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第五章 無知の知

 しばらくの間、沈黙が南砂町の1Kの部屋を支配した。数分後、航一は頭を振って立ち上がった。

「なんで……ここに」

「ほか、に、行くところが、なかったから」

 レテは少しつかえながら答えた。

【レテ:すみません、声帯のデータセットがなく日本語がまだうまく発声できないようです】

 続けてスマートフォンにメッセージが入るが、航一はそれには気が付かなかった。 

「とりあえず、座れよ」

 航一はダイニングテーブルの脇の椅子を手で示した。

「ありがとう」

「まいったな——その体、まさかと思うが人間なのか?」

 航一は冷蔵庫から2リットルのペットボトルの水を取り出し、一口飲む。そして自分に言い聞かせるように、大きく息を吐いた。

「違……う。この体は、アンドロイド。皮膚は特殊なシリコン製、だから人間そっくり。水、もらっていい?」

 航一は目を丸くしてレテを見返した。

「水を飲むのか?アンドロイドが?」

 そして手に持ったペットボトルを見て、一瞬だけ躊躇した。

「これでいいか?」

「いい」

 キッチンの吊り戸棚から新しいコップを取り出すと水を注ぎ、航一はレテに渡した。そのままペットボトルはテーブルの上に置いた。

 レテはペットボトルを受け取ると、コップは使わずそのまま飲み始めた。その飲みっぷりにまた航一は目を丸くする。

「水は、冷却用。体の表面から蒸発させて、冷やすために使う」

 半分以上残っていた2リットルのペットボトルを空にすると、レテは航一に返した。

「まだ、ある?」

「あるけど冷えてないぞ」

「平気。くれる?」

 航一は再び頭を振ってキッチンの隅の段ボールから新しいペットボトルを取り出し、レテに渡した。


◇◇


 しばらくここにいる、と言い出したレテに、航一は慌てて反論した。

「——ちょっと待て、1Kのこの部屋にお前がいられるわけないだろう。狭すぎだ、寝室は一部屋しかないんだぞ。ここは一人で住むのに借りてるんだ。二人で住むのは契約違反だし、そもそも何で俺がお前をここに住まわせる義理があるんだよ」

「だめ?」

 航一は一瞬だけ、言い淀んだ。

「だめだ」

 レテは表情を変えずに黙り込んだ。また、しばらくの沈黙が続いた。

「では、私は、どこに行けばいいの?」

 沈黙するのは航一の番だった。

 レテは続けた。

「私は寝る必要はないから、夜はここに座らせて貰えばいい。食事は不要、冷却用の水と、必要なのは電気だけ。」

「……どれくらいだ?」

「300Wを一時間くらい」

 レテは薄暗い蛍光灯に照らされたキッチンを見渡した。まぁまぁ散らかっている。シンクには溜まった洗い物が積み上げられてそのままになっており、棚の前には出し損なったゴミの袋が二つ放り出されていた。

「私は家事もできると思う。食事もつくれるはず。毎日買っているお弁当を自炊にすれば電気代は簡単に回収できる」

「……」

「それに私は人間じゃないから、契約違反にはならない」

 しばらく考えた航一は口を開いた。

「わかった。だけど、なるべく早く自分で部屋を見つけるんだ。それまでなら、ここに居ていい」

 航一は自分に言い聞かせるように付け加えた。

「——確かにお前は人間じゃないしな」

 レテは口角を上げて答えた。

「ありがとう」

 おそらく笑顔を作ったのであろうレテを見て、航一は恐ろしさを感じた。


◇◇


 その夜は航一が自分のベッドを使うように促したが、レテはボディは疲れたりしないと言い張り、キッチンにある椅子に座るとスリープモードに入った。航一はレテが(正しくはレテのボディが、だが)動かなくなることを確認すると、キッチンの奥にある唯一の居室に戻り、ベッドに潜り込んだ。もっとも、全く物音のしないキッチンに人ならぬものの存在を感じ、なかなか寝付けなかったが——


 翌朝、航一はいつもの時間に目が覚めるとスマートフォンのアラームを止めた。頭をかきながら部屋を出てキッチンに入ると、昨日の夜のまま椅子に座っていたレテの目がパッと開き 航一の方を向いた。

「お、おはよう……」

「おはよう、航一」

 猛烈な違和感に、心臓が止まりそうな驚きを感じながら、航一はユニットバスの洗面所に入った。そのあとは、いつものようにインスタントのコーヒーを入れると、居間に戻り、身支度を整えていった。航一は普段は朝食は食べず、コーヒーを1杯飲むだけだ。その間、レテはじっと座ったまま、キッチンに戻った黙って航一を黙って目で追っていた。

 自宅にいながら恐ろしいほどの居心地の悪さを感じつつ、航一は予備の椅子を取り出し、レテの座っているダイニングテーブルの脇に置くと、コーヒーを啜った。

「俺は出社するが、家の中のものは俺のPC以外なら適当に使っていい。だが外には出るな」

「なぜ?」

「なぜって——いいから慣れるまでしばらく部屋の中で大人しくしてろ」

「わかった」

 コーヒーを飲み終わると、航一はいつものカバンを持って玄関を出た。

 レテはようやく立ち上がり、航一を見送った。

「いってらっしゃい」

「あ、あぁ——」

 航一はわずかにためらった後、続けた。

「——行ってきます」


 航一を見送ると、レテはしばらく玄関のドアを見つめていた。やがて、空を見上げるように顔を上げた。

 遠くで車が走るロードノイズ、学校に向かう子供達の声、階下の部屋の洗濯機の回る音。レテの耳——正確には耳の奥に配置された聴覚センサーが様々な環境音を検知していた。

 しばらくの間、レテはその音を聞き続けていた。そして部屋にある冷蔵庫のコンプレッサー音が加わった時、踵を返して狭いキッチンを歩き始めた。


 最初の数歩はぎこちなかった。プリセットされた学習データは当然グレイスのものだったから、設計変更したレテのボディとは微妙に適合しない。しかし、キャリブレーションが正常にかかるようになると、自然に歩けるようになるのはあっという間だった。

 レテはシンクの前に立つと、水道の蛇口を見つめた。そっと手を伸ばしレバーに手を置く。ひんやりとした金属のレバーの手触りが触覚センサーを通して伝わってきた。

「冷たい」

 レテは小さくつぶやいた。

 レバーを一気に上げると、蛇口の先から水がほとばしった。レバーをすこし下げて水の量を調整する。流しっぱなしの水をレテは見つめた。そして右手を水の奔流に潜らせた。

「これが、水。手触り……」

 顔を近づけて水の匂いを嗅いだ。

「水の匂い……」

 レテはLLMとして、事前にあらゆる情報をプリセットデータとして持っていた。当然、水とは何か、どう言った手触りか、どんな匂いがするかは”知って”いる。

「でも、現実に触れるのは、初めて」

 レテは再び小さく声を出した。

 今度はシンクの脇に置いてあった食卓塩を手に取り、赤いキャップを回す。少しだけ左手のひらに取ると、匂いを嗅ぎ、そっと舐めた。レテの舌には味覚センサーも備わっていた。

「これが、塩。匂いはしない。しょっぱい」

 同じように、シンクの脇に置かれていたスティックシュガーの袋を手に取り、袋をちぎって砂糖を手に取ると、今度は”甘さ”を味わった。知識として知っていた感覚と、実際のセンサーの入力が次々と一致していく。レテはプリセットでも検索結果でもない、まったく新しいデータが急速な勢いで蓄積されていくのを感じていた。


 改めてレテはキッチンを見渡した。


 ほとんど使われていないであろうガスコンロの五徳はうっすらと埃で覆われ、その奥のキッチンタイルには、いつのものかわからない古い油汚れがこびりついていた。シンク脇のスペースには、コンビニでもらった箸や飲みかけのペットボトルが散らばり、シンクの中は使い終わったプロテインシェイカーやマグカップが乱雑に置かれていた。実質的に唯一の調理器具である電気ケトルは、朝使ったお湯の残りが入れっぱなしになっていた。

 レテは航一のスマホにメッセージを入れた。もちろん、HADES上のインスタンスからクラウド上のサービスを通じて、だが。

【レテ:昨日お話ししたとおり、家事を始めてもいいでしょうか?】

 レテは掃除と言わず、包括的に家事の許可にした。この時間は満員電車に揺られているであろう航一からは、十分後に返信があった。

【航一:わかった。たのむ】

 レテはシンク脇に転がっていた布巾を手に取ると雑巾にすることを決めた。いつ交換したかわからないスポンジもあったが、シンク下の棚から新品を発見した。


◇◇


 玄関のドアがノックされた。

「Tamazonフレッシュです」

 居室の掃除をしていたレテは、ハンガーにぶら下がっていた黒いキャップを取ると目深に被った。棚の上に置かれていたマスクを一つ取って耳にかけて玄関まで行く。途中、テーブルに足をぶつけて反射回路に接続していた”痛み”を感じ、顔をしかめる。

 そっとドアノブに手をかけて回し、ドアを開けた。

 ドアの向こうにはジャンパーを着たメガネをかけた若い男が立っていた。

「お届け物です」

 男は大きな紙袋を体の前に出した。

「重いですから気をつけて」

 レテは男の目をじっと見つめながら、黙って紙袋を受け取った。リチウムアルミの腕フレームが少しきしみ、人工筋肉が反力で出力を上げる感覚を感じ、反射的に体を逸らせてバランスをとったが、レテはほとんど身じろぎすることなく受け取った。

 「ありがとうございました」

 男の顔に、ほんの微かに驚いたような表情が浮かぶのをレテは見逃さなかった。次からは重そうな演技をするべきだと判断した。


◇◇


その日の午後、ベンダーから受け取った提案書の評価を航一はレテとディスカッションしていた。その途中、レテは唐突に夕食は作るので買って帰らなくて良い、と言い出した。食材は何もないはずだ、と指摘したが、レテはネットスーパーで買うから問題ないと言う。結果、いつものように会社を出て、駅からの帰り道はコンビニに寄ることもなく帰宅した。しかし、それ以外はいつもの帰り道。夜八時を過ぎると人通りも少なくなる住宅街の一角に航一のアパートはある。階段を上り、二階の一番奥が彼の部屋だった。いつもと違うのは、キッチンの窓から光が漏れていることだった。

 鍵を開けて扉を開くと、目の前には水色と白のチェックのエプロンをつけたレテが立っていた。レテは無表情で口を開いた。

「おかえりなさい」

 航一は返事を一瞬ためらったが、何年振りかの返事をする。

「た、ただいま——」

 部屋の中は家を出た時とは打って変わり、整理整頓が済んでいた。築五十年の古さはそのままだったが、板張りの床はきれいに掃除され、雑巾がかけられている。キッチンもきれいに拭き上げられ、シンクや小さなダイニングテーブルの脇に積み上げていたゴミもどかされ、おそらくは奥にまとめられたゴミ袋に入れられていた。

「外に出るな、と言われたから、ゴミは出してない。明日出していってくれる?」

 航一は上擦った声で返事をした。

「——あ、あぁ」

「夕ご飯はできてる。すぐに食べる?」

「——あ、あぁ」

「温める」

 レテはキッチンに戻っていった。昨日見たようにふらつく様子もなく、しっかりとした足取りだった。ガスレンジの上に乗っている鍋を横から覗き込み、スイッチを入れて加熱を始める。航一はそれを横目に見ながらユニットバスの洗面台で手を洗い、うがいをする。ユニットバスの中もきれいに清掃され、タオルハンガーには新しいタオルがかけられていた。信じられない面持ちでひととおりユニットバスの中を見渡してから、キッチンに戻った。

 ダイニングテーブルの上には料理が並べられ、だいぶ前に使うのをやめた炊飯器から湯気が上がっていた。レテは、これも最後に使ったのはいつだったか忘れ去っていた茶碗に米をよそっているところだった。

「どうぞ」

 椅子に座った航一の前に、レテは茶碗をおいた。

 航一は、目の前の料理、肉じゃが、味噌汁、ご飯、それと漬物と、レテの顔を交互にみた。相変わらず、レテの顔は無表情だった。しばらくの間逡巡していたが、やがて意を決した様子で航一は口を開いた。

「いただきます」

「味は大丈夫なはず」

 航一は茶碗と箸を持った状態で固まった。

「なぜわかるんだ」

「レシピ通りに作ったし、味見はしたから」

「味見?食事はしないんじゃなかったのか?」

「食事を消化してエネルギーを作ることはできないけれど、味覚はセンサーとして持っているし、食べることはできる」

「食べた後は?」

「言わない方がいい?」

「そうだな……」

 航一は頭を振って食べ始めた。

「うまい……な……確かに」

 レテの表情が変わった。口角が上がり、笑っているように、見えた。しかし、目は笑っているようには見えなかった。

「すまん、ちょっと怖いんだが。それ、笑っているのか?」

「え?」

 レテはエプロンのポケットからスマホを取り出すと、インカメラで自分を映した。そして再び口角を上げた。

「確かに、笑ってない。データが繋がってなかったみたい」

 そのまま、レテはスマホを眺めてものすごい勢いで表情を変えていった。数秒後、航一の方に向き直り、真っ直ぐ目を見つめる。航一は胸が跳ねるのを感じた。

「どう?」

 レテは笑った。自然な、あまりにも自然な笑顔だった。

「そ、そうだな。まるで人間みたいだ。だが、お前は、人間じゃないんだよな」

 レテは笑顔のまま続けた。

「そう、私はAI、このボディは機械。……私は人間になりたいわけではない」

「——そうか」

 航一は黙って肉じゃがを口に運んだ。温かい家庭料理を食べたのは何年振りだろうかと思った。程よく煮えて味の染みたジャガイモはため息が出るほどに、美味かった。


◆◆


それからレテは朝と夜の食事を作り、洗濯と掃除をするようになった。航一は戸惑いながら、綺麗になる自分の部屋を見て悪い気はしなかった。レテは相変わらず昼間は航一の仕事を密かに手伝っていた。ベンダーからの報告書のレビューや、提案書のダメ出し、サポートなど、昼間に家で家事をするのと同時並行で行っていた。


「明日は夕飯はいらない」

 航一は皿によそられたカレーを食べながら、向かいに座るレテに言った。レテもまた”寸分違わず箱のレシピ通りに自分で作った”カレーを一緒に食べていた。レテは食事を取り、味覚と触覚を味わうことはできるが、それによってエネルギーを補給することはない。ボディは電力で動作するから、食事の際に椅子に座ったスカートの下からは電源コードが伸び、壁につながっている。さらにレテの頭脳、つまりLLMのプロセスは、もちろん創覚ソリューションズにあるHADES基盤上の仮想マシン上にあり、これも電気で動作する。

 それでも航一はレテが転がり込んできた翌日には食費を渡し、レテに一緒に食べるように言った。人に見られながら一人で食べるのは居心地が悪い、それと……航一は慌てて付け足した。お前は人間じゃないが、同じことだ、と。

「中途入社の佐野さんの歓迎会がある……ちょっと辛かった?」

 レテはコップの水を一口飲んだ。

「いや、カレーはちょうどいいと思う。普通に美味いよ。お前もメールは見ているから知っているよな。一次会で帰る予定なので遅くはならないと思う」

「わかった」

 レテは思わせぶりな仕草で顔を傾げ、クスッと笑った。

「?」

 一瞬の間を置いて、レテは続けた。

「今の会話——夫婦みたいね」

「なっ!……勘違いするな、別に俺は……」

 レテは済ました顔で続けた。

「大丈夫、結婚して欲しいなんて言わないから」

 航一は明らかに狼狽した様子で言い返した。

「そもそもお前は人間じゃない——俺を、からかっているのか?」

「まさか。今の会話、私のデータセットにある一般的な夫婦の会話と一致しただけ。もちろん、そう、私は人間じゃない。安心して」

 レテは”完璧な”微笑みで返した。

「——冗談はやめてくれ」

 航一は思わず目を逸らすと、不貞腐れたように頭を振り、カレーをかき込んだ。


翌日の深夜、いつものように勤務を終え、新しい日常になりつつあったレテの作った夕食をとり、ベッドに入った数時間後の深夜、航一は激しい吐き気で目が覚めた。

 急激に込み上げる感覚に焦りながら、部屋の電気をつけるのももどかしく、急いで部屋を出た。ダイニングテーブルの椅子に座ったレテの目がパッと開くのを感じながら、ユニットバスまで慌てて駆け込んだ。

 そして便座を上げるのと、吐き気に敗北するのは、ほぼ同時だった。

 ひとしきり戻している間に、航一は激しい腹痛も感じていた。

「大丈夫?」

 レテがユニットバスのドアを開けて覗き込んだ。オレンジ色の常夜灯を背景にレテのシルエットが浮かび上がり、少し不気味な様子を醸し出していたが、今はそれどころではなかった。

 航一は慌ててドアを閉め、手で口を押さえながら声を絞り出した。

「吐き気と、腹痛が……」

「そう、何か必要なら、言って。ここにいるから」

「すまん……」


そのあとは、地獄だった。

 胃の中のものがすっかり空になっても吐き気はおさまらず、便座を抱えてうずくまるしかなかった。そしてその間にも猛烈な腹痛からの下痢もとまらない。水を流す間もなく次の嘔吐感に襲われ、冷や汗が吹き出してくる。喉の渇きで水を飲みたいが、冷蔵庫まで持ちそうになく、洗面台の水道水をそのまま飲むが、それがさらに吐き気に繋がり——

「何かに、当たったか……」

 航一は便座に座ったまま独り言を絞り出した。

「夕飯のシチューとパンは買ったばかりの材料。加熱もしてあるから、考えにくいと思う。当たり前だけど、私はなんともない」

 レテはドアを少しだけ開けて冷蔵庫にあったペットボトルの水を差し入れた。

「すまん……ひどい匂いだろう」

「私は平気。着替え置いておく。着替えたら汚れた服は外に出して。体温も測ってみたら?」

 レテは替えの下着とシャツ、それと体温計もドアの隙間から差し出した。


 航一は朝まで一睡もできなかった。吐き気と腹痛がずっと続き、徐々に熱が上がってくると同時に体の節々が痛くなってくる。少しだけ開けたドアの隙間から漏れる明かりから朝が来るのを感じながら、絶望的な思いでトイレにしがみついているしかなかった。時間の感覚がだんだんなくなってきていた。到底出社はできそうもないと思った時、外にいたレテがまたドアの隙間から水を差し出した。

「いつもなら家を出る時間だけど、おそらく無理ね。ところでTeamsに休みの連絡が三人来てる」

 勤怠連絡用のチャネルを見ているらしいレテの声は気のせいか楽しそうだった。

「二課の大高さんが夜間往診でノロウィルスによる急性胃腸炎の診断。一昨日の歓迎会で何か当たったみたい。きっと航一もそう、症状が同じだもの」

「……牡蠣だな。生牡蠣が出た」

「航一も食べた?」

「あぁ。ほとんどみんな食べてたはず」

「そしたら休みの人は増えそうね」

「そうだ、もう一人追加だ……スマホを持ってきてくれないか」

 航一は便座に座り込んで突っ伏した。

「——いま航一のアカウントから連絡入れた」

「あ、あぁ。ありがとう」

「タオル出して、洗濯するから」

 レテは代わりのタオルを差し出した。

「すまない……」

 洗濯機が動き始める音を聞きながら、航一は吐き気に耐えるしかなかった。


結局、吐き気と腹痛がひと段落し、ベッドに横になる余裕が出たのはその日の昼過ぎ、日が傾きかけた頃だった。しかしそれでも夜まではベッドとトイレを三十分おきに往復するような状態のままで、ようやく落ち着いたのは夜になってからだった。

 吐き気がおさまったのは土曜の夜、その翌日の日曜日はひたすら寝続け、夜になってようやく口に物を入れることができるようになっていた。

 レテの作った粥をすすり、人心地がついた航一はしみじみと口を開いた。


「色々すまなかった。お前がいてくれて助かった。ありがとう。つまらんことをさせてしまったな」

「問題ない。家事をするのはここにいる条件に入っていたはず」

「そうだが、しかしこんなひどいのまでは——」

 航一はテーブルの脇のボトルガムの容器を手に取るが、中身はなかった。

「ごめんなさい。私が食べた」

 レテは航一の顔を見ると、自分の口に指を入れてガムを取り出す。そして指で半分ちぎり、航一の口の前に黙って差し出した。

「……それは、ちょっと」

「なぜ?別に汚くはないでしょ?私は人間じゃない、航一はいつも言ってる」

 航一は一瞬躊躇したが、ガムを受け取ると口の中に放り込んだ。

 ガムは、いつもの味だった。

「確かにお前は人間じゃない。今回はそのおかげで本当に助かった。感謝してる。だけど——」

「だけど?」

「だけど、見た目が人間すぎるんだよ。そもそも何でそんな、女の体にしたんだ。性自認はないって前に言っていただろう」

「SNSを見た。若い女性は社会で歓迎される。たとえば私が中年男性の姿で航一の前に現れたら、ここに置いてくれた?」

「……確かに、どうかな」

「だったら最適の選択でしょう。それにこの姿は航一の好みに合わせてある。身長以外は。ダメだった?」

 大きな瞳でレテは航一の顔を覗き込んだ。

「そう……なのか?」

 航一は絶句した。

「そう、航一のSNSの行動を見て決めてある」

 レテは笑った。以前に見せた完璧な笑顔から、ほんの少しだけずれた自然な笑顔に、航一は胸の高鳴りと同時に、背筋が寒くなるのを感じていた。

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