14.最悪を切り抜けて
「今ならこの世界を滅ぼせる気がする……」
「やめてください」
万友莉が我に返った時には、あのおぞましい部屋から七つも離れた部屋にいた。マップで見て上層に繋がっていると思われる方へ進んではいるので、最低限の理性はどこかに残っていたらしい。
「やらないけどさ……」
万友莉はパンパンに張って痛みすら訴える右腕をさすりながら呟く。全身が強ばっているが、剣を持つ右腕は特に酷い。よほど無駄な力を込めて振り回し続けていたのだろうと思われるが、万友莉には全く覚えが無かった。
「それよりも、ここは……?」
今、万友莉がいる部屋は、今まで見てきた部屋(万友莉の記憶にあるのは“あの”部屋までだが)に比べるとさほど広くはない。地面は一辺が五十メートルくらいのほぼ正方形の部屋だ。だが、それよりも万友莉が違和感を感じたのは、この部屋が“何も無い”ことだった。魔物がいないだけではなく、植物も全く見当たらない。こんな地の底ならそれが本来あるべき姿なのだろうが、今まで嫌でも目に付いたものが全く見当たらないというのは異質でしかない。あるいは、その異質さが、万友莉に我を取り戻させたのかも知れない。
「おそらくここは、万友莉にもすぐ解るように言えば……セーフルーム、だと推察されます」
「セーフルーム?」
「はい。少なくともこの大陸のダンジョンでは、各階層に、階層数とほぼ同じ数の、このような場所が存在します。地上から地下へ五階層目ならおよそ五つの、二十階層目ならおよそ二十の部屋が、魔物が近寄ることのない安全な場所になっており、現在確認されている限りではその誤差は五を越えません」
それを聞いて万友莉は、ますますゲームみたいだ、と思う。同時に、ゲームのようにセーブしてやり直すなんてことはできないのだから、そう考えるのは危険だ、と自分を戒めることも忘れなかったが。
「ここがその、安全な場所なのは、間違いないの?」
「はい。魔物のみならず、植物すら存在しないことからも、確かだと判断できます」
それを聞いて、万友莉はようやく気が休まったのを強く実感し、今の今まで自分が、通路の向こうから“アレ”が追ってくるのではないか、と怯えていたことをようやく自覚した。
「……もうここから動きたくない……」
「万友莉が本気で望むなら、それも可能ですが」
「解ってるって。……でも、今は少し休ませて……」
結構な距離をほぼ全力で、武器を振り回しながら駆け抜けてきたのだろう、万友莉は自分の気力はもちろん、体力もかなり消耗しているのを実感する。意識をアヴァタから離し、キッチンで水分補給すると、ただの水が甘露のように、疲弊した身体中に染み渡った。
万友莉は身体を休めようと座る場所を探したが、ダイニングの硬めの椅子しか見当たらず、結局ベッドに腰掛けた。
カタログにソファはあったっけ? ――万友莉はそんなことを考えながら、そのままベッドに仰向けになる。完全に脱力すると、身体の疲労がより浮き彫りになるようで、万友莉は、このままだと簡単に眠ってしまいそうだ、そんなことを思いつつも、つい目を閉じてしまう。
だが、閉じた瞼の裏に“アレ”の残像が蘇り、万友莉は思わず飛び起きた。さらに、もしこれから先も“あんなもの”ばかりが襲ってきたら――万友莉はついそんな恐ろしい想像をしてしまって、身体はともかく、気は全く休まらなかった。
何とか気力を奮い立たせて先へ進んだ万友莉の前に、幸いにも、“あの”おぞましい魔物は現れなかった。
とはいえ、替わって現れたのが、大型犬ほどもあるクモや子供ほどの背丈もあるカマキリなど昆虫類ばかりで、そもそも虫全般が苦手な万友莉にとっては、地獄を進むような心持ちに変わりなかったが。
それでも、最初に見たのが“アレ”だったせいか、巨大なカブトムシのような魔物を前にした時には、男子ならこれは大丈夫なのだろうか、などと考える程度の余裕は持てていた。さらには、ワニほども大きいトカゲっぽい魔物にいたっては、爬虫類や両生類もどちらかといえば苦手だったはずの万友莉をして、癒やしにすら思わせしめるほどだった。
とはいえ、万友莉には“アレ”の時のような記憶の空白が別にある。それについて考えようとすると、脳裡にはなぜか『グレーゴル』という名詞が掠めて背筋がゾワつくため、万友莉は極めて努めてそこから目を逸らしている。
ともかく――そういった多種多様な魔物は一カ所で無秩序にひしめいているわけではなく、部屋ごとで生息する魔物には傾向があるようだった。部屋によっては植生からしてガラッと変わることもあり、そこに規則性を見いだせるものでもなかったが。
ただ、昆虫系の魔物は総じて攻撃的だと万友莉には感じられた。それが万友莉に対してだけの傾向なのか、他の人間にもそうなのかまでは現状では判るはずもないが、逃げてくれることもあった爬虫類系や両生類系と見える魔物たちと比べるとその傾向は顕著といえた。
そして、昆虫系の生息率の方が高いため、都度対処を強いられる万友莉の進行は捗らない。最初の方こそビクつきながらも必死に戦っていた万友莉も、次第に感受性を麻痺させて処理に当たったために効率は上がったが、それでも、ようやく次のセーフルームに到達した頃には、丸一日は戦い詰めだったほどに万友莉には体感された。
ツボ・ルームに戻り、疲れた心と体を休ませながら、万友莉はダンジョン脱出へ踏み出した初日を振り返る。
いきなりとんでもない目に遭って心が挫けかけたが、そのせいと言うべきかおかげと言うべきか、緊張感を切らさずに済んだ、というか維持せざるを得なかったし、あれより悪いことはそうそうないだろう、と思えば前に進む意志も萎えさせずに済む。
魔物はダンジョン深層だからというのもあるだろうが、見た目よりもずっと厄介だった。ある程度大きな魔物は、その攻撃を漫然と盾で受け止めようとすれば簡単に体ごと吹き飛ばされてしまうほどだから、防ぐならしっかり足を踏ん張り盾を体ごとこちらからぶつけに行くくらいでなければならない。小型の魔物なら素早いから、攻撃を避けても態勢が悪いと簡単に追撃を受ける。どちらにせよ中途半端なことはできず、気は休まらない。
受けた衝撃が鎧の内側までは通らないからこうして無事だけど、神器無しの生身ならとっくに死んでいたのだろう、と万友莉は思って、少し寒気を感じた。
幸運だったのは、敵意を持った魔物は勝手にこちらへ向かってきてくれる上、魔物の攻撃は苛烈ではあったが単調だったおかげで、こちらの攻撃を当てる事は比較的難しくなかったことだ。向かってくる相手の力を利用して刃を当ててやれば労なく切断できたから手数もさほど必要にならず、おかげで多数の魔物に囲まれてしまうような事態も避けられた。
だが、それも、あの剣の恐ろしいほどの切れ味があってのことだ――と、多くの魔物を切り捨ててなお刃こぼれ一つ無かった剣を思い出しながら、万友莉は思う。
「ねえ、マイ。あの剣って、竜の骨って言ってたけど、すごい頑丈だし、切れ味もすごかったよね? よく剣の形にできたね」
「魔物の素材は、含む魔素によって性質が変わります。ドラゴンの骨はゾウなどと比べれば細いのですが、にもかかわらずゾウよりも大きな体を支えられるほど頑丈なのは、生きたドラゴンが体内に含む膨大な魔素のためです。しかし、死んで魔素を失えば、骨の組成自体は普通の動物のものと大差ないため、その強度も相応となります。そうなると加工は比較的容易ですし、仕上げに魔素を込めることで強度を再び高めることもできるのです。剣を作る際に消費した大量のツボポイントのほとんどはその補強のために使われたもので、結果、神器以外の手段での破壊は非常に困難なものになりました」
「そうなんだ……」
本当に、魔素って何なのだろう? ついそう思う万友莉だが、今更それを追求しようとは思わない。だが、マイの言葉で気になる点はあった。
「でも、普通の動物と変わらないってことはさ……、ダシを取ったりにも使えるの?」
「部位や処理方法にもよるでしょうが、含有成分とこれまでの万友莉の反応から見るに、ドラゴンの骨からは濃厚な旨味が抽出できると推測されます」
以前にも考えたことがあったように、それは後戻りできない道へ続く、禁断の果実を口にするようなものかも知れない。だが万友莉は、己の好奇心が、そう遠くない未来にそれに手を出してしまうのではないか、などと冗談半分に思う。
そして万友莉は不意に、そんな暢気なことを考えることができている今が、とても尊い時間なのだ、という感覚に襲わた。
それは本当に唐突で、万友莉には訳も理由も知れなかったけれど、ただ心が、そうと強く感じた。
万友莉はその突然の感覚に戸惑いつつも、少し震えているようにも感じる自分の指先で、不意に熱を帯びた目頭を、そっと押さえた。




