルートに切り替えた。女性のことはサラに任せて、レーダの見える自分が魔物に対応する、それがすべきことだと万友莉は判断した。
農地を突っ切る中で、実る作物はできるだけ避けつつも、避けきれないものは心の中で詫びた。
間もなく、万友莉は視界に魔物を捉えた。それは、ここまでで見たタスマニアデビルに似た魔物とは違う、それよりも一回りは大きく、ずんぐりと丸みを帯びた魔物だった。その前方、もう五十メートルも無いだろう距離に、女の子だろう、子供が後ろをひどく気にして何度も振り返りながら、ほとんど歩くような速度で走っているのも見えた。魔物はその距離をじわじわと詰めている、しかし、その姿は本気で走っているようには見えない。
あれが魔物でなければ、少女が笑顔であれば、心温まる光景に見えたのかも知れない。
それを見た万友莉は、また頭に血が上りかけたのを、今度はしっかり自覚して、理性的に振る舞うよう努めた。
万友莉はそのまま全力で距離を詰めると、頃合いを見計らって、跳んだ。
その、一足で三段跳びほども跳躍した勢いを、広い道の端から中程までの間でアヴァタの足は難なく受けとめ切った。普通であればかなりの痛みがあるはずだが、アヴァタからの痛みのフィードバックはマイが調整してくれたのだろう、万友莉は足に多少の負荷を感じただけだった。ドラゴンの素材で作られたというアヴァタの肉体は万友莉自身の筋力を正確に発揮するが、万友莉の生身よりずっと頑丈だ。
万友莉は目算通り少女と魔物のちょうど中間に割って入った。魔物は突然飛び込んできた万友莉を前に、その見た目から想像するよりも身軽に飛び退き、すかさず威嚇するような体勢をとった。魔物と正対した万友莉には背中に庇う少女の姿は見えないが、レーダを見るとその動きを止めている。驚かせてしまっただろうか、そう思うと少し申し訳なさが生まれたが、すぐに気持ちを切り替える。
「魔物は私に任せて! ゆっくりで良い、このまま道を真っ直ぐ、逃げて!」
万友莉の声は少女へ正しく伝わったようで、少女の反応がゆっくりと動き出すのを万友莉はレーダで確認した。道の先に魔物の反応がないことは確認済みだ。疲れているだろう子に無理をさせるのは心苦しいが、魔物とはいえ殺生を子供の目の前で見せることの方が、万友莉には憚られた。
魔物の意識は完全に万友莉に向いていた。魔物の見た目は、愛嬌すら感じさせる丸っこい顔につぶらな瞳で、丸い鼻先の印象が万友莉に、少しコアラに似ている、と思わせた。ただ、万友莉の持つコアラのイメージより耳は小さく顔がのっぺりとしていないので、違う動物なのだろうとは判断するが、万友莉の知識ではそれがなんであるか、具体的には思い至らなかった。そんな見た目でも、鋭い爪が飛び出した前足を前に伸ばすようにして重心を低く後ろに置く体勢は隙あらば飛びかかろうとするようで、浅層のものとはいえ、その獰猛さはやはり魔物らしいと万友莉は感じる。
万友莉が半歩踏み込むと、魔物は、じり、と後ずさる。相当強く万友莉のことを警戒しているように見える。万友莉はそれを好都合と見て、そのままじりじりと前に詰めて、魔物と少女との距離を広げていく。
その距離がそこそこ離れたのを確認して、そろそろ大丈夫だろうか、あの子をあまり一人でいさせても心細い思いをさせてしまうかも知れない、そんなことを万友莉が思ったとき、道の向こうからサラが駆けてくるのが視界の端に見えた。とほぼ同時、魔物はその全身をびくりとさせると、引くか進むか迷うような動きを見せた。
まだ距離があるにもかかわらず新たな脅威を嗅ぎ取ったかのような魔物の動きに、万友莉は、神器からオーラのようなものでも出ているのだろうか、などと思いつつ、魔物が予想外の動きを見せる前にカタを付けるべきだ、という発想が浮かぶ。浮かぶと同時、体は行動を起こした。
その迅速な決断と行動に、中途半端な体勢になった魔物はろくな身動きもできぬまま頭部を胴体から切り離された。
万友莉は魔物の死骸を、顔も知らぬその土地の持ち主に心の中で詫びながら、道の脇の一段低くなっている畑に落とした。首を落としたせいで結構な量の血が流れ出てしまったが、死骸が子供の目に付くよりはマシだろう、と思っての行動だった。
落としてから、万友莉はふと、マイがダンジョンで果実などを“収納”していたように、魔物の血も片付けられないだろうか、と思いつく。その思いつきをマイに伝え、実際に試してみれば、道に広がりつつあった血だまりは地面に赤黒いシミを残して一瞬で消え去った。そこに、サラが追いついてきた。
「今のは……『神器』の?」
「うん、そう。死体も隠しちゃった方が良いかな?」
万友莉の問いに、サラは魔物の死骸を覗き込む。
「これは……たぶん、ウォンバットかな……。事が収まった後にユニオンが調査をするから、これはこのままの方が良いね」
「ああ、そういうこともするのか……。あ! それより、子供を見てあげないと」
「そうだね、そっちが先だ」
言って、一緒に少女の元へ向かおうとして、万友莉は咄嗟にサラより一歩を遅らせた。
「……どうしたの?」
「さっき、私はあの子を驚かせちゃったから。こんな姿だし」
「うーん、大丈夫だと思うけど……。分かった、私が対応するね。……おーい! もう大丈夫だよー!」
サラが大きな声で呼びかけると、少女はそれに気付き、二人の方を振り返る。まだ距離があり、その表情までは見えない。
そのままゆっくりとサラが先行する形で進み、お互いの表情が分かるほどまで近づくと、少女は、ぺたり、と地面に座り込んだ。きっと、緊張の糸が切れてしまったのだろう、その表情も一瞬で泣きそうなものになってしまう。
それでも健気に涙を堪える少女の、すぐ側まで寄ると、サラは屈み込んで、もう大丈夫、と繰り返しながら、その頭を胸元に抱きかかえた。そうしてやっと、少女は大きな声と涙を溢れさせた。
少女を優しく抱きしめるサラの姿。その光景に万友莉は心に一瞬だけ、泣きたくなるような感情が、瞬きのように去来したのを感じた。
――今の感情は、何? どこから来たもの?
この、偽りの身体では、サラのようには少女に温もりを与えることができないだろう、悲しみか。
この、偽りの身体では、少女のようにはサラの温もりを感じることができないだろう、切なさか。
あの切なくも美しい光景を、自分は作り出すことができない。その光景に、自分は居ない。そんな、寂しさか。
そんな考えたちは、決して的外れではないような気がする。だけど、どの言葉も、どの想いも、胸に小さな痛みを残して消えてしまった感情を捕まえるには、どうしようもなく何かが足りない――万友莉には、ただ漠然と、そんな風に感じられた。
そして万友莉は、その感情を、曝き知りたいという思いと、解ってしまうことが恐いような思いが、渾然として心の内に蟠っているのを、その理由も分からないままに、ただ感じていた。
「そうそう、さっきのマリアちゃんから伝言。『鎧の君にもありがとうって伝えて』だって」
少女を家まで送り届けた後、周辺の魔物の反応がクリアされたことを確認してからの帰り道、サラが少し楽しげにそんなことを万友莉に伝えた。
「レディって……あの子が? 私に?」
「うん。こういう二つ名みたいなのってなぜか簡単に広まるから、これから定着するかもね」
「え……恥ずかしい」
「……それ、二つ名持ちの私の前で言う?」
「う、ごめん」
「まあ、今のは冗談だから謝らなくても良いけど。むしろ……私といたら目立つから、万友莉にも遅かれ早かれ何かしら呼び名がつくだろうし、こっちがごめんって言わないと」
「そんな。良いよ、それくらい」
「チーム解散とか言わない?」
「言わない言わない」
「なら良かった。……でも、多少恥ずかしくたってさ、自分が助けた子が名付け親だと思えば、そんなに悪い気はしないんじゃない?」
「……まあ、そうだね」
万友莉は、サラの指摘に、確かにそうだ、と思い、そう答えた。ただ、それだけではなくて、サラの言い回しからなんとなく、サラが自身の二つ名について、少し恥ずかしくはあっても悪くは思っていない、そんな感情が伝わってきた気がして、万友莉は自然と、そういうのも悪くない、と思えた。
「……万友莉はさ、マリアちゃんを怖がらせた、って言ってたけど、あの子が万友莉のこと気にしてたのはそうじゃなくて、あれは……憧れ、みたいなものだと、私は思ったけどな」
「え……」
サラに負ぶられて彼女の家に向かう途中、マリアは幾度か後ろを歩く万友莉を振り返っていた。万友莉はそれを、警戒しているのだとばかり思って距離を取るようにしたのだが、サラの所感ではそうではないという。サラがそれを、慰めで言っているわけではないことは、万友莉にも解る。
ならば。結局は、自分をマリアにとっての“鬼”にしていたのは、自分だけなのかも知れない――そう思ってから、万友莉はふと、それは“向こう”でも同じだったのではないか、という思いに囚われた。
――自分は自分を愛せない。だから、誰も自分を愛さない。
そんな思いは、ただの独りよがりな思い込み、決めつけではなかったか。少なくとも、私は誰かに、自分のことを嫌いか、なんてことを確認した事なんてなかった、万友莉はそう思う。だけど、そんなことを聞けるわけないし、聞いたところで面と向かって嫌いだなんて言う人間はよほどこちらを嫌っているのだろうし、そんな事実を突きつけられれば、私はどうしようもなく落ち込んだだろう――万友莉はそうも思う。
端的に言えば、恐かったのだ。
自分を嫌いな人間が、自分だけであるなら、それは、耐えられることだ。耐えられないかも知れない悲しみや苦しみ、それは、恐い。分からないということも、耐えられなかったときのことも。
――最初から自分が好かれることなど無いと決めつけてしまえば、少なくとも、そこで傷つくことは無い。
私は“向こう”で、そんな生き方をしてはいなかったか。万友莉の脳裡に浮かんだそんな考えは、気持ちよく納得できるものではなかったが、否定することもできないものだった。
本当は、自分の事なんて、ほとんど解ってはいない、万友莉はそう思う。だから、そんな思いつきが正しいかどうかなんて判りっこない、とも。
万友莉の心中には、ただサラの言葉を信じたいだけなのかも知れない、そんな思いもある。
だけど。
まだ多分に純真さを残しているであろう一人の少女が、自分を嫌いでいないでくれている――その“事実”はどうしてか、ちょっと涙が込み上げそうになるくらいには、嬉しい。
今、万友莉は、素直にそう思うことができた。




