37.過去が呼ぶ感情
万友莉とサラは、人影の無い街中を駆けた。
サイレンを鳴らすスピーカはあちこちにあるらしく、音が遠ざかりはしても聞こえなくなることはない。微妙にずれて聞こえる複数のそれの他に、万友莉の耳に届くのは、自分たちが立てる足音や呼吸音くらいのものだった。
今、万友莉の視界には農地であろう土地ばかりが映る。他のエクスプローラたちや、城の兵士らしき反応は、建物の多い、延いては人の多い場所から優先的に対応しているようで、こういった場所は後手に回っている。だがそこにも、逃げ遅れたのか、自らの意志で残ったのか、疎らとはいえ人の反応があって、マチルダから自由に動く許可をもらった万友莉は、そのような手薄な場所の優先的なカヴァリングを選択した。
幸い、魔物の移動はさほど速くはなく、すでに三体の魔物を駆除している。いずれも同じ、万友莉の知らない生き物で、そのネズミとクマを合わせたような魔物は、サラによればタスマニアデビルに似ているらしい。魔物化したものでも全長で一メートルにも満たないが、噛む力が非常に強く、同じフロアの魔物を食べる姿も見られるという。とはいえ、浅層の魔物だけあって、それも元来のタスマニアデビルと大差ないレベルとのことで、深層を突破してきた万友莉にとって脅威になるものではない。だが、一般人や、戦う力を持たない存在にとっては、浅層の魔物も充分な脅威だった。
その証明が今、万友莉たちの目の前に横たわっている。
「牛が……」
不幸にも牛舎から逃げだせてしまったがゆえにここで襲われたのだろう、建物のすぐ外に、腹を食い破られた牛の死体が横たわっていた。
魔物の反応はまだ近くにある、万友莉がそう警戒した時、牛舎の中から木が折られるような物音が万友莉たちの耳に届く。二人が慌てて飛び込むと、またしてもタスマニアデビルに似た魔物が、柵の中で逃げ場の無い牛を壁際に追い詰めていた。
万友莉にはそれが、まるで相手をいたぶることを楽しんでいるように見えて、カッとなった自覚も無いまま、考えるよりも先に魔物に飛びかかった。
その物音に気付いた魔物が振り返ろうとする。万友莉にはその動きがスローモーションに見えて、魔物は万友莉と正対する時間を与えられることなく両断された。
飛び散る魔物の血から逃げるように牛が壁に体を押しつけるのが見えて、ようやく万友莉は自分が衝動的に攻撃を仕掛けたことを自覚した。
万友莉はそんな自分の行動を他人事のように不思議に思い、顧みる。
たぶん、腹が立った、それは確かだ。だけど、それだけで八つ当たりのように攻撃を仕掛けたりはしない。もっと何か、自分が追い詰められているような、切迫する感覚があった。そう考えたとき、万友莉の脳裡に一つの光景がフッと浮かんで、消えた。
――制服を来た女子たち、壁際の一人、それを囲む複数。耳に障る、嘲るような笑い。
それは万友莉がいつか実際に見たものだ。万友莉は、クラスでグループを作るときに“余り物”になるような存在ではあったが、少なくとも万友莉自身にとって“いじめ”と感じられるような仕打ちを受けていたわけではなかった。だからそれは、万友莉が第三者として、見たものだ。
それが思い出されて、万友莉の心に、思わず目を背けたくなるような、“嫌な感情”が現れた。万友莉は、嫌だ、と感じると同時、ダメだ、と思う。
何がダメなのか? ……嫌なことから、目を背けることだ、逃げることだ、万友莉は咄嗟にそう思う。だから万友莉は、それから意識を逸らしたくなる気持ちを抑え込んだ。そして、それがなんなのか考え、自分の心を偽ることなく感じたままを受け容れようと努めた。そして、その“嫌な感情”は、後悔や、心苦しさや、自己嫌悪や、恐れ、怯え、きっとそういった感情がそれを構成するものだと、万友莉には感じられた。
あんなことは間違っている、馬鹿馬鹿しい、やめさせるべきだ。
だけど。
あの悪意が自分に向けられるのを想像する。自分なら立ち向かえる、いざとなれば、あんなヤツらだ、刃物を持ちだしてやってもいい。
だが、解ってしまう。
想像にしか、そんな自分は存在しない。現実はきっと、ただじっと耐えることしかできない。それは辛いことだろう。
だけど、もっと恐いことがある。
自分が干渉することであの悪意を増幅させてしまうかも知れないことだ。それが、助けようとした人をもっと追い詰めたり、更にはその人からも恨みを買ったりするかも知れないことだ。
それは、自分の善意が裏切られることが恐いのではない。自分の行動が、自分の存在が、事態を悪化させることしかできない、自分にはその程度の価値しかない、そう突きつけられることが、恐い。
だから。何もしなかった、何もできなかった。
万友莉は、かつての自分がそんなことを感じていたのだと、今更ながら自覚した。きっと、心のどこかでは解っていた。だが、それは意識に上ることなく、無意識に隠匿された。それは、自己嫌悪が行き過ぎないようにする防衛反応なのかも知れない。だけど、きっと、そういったことは、その時だけじゃない。そんなことを、幾度も、幾度も、積み重ねてきたのだ、万友莉は漠然とそう理解する。そして、そんな積み重ねが、むしろ余計に、自分を嫌いな自分を、作り上げていったのだ。
自分を衝動的な行動へ追い立てたのは、恐怖だった、万友莉はそう理解した。だが、何に対する恐怖だった?
先ほど脳裡に閃いた光景、その“嫌な感情”に含まれる恐怖も無関係ではないかも知れない。だけど、もっと、それを力尽くでも消してしまいたくなるような、その恐怖は……、言葉にするなら……、そう、自分の浅ましさが曝かれる、そんな恐怖ではないか、そう思いついて、万友莉は、胸に重苦しい感覚を覚えた。だからこそ、その思いつきは、少なくとも“正解”の一部を含んでいる、万友莉にはそう思われた。
「……万友莉? 大丈夫?」
そのサラの声は、ごちゃごちゃとした思考に沈んだ万友莉の意識に、すっ、と入り込んで、万友莉は現実に引き戻された。
咄嗟に、万友莉はマップ上の反応を確認する。魔物は、近くにはもういない。牛たちもここにいるのが全部。母屋らしき建物に人がいる。魔物を倒したことを伝える? いや、油断を招かないためにも、それはしなくて良い。そう考える頭の片隅に、これは逃避だ、と囁く、自分を嫌いな自分がいる。だが万友莉は、優先順位を間違えるな、と自分を叱咤する。もし、自分がもたついたせいで失われる命があれば、自分をもっと嫌いになるだけだ。
「うん、ここはもう大丈夫。家に隠れている人には悪いけど、このまま次へ行こう」
全くなんてこと無いように言えただろうか? 強がりのように聞こえなかっただろうか? でもサラなら、また私がネガティヴな思考に陥っていたことなんて、お見通しなのではないか?
「……分かった、行こう」
そのサラの返事は、万友莉にはひどく力強く聞こえて、それだけで、心に浮かび上がろうとしていた不安が霧散したように、万友莉には感じられた。
その場を離れつつ、次に向かうべき場所を定めるべくマップを見ていた万友莉は、少し進んだところでマップに現れた反応が意味するところを想像して、慌てた。
魔素の精神活動に感応する性質を利用しているというレーダは、魔物や人の区別だけでなく、どういう理屈かそのおおよそのサイズも点の大きさでマップに反映して表示させる。その反応から、追われる人間も、それを追う魔物も、万友莉より一回り小柄らしいことが判る。
「サラ、まずい。もしかしたら、子供が魔物に追いかけられているかも」
「えっ、どこ?」
「今反応を捉えたから、五百メートルくらい先。こっち! 急ごう!」
「オゥカイ!」
ウジウジしてる場合じゃない、万友莉はそう自らに気合いを入れて、反応の場所を目指して駆け出した。




