偽ケルベロス
〈その雪ははだれを殘すこともなし 涙次〉
【ⅰ】
或る日の事。牧野は、カンテラに教へを乞うてゐた。
「地獄と魔界つてだう違ふんですか?」これ迄に事務所メンバー共通の知識としてあつたものを、牧野は知らない。ふと思ひ立つて、お勉強してみやう、と云ふ牧野。
「地獄=冥府は、死者各人が心に持つものだ」「ふむふむ」「魔界は、嚴然と存在してゐる。そこが違ふ」
「なる程」分かつたやうな、實は分かつていないやうな、そんな心許ない牧野である。
【ⅱ】
そんな「お勉強」が役に立つ、事件が起こつた。
テオ「兄貴、大變だ! 偽ケルベロスが現れた!!」カンテラ「何!?」
訊けば、三つの頭部を持つた猛犬、火を噴きながら、道行く人々の首に嚙みつき、死者の遺骸が累々と折り重なる、それに更にその猛犬が炎を吐き掛け、さながら地獄絵圖だと云ふ。
牧野「偽、なんですか?」カンテラ「今その説明をしてゐる暇はない。行くぞ!」
【ⅲ】
處は新宿のど眞ん中。JR新宿駅の前の交差點だと云ふ。さぞかし大パニックが起きてゐるだらう、と豫測された。
カンテラ「偽、と云ふのはな... そのオリジンとなつてゐる者は、冥府にゐたのだ- それは人に害をなすやうな事はしない。だが『偽』は、魔界の者。人を襲ふ【魔】なのだ」牧野「はあ」
道々説明を受けたが、まだ牧野、釈然としないらしい。
ケルベロス。ギリシア神話上では、冥府の番犬、となつてゐる。偽、がさうであるやうに、三つの頭部を持ち、炎を吐く巨大な猛犬、である。だが、彼は、彼の役目に忠實であり、人を無闇に傷付けたりはしない。
(ルシフェルと云ふ飼ひ主のゐなくなつた)偽、の方は、魔界の【魔獸】なのだ。人命を狙ふ、魔物である。謂はゞケルベロスにそつくりなコピーが、この日本、東京の中心地で暴れてゐる-
機動隊の隊員たち、消防庁のレスキュー隊員たちが事に当たつてゐたが、彼らには魔物退治のノウハウが欠けてゐた。たゞ、人々の通行の制限をしてくれたので、それが幾らか役には立つてゐる。
じろさんが現場で待つてゐた。肉の焦げる臭ひがした。「おゝ、カンさん。フル連れてきてくれたか」牧「? 俺何か役に立てるんスか?」カ「まあいゝ。兎に角、接近してみやう」牧「怖いな」
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〈犬ゐたり番犬職務忠實にこなして我と思ふ事なき 平手みき〉
【ⅳ】
暴れ狂ふ偽ケルベロス。百戦錬磨のじろさんでさへ、手の付けやうがない。機動隊員のジェラルミンの盾を借りたのだが、たゞ近付いただけでは、魔獸退治は出來ぬ。
そこで、「龍」、である。魔獸同士の對決。そこに牧野の出番があつたのだ。
じろさん「フル! ちと惡いが、締めさせて貰ふぞ」牧野「???」じろさん、裸締めで、牧野を「落とした」。口から、例により怒濤の勢ひで、片目の龍が立ち昇る。「何カ用カ、かんてら?」「おう、遷姫さん、ちと力貸してくれ」
龍が口から放水する。解説する迄もなく、龍は水のスピリットなのである。偽ケルベロス、炎を消されてしまひ、たじたじとする。そこを、
「しええええええいつ!!」三つの頭部を、カンテラ、断頭吏の如く、綺麗に刈り取つた。
「わあ!!」連係プレイの見事さに、覺えず居合はせた大群衆からぱちぱちと拍手が卷き起きる。「怪獸ものゝ映画みたい!!」「いゝもの見たな!」ばつちりテレビ中継も、で、無論、全国區のヒーロー集團なカンテラ一味。だが、現に被害者が出てゐる、とあつては、さしものカンテラも、ぺこり、とお辞儀するに留めたのだつた。
【ⅴ】
「う~ん、」牧野がじろさんに活を入れられ、意識を取り戻した。「あれ、俺の出番は?」「もう終はつたよ」「なんだ、『龍』か」「それ以外に何があるんだ、え!?」じろさん呆れてゐる。
警視庁より特別報奨金、2千萬圓、有難く頂戴したカンテラ一味。さて、今回も見事解決... と思ひきや。牧「じろさん、『古式拳法』おせーて下さいよお!」じ「あーうつさいうつさい、お前、素質ないからイヤだ」ちやんちやん。
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〈春雪は消えて己れを語るもの 涙次〉
お仕舞ひ。