林檎
静かな室内で、彼女の息だけが聞こえる。
ベットの横に腰掛けた私は彼女の閉じられた瞳を見た。規則正しく動く胸は肋骨が浮きでるほど細く、今にも折れてしまいそうだ。顔は骨張っていて、痩せこけている。誰が見ても、今すぐ死ぬと言うだろう。
ここ2、3年彼女はよく咳をしていた。風邪か、と聞くと大丈夫ですよ。と笑って流していた。そして、寝ていることも増えた。町1番の医者を訪ねた、首を横に振られた。彼女には手の施しようがないらしい。
原因など、忘れてしまった。もう治せないということしか私は覚えていない。
そこからは彼女と話すことは減ってしまった。
彼女は一日の半分を寝て過ごした。
飯は食べる日も食べない日もあった。食べても、ほとんど食わなかった。
元々細身ではあったが、骨が見えてくる程に痩せてきている彼女はそれこそ骸骨のようだった。
今も、細い骨を上下させている彼女の瞳は閉ざされている。ここ最近は一日に3時間ほどしか起きていない。
彼女はやはり私を置いていくのだろうか。置いていくだろう。何故、置いていくのだろう。
私には彼女しかいないというのに。母は死に、父は行方も知らぬ。家族という温かみは、彼女でしか知らない。たった一人の家族も、連れて行ってしまうのが天なのか。
長いまつ毛は開くことがない。死んでしまったのかと思うが、彼女の息がそれを否定している。ふと、久しぶりに彼女に触れたくなり、手を伸ばして髪に触れてみた。風呂に入るのも困難なため、髪は拭くことしかしていない。彼女の髪はそれでも指通りが良かった。絹のような黒い髪は、何も変わっていない、昔のままだ。
まつ毛が震えてその瞳が見えたのは何日ぶりだっただろうか。彼女は微睡みの中にいながら私を見るなり微笑み腕を広げた。私は優しく倒れ込むように彼女の腕に包まれた。彼女は起きて私を見る度にこうするのが好きなようだった。
安心する温度は昔より下がった気がする。
彼女は昔の話をした。
一目惚れだったこと、料理はたくさん練習したこと、紅茶を淹れる時に砂糖を多めに入れていたこと。
妻が話を辞めた時、私は起き上がった。彼女は少し寂しそうな顔をして腕を離した。
けれど彼女は私の手を取って指を絡めてきた。
幸せそうに頬を赤らめる彼女はそれこそ若い時と同じである。何回か私の手を握ると彼女は瞳を閉じてしまった。寝てしまったのかと思えば私の手に口付けをした。瞳を開けると彼女は朗らかに笑った。そして、また抱きしめてきた。先程より強く、存在を確かめるように、ひとつになるように。そして彼女は徐に私を離し優しく瞳を閉じた。
彼女の細い骨は、動いていなかった。
私は彼女を抱きしめてみた。ぬるい肉にもう彼女はいない。もう行ってしてしまおうかと思った。なんせ彼女はもう居ない。この世にあるのは彼女の軌跡と冷たい肉だけである。
自室には拳銃があったはずだ。さっさと終わらせて彼女の元に向かいたい。
足早に自室に向かい、灰皿の横に銃を見つけた。弾が入っているのを確認して妻の元に向かう。
死ぬ時も一緒が良かった。
寝室に向かうと妻の横には異質なものがあった。色がないこの部屋の一つだけの彩。
赤い色に丸い輪郭の、林檎だ。
気づけば手に持っていた。ずっしりとしていて身が詰まっているのがわかる。
美しくあまい赤は目の前を埋め尽くした。香りも強く香る。
私は今すぐそれに噛みつきたい欲求に駆られた。あまい香りは私を手招きしているようだった。
しかしそれと同時になぜか噛んでしまってはいけないという声が聞こえた。
こんなにも美しく甘美であろうものを味わえないなんて。
渦巻く視界は理性などというものをすぐに薙ぎ払ってしまう。
私は彩を口にした。
異様なまでの香りと瑞々しさは久々の幸せであった。甘い、美味い。美しい。愛おしい。
一口、甘さの中の苦味も、私を彩る色だった。
一口、皮の味も私を豊かにした。
一口、茎の部分も甘い、甘くないところはないのだろうか。
一口、一口と噛み砕いては喉に流し込んで、その香りと味を貪っていった。
気づけば手には林檎が残っていなかった。
それに気づいた時。私は狭い部屋の中で彩りを探し回った。何度も何度も見たが見つからない。そんなものは最初から無かったかのように。
ひどい絶望だった。もう息などしなくてもいいと思うほどだった。
ふと拳銃のことを思い出した。床に転がっていたそれをとって、弾の確認をして、口の中に入れた。
少し震える手は私を嘲笑っているようだった。
りんごは、あまりにも甘美であった。そういえば毎日妻に出していた林檎は普通だったが、彼女は美味しそうに食べていた。以前は残していたが、病にかかった後唯一、それだけは残すことがなかった。
食べた後はいつも口が膨れていた。そのくちびるが美しくて、私は好きだった。
一息ついて、引き金を引いた。
繋がった手を強く握ってしまったのは、許してほしい。
肺炎になった妻はもう長くはないのでアレルギーである林檎を食べ始めます。
また、私(主人公)が林檎を食べているのは彼女を殺しているからです。